2008年12月28日日曜日

説教集B年: 2005年12月28日、年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19.
 Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 神の御子イエスを中心とする聖家族を特別に崇敬することによって自分たちの家族精神を浄化しよう、その精神の上に神の恵みを祈り求めようとする信心は、一部の地方ですでに17世紀に始まり、人間中心の合理主義的啓蒙主義が18世紀にヨーロッパ各地で盛んになり、それまでの家族の温かい結束が乱され始めると次第に広まったようですが、教皇レオ13世は1893年に任意の祝日として定め、推奨しています。その後第一次世界大戦によってヨーロッパ社会の伝統が崩壊し、民衆の力で新しい社会を築こうとする機運が高まり、共産主義やその他の思想が広まり始めると、教皇ベネディクト15世は1921年にローマ教会の典礼に導入し、それ以来全世界のカトリック教会で祝われるようになりました。その時は1月6日の主の公現祭後の最初の日曜日に祝われていましたが、1969年の典礼暦改定後は主の降誕祭後の主日に祝われることになりました。ただし、今年の場合のように降誕祭が日曜日と重なり、年末までに日曜日がないときは、12月30日に祝われることになっています。その場合には主日ではないので、朗読聖書は二つだけとなります。
② 本日の第一朗読は、典礼の上では創世記15章から選ぶことも、ヘブライ書11章から選ぶこともできますが、このミサではヘブライ書から朗読してもらうことにしました。ヘブライ書11章は、「信仰とは、希望していることの保証、見えないものの確信です」「信仰によって私たちは、この世界が言葉によって創造されたこと、したがって、見えるものは現われ出ているものから生じたのではないことを知っています」という言葉で始まって、アベル以来の旧約時代の信仰の模範を列挙しています。本日の朗読箇所は、そのうちのアブラハム関係の所からの引用です。神の声を聞いたアブラハムは、その声が自分を実際に幸せに導くものであるかを確かめようとして従ったのではなく、自分に語りかけてくださった神の愛に信頼し、これからの旅の行き先も知らず、自分の将来に何があるのかも知らずに出発したのでした。神の招きの声に従って人生の旅を続けているうちに、神はアブラハムのその信仰実践に応えて、次々と遠い将来に、自分の子孫だけではなく全人類に与えられる大きな祝福を約束してくださいました。しかし、それがいつどのようにして実現するのかは、人間の側からは全く知る由もありませんでした。人間理性にとってはすべてが深い闇に包まれていて、限りなく不安な人生であったかも知れません。
③ でも、こうして神からの約束、神から与えられる夢のような祝福をひたすら信じ希望して、日々の労苦を神に捧げつつ生活しているうちに、アブラハムの心は次第に、自分が目に見えない神から特別に愛され、いつも神に見守られ伴われていることを、数多くの体験から確信するに至ったのではないでしょうか。神に信頼し切って生きているアブラハムのこの骨太信仰に感化されて、妻サラも甥のロトも神の御旨中心主義の生き方を次第に体得するに到り、一族はどんな試練に出遭っても堅く団結し、その試練を乗り越えることができたのではないでしょうか。カトリック教会が聖家族の祝日の聖書朗読にヘブライ書のこの箇所を選んだのは、家族の成員の団結も一致も本当の幸せも、各人が神の愛に信頼し、神の導きに従うことを万事に優先させることから生まれることを教えていると思います。聖母マリアも聖ヨゼフも、そして成長して自主的判断ができるようになった主イエスも、いずれも父なる神の人類救済の御旨に従うことを万事に優先し、そのためその日その時の神の導きに従うことに努めていたと思われます。私たちの修道家族の団結と一致と幸せも、各人がこの一事に励むか否かにかかっていると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の福音は、生後40日目の幼子イエスの神殿奉献の話ですが、律法に従って男子の初子を神に献げるため、聖母マリアと聖ヨゼフがエルサレム神殿に連れて来たら、エルサレムに住んでいた信仰の厚いシメオンという老預言者が、聖霊に導かれてちょうどその時神殿の境内に入って来て、その幼子がメシアであることを悟り、両腕に抱かせてもらって神を讃えたこと、神殿で夜も昼も神に仕えていた84歳の女預言者アンナも、その子がメシアであることを看破して神を讃え、救い主を待ち望んでいた人たちにこの幼子について話したことに、注目したいと思います。ここで聖書に「初子」とあるのを取り上げて、「初子」と言うからには、マリアはその後も子供を産んだのではないか、などと主張した人がいたそうですが、ユダヤ社会ではそんな意見は通用しません。一人っ子であっても「初子」と言いますから。日本でも「初孫が生まれた」といってお祝いしても、その後にも孫が生まれたとは限らないのと同様です。ついでながら、「イエスの兄弟」という言葉もユダヤ社会では広い意味で使われており、ヨゼフの兄弟姉妹の子供たち、すなわちイエスの従兄弟姉妹をも指しています。
⑤ さて、死を間近にした高齢のため、日々メシアを待望しながら祈りと断食に専念していたと思われる預言者シメオンとアンナは、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などからは離れて、精神的には神の民全体を自分の家族として愛し、生活するようになっていたのではないでしょうか。そして神から預言者たちを通してその神の民に約束されていたメシア到来の時は近づいていたので、死ぬ前にできればひと目神から派遣されたメシアに会いたいと願いつつ、祈りに励んでいたのではないでしょうか。エルサレムに住む二人の預言者は、当時の世俗化しているユダヤ教指導者たちが預言者的精神に欠けていること、しかし年毎にエルサレム神殿に来る巡礼団の中に、神の霊に生かされていない無力なユダヤ教の実態に満足できず、ひたすら神による救いを待ち望む願いが高まっていることを、鋭く感知していたと推察されます。シメオンが幼子イエスを胸に抱きながら神に申し上げた祈りと母のマリアに語った言葉とは、日ごろ預言者の心に去来していたそのような願いや心配などを反映していると思います。しかし、預言者たちは問題の多いその神の民を自分の家族として愛し、神が万民のために備えてくださったメシアがこの神の民の中に生まれ出ることで、この家族の中から異邦人を照らす啓示の光が輝き、それが神の民イスラエルの誉れになることも予見していたと思われます。
⑥ この推測が正鵠を得ているとしますと、二人の預言者に神の民全体との家族的連帯感を与え、祈りのうちに日々その連帯感や結束を強めていたものは、太祖アブラハムの場合と同様、神の啓示や働きに対する信頼、従順と愛と言ってよいでしょう。私たち修道者も、こうして歳が進んでみますと、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などは超越して、一緒に生活している修道家族に対する愛着が深まっていることでしょうが、しかしその段階に留まってしまわずに、主キリストと一致してもっと大きく神の民全体、人類全体のための家族的連帯精神にも成長すべきなのではないでしょうか。すべての家族的精神、家族的愛の源は神にあると思います。日々その神に祈っている私たちは、救い主の全人類的家族愛にも成長するよう心がけましょう。子供の心が悩み苦しめば苦しむほど、その子を愛する親や教師たちは一層愛に燃えると言います。現代の教会、また現代の人類が数々の問題を抱えて悩み苦しめば苦しむほど、私たちも主キリストと一致して、まずは祈りによる献身的愛の奉仕に努めましょう。その恵みを願いつつ、聖家族を崇め記念する本日のミサ聖祭を献げましょう。

2008年12月25日木曜日

説教集B年: 2005年12月25日、年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の第二朗読は、「神はかつて預言者たちによって、多くのかたちでまた多くのしかたで先祖に語られたが、この終りの時代には、御子によって私たちに語られた」という言葉で始まっていますが、ここでは、2千年前の神の子メシアの来臨が、すでにこの世の終末時代の始まりであることが教えられていると思います。マタイ福音書3章やルカ福音書3章で悔い改めを説いた洗礼者ヨハネの厳しい説教も、終末時代の到来を示しています。しかし、聖書によると、終末は神による恐るべき審判の時であると同時に、神による被造物世界の徹底的浄化刷新の時、救いの時を意味しており、それは、人となられた神の御子とその御子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、ゆっくりと実現するもの、長い準備期や成長期・変動期などを経てから実現するもののようです。ちょうど受難死と復活によって短時日のうちに完成したメシアによる救いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い生命的準備期・成長期・活動期などを基盤としているように。
② 聖書が、神の子メシアのこの世への来臨によってすでに終末時代が始まったとしていることは、注目に値します。本日の朗読箇所にある「神は、この御子を万物の相続者と定め、」「御子は神の栄光の反映、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」などの言葉を読みますと、私たちの生活しているこの病的な世界は、メシアの受肉によって根底からしっかりと神の御手に握られており、すでにゆっくりと栄光の世へと持ち上げられつつあり、その過程で発生する無数の善悪闘争や悲劇は、根の深い病気が癒される過程で生ずる各種の症状や痛みのようなものと考えても良いのではないでしょうか。救い主の復活のすぐ前に恐ろしい受難死があったように、この終末時代の終りにも、神により最後の恐ろしい苦難と試練が予定されているかも知れません。神の力によってそれらの試練に耐え抜くことができるよう、今から覚悟を堅め、心を整えていましょう。
③ 本日の福音は、この世に来臨した神の子メシアの本質が何であるかを教えています。それによると、赤貧のうちに無力な幼子の姿でお生まれになったメシアは、実はこの世界が存在する前から永遠に存在しておられる神であり、万物を創造した全能の神の御言葉、すべての人を生かす神の御命、すべての人を照らす神の光なのです。私たち人間が互いに話し合っている言葉とは違って、父なる神の発する言葉には、私たちの想像を絶する巨大な力と光が込められているのだと思います。この神の御言葉は、三位一体の神の共同体的愛の交わり中では永遠に力強く燃え輝いている光ですが、その神に背を向け目をつむる暗闇の霊とその支配下にある人々には理解されず、その暗闇に覆い包まれ、その勢力下に置かれて罪の世に呻吟している人々を救うために、神の御言葉は己を無にして本来の力と光を隠し、か弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中で、深く身を隠して臨在しておられるその神を、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのではないでしょうか。私たちの恐るべき終末の審判は、目に見えないながらすでに始まっていると考えるべきだと思います。
④ 神を無視し、何よりも自分の自由、自分の考えや望み・計画などを中心にして生きている人は、温かい世話を必要としている小さなか弱い存在、貧しい者の来訪を喜ばず、足手まといとして嫌がることでしょう。しかし、小さな者のかげに隠れて伴っておられる神は、万物の創造主、絶対の所有者で、私たちに何事にも神のため、神中心に生きるよう求めておられること、ならびに「私はねたみの神である」「どんな偶像も造ってはならない。それらに仕えてはならない」と厳しくお命じになったことを忘れてはなりません。神が「偶像に仕えてはならない」という言葉で禁じておられるのは、未開民族の間に広まっていた木や石で造った神々の像を崇めることよりも、現代人にも多く見られる、自分の富・名誉・社会的地位等々、万物の創造神以外のものを神のように崇め尊ぶ生き方を指していると思います。私たちも、そのような偶像を崇めることのないよう心細かに気をつけましょう。そのため、何よりもまず神の隠れた臨在に心の眼を向け、小さいものを大切になさる神に仕えよう、神のお望みに従おうと心がけましょう。そうすれば、思わぬとき、思わぬ形での神の隠れた来訪にも適切に対応することができ、ますます豊かに神の恵みに養われ、栄光から栄光へと次第に高く導かれて行くのを体験することでしょう。
⑤ 日本語の「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を指していると聞きます。太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、息のなくなることを死と考え、外的には真にはかなく見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。黒潮のように巨大な現代の国際化・流動化の流れにより、世界中の諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も社会組織も根底から突き崩され押し流されて、社会全体がますます暗い不安な霧の中に呑み込まれて行くように覚える終末期には、これまで生活の拠り所として来たものすべてが、真に頼りなく感じられるかも知れません。そのような世界的混沌時代には、社会や国家が形成され発展する以前の、神の護りと導きを願い求めつつ一日一日を生きていた原初の単純な人々の心に立ち帰り、隠れてこの世に現存しておられる神の息吹の力に生かされ、導かれようと心がけることが大切だと思います。
⑥ 「私は世の終りまであなた方とともにいる」とおっしゃった全能の神の御言葉、神の子の受肉は、霊的に今もなお続いている現実です。神の御言葉は、忽ち色あせて過ぎ去る木の葉のような人間の言葉とは違って永遠に残るものであり、私たちの生活に伴っていて、事ある毎に私たちの前に密かに現われてくる生きている神秘な存在だと思います。多くの人はそれを見ても、それと気づかずにいるのではないでしょうか。神の子の臨在を感知するには、花や鳥や四季の移り変わりなどに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きの微妙な動きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスだと思いますから。私たちがそのような「心の信仰」に生き、神の力と御保護とを豊かに受けることができるよう照らしと導きとを願いつつ、神の子の来臨に感謝する本日の「感謝の祭儀」を献げましょう。

2008年12月24日水曜日

説教集B年: 2005年12月24日、年降誕祭夜中のミサ (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の後半に恐ろしいアッシリアの支配下に置かれ、絶望的な闇の状態に置かれているガリラヤの民が、大きな希望の光を見るに至ることを預言しています。紀元8世紀に破竹の勢いでオリエント諸国を征服し、サマリアをも征服して、エルサレムを襲撃する気配を示していた凶暴なアッシリア帝国の大軍を、神の救う力に頼っている預言者イザヤは少しも恐れずに、神がその支配を粉砕してくださることを予見し、ただ今朗読された神の言葉を書きました。「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者たち」とあるのは、そのすぐ前に「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とありますから、アッシリアの支配下に呻吟しているガリラヤの人々を指していると思います。神は「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」すべて折ってくださるのです。かつて士師ギデオンが、侵攻して来たミディアン人たちを打ち破った時のように。
② ここで預言者イザヤの予見は、間もなくアッシリアの支配から解放されたガリラヤの民衆から離れて、悪魔の支配下にあって、罪と死の内的暗闇の中で呻吟している無数の人々、全人類にまで思いを馳せ、その人々のために神から派遣された一人の男の子が生まれることを預言します。神の権威がその肩にあって、その子はやがて「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と崇められ、その王座と王国、また平和は永遠に続くこと、万軍の主であられる神がこれを成し遂げられるのであることも、預言します。ガリラヤの民をアッシリアの支配から解放して下さった神は、この男の子によって全人類を悪魔の支配、罪と死の闇から解放して下さることを預言しているのだと思います。イザヤが預言したこの男の子が、2千年余り前にベトレヘムで誕生なされた救い主イエスであります。
③ 今宵のミサで、私たちはその男の子の誕生を祝いますが、それは2千年前の出来事の単なる記念ではありません。この世の万物を時間空間の枠組みの中に創造なされた全能の神は、被造物であるその枠組みの外で全存在の中に現存し、それらの存在を支えておられる方であります。その神が、この世の時間空間を超越しているその世界から神のロゴス、神の御独り子を人間となして派遣なされた受肉の神秘は、特定の歴史的時間空間の中に生じたという意味では歴史的事実ですが、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいて、単なる歴史的出来事ではありません。19世紀の著名なデンマーク人のプロテスタント神学者キェルケゴールは、こういう出来事を「絶対的事実」と呼んで、歴史的探究からはイエスが神であるという結論は導き出せないとしても、神からの啓示を素直に受け止める各人の心の信仰、心の意志によって、その歴史的不確実性は乗り越えることができるので、神の啓示を信ずる人には、その出来事は「今ここに」確実に現存する事実となるのである、と説いています。
④ カトリック教会もこの教説を受容しています。第二ヴァチカン公会議後に導入された第四奉献文には、聖変化の直後に「聖なる父よ、私たちは今ここに贖いの記念をともに行って、云々」という祈りがあります。ここで「今ここに」の言葉を入れたのは、時間空間の制約を超えて実際に現存する神の絶対的事実を想起させるためであると思います。本日私たちも、信仰によって幼子イエスが霊的に私たちの心の内にお生まれになり、現存してくださることを堅く信じましょう。12月16日までの待降節はメシアの再臨を待望しつつ救いを願う典礼になっています、と申しましたが、待降節最後の一週間は、同じ救い主の私たちの心の中での霊的誕生のために、心を準備し整えるための典礼と申してもよいと思います。今宵の聖体拝領のとき、聖母マリア、聖ヨゼフと共に神の御子を感謝の心で迎え入れ、慎んで深く礼拝し致しましょう。粗末な私たち各人の心は、いわばその幼子を迎え入れるまぐさ桶のようなものかもしれませんが、救い主はどんな所をも厭わずにお出でくださるのですから。
⑤ 本日の第二朗読では、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れ出ました」という言葉に続いて、その恵みが私たちにどうするようにと希望し教えているかが、述べられています。そして最後に、「キリストが私たちのために御自身を捧げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」とありますが、主が私たちの中にお生まれ下さったその目的について、少し考えてみましょう。「贖い出す」という言葉は日本人にはなじみ薄い言葉ですが、それは奴隷状態から解放することを意味しています。罪と死の闇の中に生まれ育った私たちは、不安と苦しみの絶えないこの不条理の世にあって嘆くことはあっても、自分が奴隷状態に置かれていることを自覚していません。しかし、神からの啓示によると、これが神が初めに意図された私たちの本来あるべき姿、あるべき状態ではないのです。小さな儚い存在である朝露でも、朝日に照らされるとダイヤモンドのように美しく輝くように、私たち人間の眼も顔も、神の愛を反映して喜びと感謝に美しく輝いているはずなのに、現実がそうでないのは、心の奥底がまだ神に背を向けていて神中心に生きようとしておらず、そこに自我中心主義が居座り続けているからではないでしょうか。
⑥ 神の子は私たちの心を、罪に穢れたその自我への奴隷状態から解放するために、か弱い幼子の姿で私たち各人の心の中に生まれて下さるのだと思います。私たち自身も、救い主の力によって自分の中の古い自我に死に、幼子のように素直な心で神中心に生きる決意を堅めながら、主の御聖体を拝領し、主の御降誕に感謝致しましょう。私たちは今の世の奴隷状態から完全に救い出されてみて初めて、救いとは何か、神が初めに意図された人間とはどういう存在であるのかを、はっきりと知るに至るのです。それまでは幾度神の恵みに浴しても信仰の闇は続くでしょうが、しかし、神の御子はすでにこの闇の世にお出でくださっているのですから、その現存を信じつつ、希望のうちに日々その神の御子と共に生きるよう努めましょう。
⑦ 今宵のミサの福音に登場するベトレヘムの羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを受けると、すぐに話し合ってから、急いでお生まれになった神の子を拝みに行きましたが、彼らのその対応について少し考えてみましょう。遊牧民の生活の現場で神の声を聞き、神に希望をかけながら信仰と愛と感謝に生きていた太祖アブラハムたちの時代と違って、社会形態も宗教形態も大きく発展し、人々が皆子供の時から神殿の境内や会堂でファリサイ派の教師たちから律法順守の教育を受け、神殿礼拝や会堂礼拝に参加しながら安息日を厳守しているような時代には、昔ながらのアブラハム的生活を続けていた羊飼いたちは、社会の人々から見下げられ、まだ誰の私有地にもされていない、町や村から離れた草地を経巡りながら羊の群れを世話するという、非常に苦しい生活を営んでいたと思われます。羊の群れは絶えず保護し世話しなければならない生きている財産・生きている生活の糧ですから、その生活の場から遠く離れて会堂礼拝などに参加することはできません。羊を襲う狼や盗人たちも出没していた時ですから、親が干草を集めたり羊毛を売ったりする仕事に忙しい時には、子供も羊の群れを監視してくれる大事な働き手です。羊が一頭迷い出ても病気になっても、貧しい一家にとっては困るのです。子供に宗教教育を受けさせることはできません。あるラビは、「羊飼いほど罪に沈んでいる職業はない。彼らが貧しいのは、律法を守らないからだ」と言ったそうですが、当時の社会形態・宗教形態の下では、律法を守りたくても守れず、ひたすら忍従しながら生きるのが、羊飼いたちの生活実態であったと思われます。
⑧ それだけに、彼らは互いに助け合い励まし合って、日々の生活の場で一心に神による保護と救いを祈り、羊の群れと家族と隣人に対する愛一筋に生きることで、あらゆる苦しみに耐えていたのではないでしょうか。当時の社会の最下層にあって、最も熱心に神による救いを祈り求めていたその羊飼いたちに、神の天使は真っ先に救い主誕生の知らせを告げたのでした。おそらく真夜中ごろの出来事でしょうから、彼らは交互に睡眠をとりながら、共同で羊の群れを守っていたのだと思います。天使と天の大軍による壮大な讃美を目撃した後、彼らは相談し合って、寝ている羊の群れをそのまま交互に監視しながら、交代で生まれたばかりの救い主を拝みに行ったのではないでしょうか。天使から彼らに与えられた「乳飲み子」という印は、同時に神ご自身、救い主ご自身でもありました。彼らは、聖母と聖ヨゼフに次いで、最初にその救い主を、人となられた神をじかに眺めて拝む栄誉に浴した人々であります。彼らは同時に、天の大軍による壮大なクリスマス讃美についての福音を、聖母と聖ヨゼフをはじめ、その後も出会う人々に語り伝えた最初の福音伝道者でもあったと思います。しかし、彼らはその後も会堂礼拝などには参加せず、自分たちの生活の場で一層大きな希望と感謝のうちに神を讃え、神信仰に生き続けていたと思います。これが、神から喜ばれる新約時代の生き方なのではないでしょうか。
⑨ すでに諸外国で問題になっているように、ミサを捧げる司祭数の激減のため、これまでの伝統的教会形態は、将来大きな改変を余儀なくされるかも知れません。しかし、日曜・大祝日などにミサに出席しないからと、その信徒の信仰を疑ったり見下げたりするようなことは固く慎みましょう。何よりも太祖アブラハムのように、自分の生活の場で神の働き、神の導きに心を向け、神と人への奉仕の愛に生きるよう努めましょう。神はベトレヘムの羊飼いたちを介して、私たちにもその生き方を求めておられると思います。

2008年12月21日日曜日

説教集B年: 2005年12月18日、年待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ.サムエル下 7: 1~5, 8b~12, 14a, 16. Ⅱ. ローマ 16: 25~27.
Ⅲ. ルカ福音 1: 26~38.

① 本日の第一朗読は、神の助けにより周辺の敵をすべて退けて、平安のうちに王宮に住むようになったダビデ王が、神の臨在する契約の箱が昔ながらの素朴な天幕の中に置かれたままなのを心配し、預言者ナタンに相談した話から始まっています。自分の住む王宮よりも立派な神殿を建立すべきではないのか、と考えたようです。ナタンも同様に考えたのか、王に「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と答えました。するとその夜、ナタンに臨んだ神の言葉が、本日の朗読の後半部分です。神はそこでダビデを「私の僕」と呼び、ダビデとその子孫、ならびにその王国のため、遠大な祝福の約束を披露なさいました。ダビデが死んでもその身から出る「子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。私は彼の父となり、彼は私の子となる」というお言葉は、将来ダビデの家系から世に出ることになるメシアのことを予告していると思います。
② 本日の第一朗読に続く箇所を読んでみますと、ナタンはこれらのお言葉をすべてそのままダビデ王に告げましたが、それを聞いた王は神の御前に進み出て、幾度も神を「主なる神よ」と呼び、自分自身を「僕」と称しながら、長い感謝の祈りを捧げています。そこではもう、神のために神殿を建立しましょうなどという、人間が主導権をとって神のために何かをなそうとするような言葉はなく、ひたすら神の御計画に感謝し、神の御旨に従って従順に生きようとする僕の心だけが輝き出ています。「ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、」「御言葉のとおりになさってください」など、このダビデの祈りに読まれる言葉に接していますと、神を「主」と崇め、自分をその「僕」あるいは「婢」として、万事において主の御旨を尋ね求めつつ、ひたすら主に従って生活しようとするのが、神に最も喜ばれる信仰の生き方であるように思われてきます。聖母マリアも救い主も皆、この生き方の秘訣を心得て、その模範を身を持って世に示しておられます。
③ ついでながら申しますと、西洋的キリスト教はそのままでは日本の人々に適合していないという理由で、日本の精神的風土や文化的特徴などを細かく研究し、現実のキリスト教をもっとその風土や特徴に適合したものに変えることができないものかと、さまざまの理論的試案を出している人たちがいますが、現実のキリスト教の形態がかなり西洋化していることと、それが日本人の精神的文化的傾向と大きく違っていることとは認めますが、しかし、人間が主導権を取って日本的キリスト教の形態を産み出そうとする試みには、私は賛成し兼ねます。まず、今ある現実のキリスト教の中で主キリストと徹底的に一致しようと努め、聖霊の導きに対する心のセンスを磨くことに努めましょう。そうすれば、聖霊が私たち日本人の心の中で働いてくださり、ごく自然に日本的な信仰生活・信心思想がそこから形成されるようになります。そういう日本人の数が増えるなら、それに応じて現実のキリスト教の形態も次第に日本人の精神的文化的特徴に適合したものになって行き、しかもそれは、他国の精神的文化的特徴ともバランスよく共存して、人類全体・神の民全体の一致共存にも大きく貢献するようなものになると信じます。これが、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ 17: 21)と祈られた、主の聖心に適う信仰生活であると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や」「信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」と書いていますが、「信仰による従順に導くため」という言葉に注目したいと思います。それは人間たちには知り得ない、神の内に深く隠されている御計画を、神がその僕・婢となって生きようとしている人たちに次々と逐一啓示しながら、今や全人類を救いに導きつつあることを指しており、救いに招かれている人たちには、神よりの恵みを自主的に利用しながら生きようとする生き方を脱皮し、むしろ神の僕・婢となって信仰による従順に生きるよう導いていることを意味していると思います。
⑤ パウロはその書簡の挨拶文を通常祈りの形で書いており、また度々送り先の信徒団のために祈っていることを伝えていますが、テサロニケ第一書簡の末尾には、珍しく「兄弟の皆さん、私たちのためにも祈ってください」と願っています。信仰に生きている人たちに祈ってもらう必要性を痛感していた時に書いた書簡だったのかも知れませんが、しかし、神の僕・婢として生きている人たちは、口には出さなくても、自分の人間的弱さを痛感させられて不安になり、自分でも一心に祈りますが、同時に他の人たちにも祈りを願いたい気持ちになることが少なくないのではないでしょうか。ゲッセマネで弟子たちに祈るようお命じになった時の主の御心境も、同様だったかも知れません。すべてを自分で計画し、自分にできる範囲で神のために働こうとしている人は、予想外の事態にでも直面しないかぎり、不安を痛感するようなことは少ないでしょうが、神の僕・婢として生きようとしている人は、自分でまだ全容を知らない神の御計画に従って生きよう、働こうとしているのですし、悪魔の攻撃に悩まされることもあるようですから、多くの不安や自分の心の弱さと戦いながら、ひたすら神の御力に頼って生き抜くことを、覚悟していなければならないように思います。しかし、神は多くの人の救いのために、そのような器の人、信仰の不安の中に逞しく生きる人を切に求めておられるのではないでしょうか。そういう人の中でこそ、神は豊かな実を結ばせることがおできになるのでしょうから。
⑥ 本日の福音に登場するヨゼフの婚約者マリアは、察するに全く一人で自分の部屋で祈っていた時に、突然どこからともなく入って来た男の姿の天使から挨拶され、非常に驚いたと思います。しかし、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活することを身につけておられたのか、マリアは驚くほど冷静に対応しておられます。本日ここで朗読された邦訳聖書では、「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」と天使に答えていますが、この言い方では、天使を介して伝えられた神の子出産という素晴らしい神の御計画に対して少し距離を置き、神の御計画に多少の戸惑いを感じているような印象を与えます。英訳も同様の印象を与えますが、そのせいか、私が神学生時代に読んだある著書の中でアメリカの神学者フルトン・シーン神父は、マリアのこの質問から、マリアは終生処女として生きようと決心していたのではないかと推察していました。しかし、ギリシャ語原文では「どのようにしてそうなるのでしょうか。私は男を知りません」となっていて、これは神の子を産む精子をどこから受けるのでしょうか、と質問した意味になっています。これが正しい訳ではないでしょうか。天使はその質問に答えて、「聖霊があなたの上に来て、いと高き方の力があなたをおおうでしょう」と説明していますから。
⑦ 全く思いもよらない大きな神秘を啓示されて、マリアの心はすぐにはその全体像を理解できなかっでしょうが、しかし理解できなくても、それが神の御計画、神の御旨と確信したので、すぐに「私は主の婢です。お言葉どおり、この身に成りますように」と承諾したのだと思います。日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けて生活しておられたから、冷静にまたごく自然に、この承諾の言葉を話すことができたのではないでしょうか。私たちも、ファリサイ派の人たちのように自力で神のために何かを成そうとするのではなく、聖母マリアの模範に倣って、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活するよう心がけましょう。この実践に努めていますと、神の霊の導きに対する心のセンスも次第に磨かれてきます。その恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。

2008年12月14日日曜日

説教集B年: 2005年12月11日、年待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 61: 1~2a, 10~11. Ⅱ. テサロニケ前 5: 16~24.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 6~8, 19~28.
① 待降節の第三主日は、フィリピ書4章4~5節の引用であるラテン語の入祭唱が ”Laetare (喜べ)” という言葉で始まっていて、昔からよく「 Laetare (喜べ) の日曜日」と言われて来ました。すでに待降節の務めも半分が過ぎて、嬉しい降誕祭が間近になったからでもありました。本日の第一朗読にも、「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る」という第三イザヤの言葉があり、第二朗読の始めにも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。云々」という使徒パウロの強い勧めがあります。神の全能に対する私たちの信仰と信頼を、日々感謝のうちに喜んで祈り生活することにより、実践的に表明するよう努めましょう。このような信仰と信頼の喜びがある所に、神も生き生きと働いて下さいます。
② 使徒パウロが第二朗読で「いつも喜んでいなさい。云々」と書いたのは、そのテサロニケ前書5章の前半に、夜の盗人のようにして突然にやって来る主の再臨の日に備えて目覚めているようにと説いた後の言葉ですから、「喜んでいなさい」という勧めにも、主の再臨を待望しながら、という意味が込められていると思われます。それに続く「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」という勧めも大切だと思います。救い主再臨の日は、察するにノアの日のように、多くの人が日々溢れるほどの快楽や遊びに囚われて神を忘れ無視している時代に、しかも社会的には極度に多様化と多元化が進展して、もはや誰一人その道義の乱れを取り締まることができないほど、内的精神的には暗いお手上げの状態になっている時に、大災害が突然に襲うようにして来るのではないでしょうか。そういう内的暗闇の時代には、人間理性で事態を理知的に分析して問題解決策を模索するよりも、私たちの心の奥底に与えられている神の霊の火を何よりも大切にし、神の預言、すなわち神からの呼びかけの声に従おうとすることが、大事になると思います。
③ 私が神学生であった時に聞いた話によると、ある聖人は「世の終りは非常に温かくなった夜が、急に冷える時に来る」と予言したそうですが、近年の世界の経済的豊かさとその反面の道義的乱れの深刻さなどを考慮しますと、これがその聖人の言った「非常に温かい夜」の到来ではないか、などと思うことがあります。しかし、終末的状況はこれまでにも人類史上に幾度も発生していますから、現代の状況もその一つで、主の再臨はまだ遠い将来なのかも知れません。でも、主は「その日は罠のように地の表に住む全て人に臨むから、いつも目覚めていなさい」(ルカ 21: 35,36) と命じておられるのですから、待降節にあたり、主がいつ来臨なされてもよいよう心の準備を整えていましょう。
④ いずれにしろ、パウロは本日の朗読の中でそういう時代に生きる信徒たちのためにも、「平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように」と祈った後に、「あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、云々」と祈りを続けています。以前にも話したことですが、ここで「霊も魂も体も」と、パウロが神中心に生きる聖なる人間、完全な人間を、霊と魂と体という三つの要素から構成されているように述べていることも、大切だと思います。自分の死が近い時や主の再臨が近いと思われる時には、日ごろ心の奥底に隠れている霊に主導権を執って戴き、霊の導きに従おうと努めるのが、弱い私たちに各種の困難に耐える力を与える賢明な生き方なのではないでしょうか。使徒パウロによると、私たち各人は皆「聖霊の神殿」なのですから。
⑤ 本日の福音には「彼は証しをするために来た」という言葉が読まれますが、ヨハネ福音書に描かれている洗礼者ヨハネは、神の子メシアを世の人々に証しするという自分の受けた使命のために、自分の人生の全てを捧げ尽くしていると思います。私たちも、自分の受けた修道者としての使命のために、これほど徹底的に自分を無にし、神の子メシアに捧げ尽くすことができたらよいと、うらやましく思うほどです。本日の福音に登場するエルサレムからの二つの使節団のうち、最初のものは祭司やレビ人たちから派遣された人たち、第二のものは、その人たちとは思想的に対立することの多かったファリサイ派に属する人たちです。これら二つの使節団がほとんど同時に荒れ野の洗礼者ヨハネの所に派遣されて来たことから察しますと、春の祝祭などでエルサレムに来る巡礼者たちの中に、ヨルダン川でヨハネから受洗した人たちが多く、エリヤ預言者のようにラクダの毛衣をまとい、腰に皮の帯を締めているヨハネを、民衆は神から派遣が約束されている預言者ではないかと考え始め、それが大きな話題になっていたのだと思われます。
⑥ 最初の使節団は、洗礼者ヨハネに対して三つの質問をします。「あなたはどなたですか」「エリヤですか」「預言者ですか」と。最初の質問に「私はメシアではない」と答えたヨハネは、その後の質問に対しても、ただ「ノー」と答えるだけで、自分がどういう人間であるかを明示しようとはしません。察するに、人間を社会的業績や権威者から受けた任命書や推薦状などにより、自分たちの味方か敵かと考えたり、受け入れるか否かを決めたり勝ちであった当時のユダヤ教指導者たちに、そんなこの世の判断基準から抜け出て、何よりも神秘な神からの直接的呼びかけに各人の心を目覚めさせるため、ヨハネはこのような答え方をしたのではないでしょうか。
⑦ 私たちも、この世の人たちの考え方や価値観に宗教を迎合させ過ぎないよう心がけましょう。神からの啓示を理知的な現代人に受け入れさせようとして、あまりにも平易に解り易く説明しよう、あるいはこの世の文化に適合させて説明しようとすると、その啓示の中核をなす理解し難い神秘や、人間に従順を迫る威厳に満ちた神の権威などが皆抜け落ち、魅力のない形骸や誤解され易い教えになってしまう虞があります。自分中心の考え方から脱皮できずにいる人たちには、むしろ「ノー」の返答を繰り返して撥ね付ける方が、却って相手のうちに理知的考えから抜け出て求める心を目覚めさせ、真の悟りへと導くのではないでしょうか。10年ほど前のことだったでしょうか、知人の大江真道牧師がこんな話を書いているのを読んだことがあります。教会堂の上に掲げてある十字架を指して「あれは何の印」と尋ねた現代の若者に、「ノーという印だよ」と答えたら、その関心を引いたそうです。誰にも解るように十字架の印の意味を説明するよりも、世俗の生き方を拒む「ノーの印」と答える方が、その人に理知的生き方の限界を自覚させ、神を信じ神に徹底的に従おうとする生き方の魅力を、感じさせるのではないでしょうか。
⑧ 最初の使節団が、「私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と言って尋ねると、ヨハネは漸くイザヤ預言者の言葉を引用し、「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である」と、神の深い神秘を感じさせるような返答を与えています。しかし、これは同時に己を無にして神の働きに徹底的に従順であろうと努めていた、洗礼者ヨハネの実践的自己認識だったのではないでしょうか。リジューの聖女テレジアはその自叙伝に、「私は幼きイエスの手まりです」と書いたことがありますが、私たちの心も神の御前で、何かこのような謙虚な実践的自己認識を持った方がよいのではないでしょうか。
⑨ ヨハネが第一の使節団に与えた答えをその場で聞いていた、ファリサイ派に属する第二の使節団は、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」と尋ねました。ヨハネはそれに対しても、頭で解るような理知的理由を挙げて説明しようとはせず、むしろ既に来て人々の間に隠れておられる神よりの人メシアに、また各人の身近での神の働きに、人々の心の眼を向けさせようとします。そして自分は「その方 (すなわちメシア) の履物の紐を解く資格もない」、その方に奴隷として奉仕する資格もない人間であると、再び一層深い神秘を感じさせる返事をしています。日ごろとかく目に見える法規や理知的利害に心を向けて生活し勝ちな私たちですが、待降節は、身近な小さな事・弱い人・苦しむ人などの中に隠れて、今も私たちの間に現存しておられる神の子、主キリストに対する心の眼を磨くべき時なのではないでしょうか。主に対する心の眼を磨く恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。

2008年12月7日日曜日

説教集B年: 2005年12月4日、年待降節第2主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 40: 1~5, 9~11.  Ⅱ. ペトロ後 3: 8~14.
 Ⅲ. マルコ福音 1: 1~8.

① 本日の第一朗読は第二イザヤ書 (イザヤ40~55章) の序曲とも言うべきもので、旧約聖書の中でも最も喜ばしい知らせを告げている箇所の一つであります。ミサ聖祭がラテン語で捧げられていた昔には、クリスマス前の九日間に毎晩 Consolamini, consolamini (慰めよ、慰めよ) という神よりの喜ばしい言葉が、美しいグレゴリアン聖歌のメロディーで歌われていましたが、その歌詞が本日の朗読箇所からのものです。聖歌隊の中でも最も声の良い一人が神に代って独唱するその懐かしい聖歌を聴くと、いよいよ降誕祭が始まる、という嬉しい雰囲気が聖堂内に溢れるのを覚えたものでしたが、今でもヨーロッパの古い修道院などでは、この聖歌が歌われていると思います。わが国の教会や修道院などで、グレゴリアン聖歌がほとんど歌われなくなっているのは、昔を知る者たちにとり残念でなりません。
② さて約半世紀のバビロン捕囚時代の終りごろ、神は預言者を介して言われた。「苦役の時は今や満ち、彼女 (神の民) の咎は償われた」「罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」と。そして「主のために荒れ野に道を備え、……険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。云々」と。神は更に、民にこの良い知らせを伝える者に次のように命じる。「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。云々」と。これらの力強い言葉は、いずれも既に数十年間異国の地で苦しい捕囚生活をさせられている神の民に、神による解放と新たな自由独立への希望を告げていますが、ここで「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、神に眼を向けさせようとする言葉に注目したいです。この世の現実だけに眼を向けていては、全てはまだ強大なバビロニア軍の支配下にあり、神の民の自由独立などという話は、現実離れの夢でしかないでしょうが、今主なる神にひたすらに信仰と信頼の眼を向けて揺るがないなら、その神の力が働いて下さるという意味なのではないでしょうか。信仰のある所に、神が来て下さるのですから。民が牧者のいない羊の群れのように、狼や猛獣に襲われ易い弱い集団であっても、本日の朗読の最後にあるように、神が羊飼いとなってその群れを養い、御腕をもって集め、小羊はふところに抱き、その母を導いて一緒に進んで行かれるのです。私たちも、今の世界が各種のテロ組織や巧みな詐欺・横領・窃盗などの横行でどれ程かく乱されようとも、目に見える現実だけに囚われずに、いつも神に心の眼を向けているなら、神の救う力が働いて下さるのを見るのではないでしょうか。
③ 第二朗読のペトロ後書については、ペトロ前書についてと同様、それが果たして使徒ペトロが書いた書簡なのか、またペトロの殉教後のおそらく1世紀末か2世紀初め頃に書かれたものではないのか、などという議論が聖書学者たちの間でなされていますが、ここではそういう問題に立ち入らずに、カトリック教会の古い伝統のまま一応使徒ペトロの書簡として、その記述内容から学ぶことに致しましょう。第二朗読は主の再臨の約束について述べていますが、それは、そのすぐ前の文脈を調べてみますと、「主の来臨の約束はどうなったのか。……全ては創造の初めからそのまま存続しているではないか」などと、主の再臨も世の終りも来ないのではないか、と言う人たちがいたからだと思います。
④ それでペトロはまず、「主の許では一日は千年のようで、千年は一日のようです」と、人間の一日と神の一日とは根本的に違っていることを説いた上で、神はなるべく皆が悔い改めるようにと、人間たちのために忍耐して、世の終りの到来を押し留めておられるのだと考えています。しかし、天が焼け崩れ、天体が火に包まれて溶け去る世の終りの来ることは決まっており、その日は盗人のようにして突然到来するので、その日にしみや傷のない者として、平和に過ごしているのを神に見出して戴けるよう励むことを勧めています。また私たちは神の約束に従って、今の世の全てのものが滅び去っても、義の宿る新しい天と新しい地に生きるようになることを待ち望んでいる、とも述べています。ということは、今の世の崩壊は神中心に生きようとしている人たちにとっては決して悲しむべきことではなくて、新しい遥かに素晴らしい世の始まりを意味しており、私たちはその日を待望しているのだ、ということだと思います。
⑤ 第二ヴァチカン公会議後の典礼改革により、待降節は12月16日までの期間と17日からクリスマスまでの期間との二つに区分され、前の期間には主の再臨を待望し、降誕祭直前の期間にはこの世への救い主の誕生を待望しつつ信仰に生きた昔の人々を記念し、その待望の熱心を祈りの内に追体験することになりました。主の再臨と聞くと、世の終りの恐ろしい大災害や最後の公審判のことだけ考えて、主の再臨を待望することにあまり意欲も喜びも感じないという人がいるようですが、主は世の終り前に激しくなる各種の社会的乱れや災害などに苦しみ悩む人々を救うために、救い主としてお出で下さるのです。主の再臨によって古い苦しみの世は消え失せ、遥かに美しい新しい世が始まるのです。待降節の前半は、その救い主の来臨を切に願い求め、待望する時だと思います。受精している鶏の卵は、3週間親鳥に温められると割れてひよこになりますが、新しい命は卵の中にいる間は将来のことは何一つ判らず、ただ信頼してひたすら成長するだけであると思われます。私たちも、今の世が将来どうなるかということは全く判らず、ある意味では卵の中のひよこのようですが、主のお言葉に信頼して大きな希望のうちに、救い主の再臨と新しい世界の始まりとを待っていましょう。この世のどんな混乱も災害も、この信頼と希望があれば耐え抜くことができます。
⑥ 本日の福音を記したマルコは、その福音書を預言書の引用から書き始めていますが、それは洗礼者ヨハネがその派遣が神から約束されていた神よりの人であることを示すためであると思います。ヨハネも、列王記下の1章に描かれているエリヤ預言者と同様に、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めて、悔い改めの必要性を力説し、悔い改めの洗礼を授けていました。悔い改めは、ヘブライ語では神に顔を向けることを意味している言葉だそうで、その意味では単に何かの原則や法規に背いた言行を反省して、後悔したり改心したりすることではなく、何よりも神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする「回心」を意味しているようです。洗礼者ヨハネ自身、己を無となしてひたすら神よりの声に聞き従おうとしていたのではないでしょうか。自分よりも後に来られるメシアについて、「私はかがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と語った言葉は、その心を示しています。ヨハネが水で授けた洗礼も、神の子の新しい命や力を与える洗礼ではなく、己を無にして神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする決心を固めさせる「回心」の洗礼であります。この洗礼は、神の子メシアがお授けになる洗礼、神の愛の火・聖霊を与える洗礼の恵みを効果的に受け、その恵みに生かされるための前提であり、既にメシアの洗礼を受けている私たちの内に聖霊の恵みが働くためにも必要なものだと思います。神の導きと働きに対する心のセンスを磨く絶えざる回心のため、決心を新たにして祈りましょう。

2008年11月30日日曜日

説教集B年: 2005年11月27日:年待降節第1主日 (三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ. イザヤ 63:16b~17, 19b, 64: 2b~7. Ⅱ.コリント前 1: 3~9. Ⅲ. マルコ福音 13: 33~37.

① 本日の第一朗読の少し前にあるイザヤ63章の1~6節には、悪の勢力に対する神の報復について述べられいますが、「私はただ独りで酒舟を踏んだ」「私は怒りをもって彼らを踏みつけ、憤りをもって彼らを踏み砕いた」などと、全能の神が降す終末の日の天罰には、この世のどんな勢力も無力であることが描かれています。しかし、そこでも「贖いの年が来たので」という言葉が読まれ、その恐るべき報復の日が同時に神による贖(あがな)いの日でもあることが示されています。本日の第一朗読は、神のそのお言葉を受けて、神による贖いに希望をかける人たちの祈りであります。
② 「主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です。云々」の言葉で神に呼びかけている祈りの人たちは、「あなたは憤られました。私たちが罪を犯したからです」と、自分たちが神に背いて罪に穢(けが)れ、罪の奴隷のようになっていることを告白していますが、しかし、その無力な自分たちを罪から救い得るのは、ただ全能の神のみであることを宣言して、その神を私たちの父、贖い主、粘土である私たちの陶工などと呼んで、ひたすら神による救いに希望をかけているのです。聖書に度々読まれる「贖い」という言葉は、私たち日本人にはなじみの薄い言葉ですが、それは奴隷を買い戻すこと、あるいはそのために支払う代金のことを指しています。イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放された神は、私たちをも贖い主メシアの功徳によって罪の奴隷状態から解放して下さる愛の神であります。本日朗読された祈りには「私たちは皆、枯葉のようになり、云々」という言葉がありますが、今の時期に唱えるのに相応しい祈りだと思います。外的にはますます豊かで便利になりつつある現代社会には、これからも怠慢・不信・欲望・詐欺などに由来する犯罪が増え続け、やがて神による大規模な天罰や大災害が世界を襲う時が来るかも知れません。その時、本日の朗読に読まれる祈りを忘れず、希望をもって神に祈るよう努めましょう。
③ 本日の第二朗読は、使徒パウロが自分の創立したコリント教会に宛てた最初の書簡の冒頭からの引用であります。当時のコリント教会は様々な問題を抱えていましたが、それらの問題に踏み込む前に、パウロはまず神が私たちに与えて下さっている恵みの力に、信徒たちの眼を向けさせているのだと思います。現代の社会も教会も様々の深刻な問題を抱えていますが、それらを私たち人間の理知的な立場で批判したり改善策を模索したりする前に、まずは神から与えられている恵みと私たちの使命などに心の眼を向けましょう。本当の問題解決は、そこから生まれて来ると思います。
④ 本日の福音には、「目を覚ましていなさい」という命令が3回、「眼を覚ましているように」という言葉が1回登場しています。これは、世の終わりや終末的状況が迫って来た時に、主が私たちから一番求めておられる心構えではないでしょうか。では、目を覚ましているとはどのようにしていることでしょうか。私たちの体は、夜も眠らずに目を開けていることはできません。全く眠らずにいたら、弱り果てて病死してしまうでしょう。しかし、体は眠っていても、心臓や肺などは死ぬまで眠らずに働いています。ちょうどそのように、私たちの頭の働きや意識は眠っても、奥底の心すなわち無意識界は、死ぬまで眠らずに働くことができるのではないでしょうか。夢の世界に遊ぶというのも一つの働きでしょうし、寝ながらあの世の大気を静かに呼吸し、心の疲れやしこりを癒すというのも一つの働きでしょう。では、福音の中で主が強調しておられる「目を覚ましていなさい」の命令は、心のどのような働きを指しているのでしょうか。
⑤ 本日の福音は、主が弟子たちの質問に答えて、エルサレム神殿の滅亡とキリスト再臨の時の徴について語られた長い話の結びであります。2千年前のユダヤ人たちは、アレキサンダー大王やローマのポンペイウスが大軍を率いて攻めて来た時も、神殿は破壊されなかったのですから、全能の神に護られるエルサレム神殿は永遠に続くと信じていたようです。ですから、紀元70年にローマ軍に包囲された時にも、多くの大きな硬い大理石によって築かれていた神殿に立て篭もりました。大理石は、数ある石の中でも最も風化し難い石で、外からの強大な圧力や水の力などにもよく持ちこたえることのできる石であります。しかし、「水に強いものは火に弱い」という諸葛孔明の言葉通りに、炭素(カーボン) の含有量が多いため火には弱く、ローマ軍によって火をかけられると、一つの石も石の上に残らないほど徹底的に崩されてしまいました。主はエルサレム神殿のこのような崩壊を予見しながら、弟子たちにエルサレムの滅亡と世界の滅亡についての話をなされたのだと思います。思っても見なかったその恐ろしい話に弟子たちの心は動転し、今の時の大切さを忘れてしまい勝ちになっていたかも知れません。
⑥ そこで主は最後に、今の時を無為に過ごすことがないよう、「目を覚ましていなさい」と繰り返し強調なさったのだと思います。主が世の終りについてのその話の中でも語られたように、「その時人の子が天使たちを遣わして、選ばれた人々を地の果てから天の果てまで全部集める」(マルコ13:27) のです。世の終りは、信仰に生きる人々にとっては救いの時、解放の時なのです。ですから、「目を覚ましていない」というご命令は、明るい希望をもって神の働きに信頼しながらその時を待っていなさい、何事にも隠れて見ておられる神の現存、神の働きや導きに心の眼を向けていなさい、という意味なのではないでしょうか。
⑦ 本日の第二朗読にも、「あなた方は賜物に何一つ欠ける所がなく、私たちの主イエス・キリストの現われの時を待ち望んでいます。主も、最後まであなた方をしっかりと支えて、私たちの主イエス・キリストの日に、非の打ち所がない者にして下さいます。云々」という使徒の言葉があり、第一朗読には「主よ、….どうか、天を裂いて降って下さい。…….あなたを待つ者たちに計らって下さる方は、神よ、あなたの他にはありません」などと、どれ程罪に汚れていても失望せずに、神の救う力の全能に対する信頼が表明されています。私たちも、世の終わりの大災害に直面するなら、この罪の世の諸々の穢れと苦しみから徹底的に解放して下さる全能の神に対する、明るい信頼と期待の心で目覚めていることができるよう、今の生活も仕事も喜んで主にお捧げしつつ、神と隣人に対する愛の火を心に燃やし続けていましょう。そして日々神の働きや導きに対する心のセンスを磨いていましょう。それが、「目を覚ましていなさい」というご命令で、主が私たちに求めておられることなのではないでしょうか。

2008年5月18日日曜日

説教集A年: 2005年5月22日:2005年三位一体の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 34: 4b~6, 8~9. Ⅱ. コリント後 12: 11~13.  Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.

① 本日の第二朗読の終わりにある「主イエス・キリストの恵み、神の   愛、聖霊の交わりが、あなた方一同と共にあるように」という祈りの言葉は、ミサの始めの司祭の挨拶にも採用されていますが、新約の神の民が神の愛、聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成しており、一つ共同体として生きる使命を神から戴いていることを、私たちの心に想い起こさせます。私たちの信奉している神も、唯一神ではあっても決して孤独な神ではなく、三位一体という共同体的神なのです。おひとりだけの孤立した神でしたら、「愛の神」とは言えないと思います。他者には閉ざされた、おふたかただけの愛の神でもありません。お三方が互いにご自身を限りなく与え合っている愛の神なのです。その神の愛に参与し生かされて、一つ共同体となって神のため、全ての人のため、全世界のために生きるというのが、私たち神の民の使命ではないでしょうか。

② 「作品は作者を表す」と申しますが、三位一体の神の被造物の中には、よく注意して観察してみますと、三つが全く一つになっているものが少なくありません。例えば「火」には、物を燃やす強力な力と、闇を明るく照らす光と、寒さを排除して温める熱とが同時に存在し、全く一つになっています。同様に「太陽」にも、私たちの地球やその他の惑星を安定した位置に保持し支えてくれている強大な万有引力と、絶えず周辺を明るく照らして闇を駆逐し、地球上の無数の植物に光合成によって酸素を産み出させてくれている光線と、物資や生物を温め育んでくれている熱線とが一つになっています。もし仮に太陽がその力と光と熱の放射を止めたとしたら、私たちの存在も地球全体も、忽ち恐ろしい死の闇とマイナス 270度以上という極度の寒冷空間を当て所もなく彷徨うことになります。それらのことをいろいろと考え合わせますと、私たちの生活は、三位一体の共同体的愛の神に何らかの意味で似せて創られている、無数の相利共存的存在(すなわち相互に利益を与え合って共存する存在)に支えられており、私たち自身も同様に、三位一体の神の愛に生かされ支えられつつ、大自然界のその相利共存的秩序や生態系を大切にし、感謝のうちに神と全ての被造物に仕えるよう召されているように思います。いかがなものでしょうか。

③ ところで、三位一体の神を特別に崇め尊ぶために中世初期から一部の地方で祝われ、14世紀前半からは一般的に聖霊降臨後の日曜日に祝われることになったこの大祝日に当たり、主イエスが「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けなさい」とおっしゃった、この父と子と聖霊というのは、神の唯一の全く単純な神性とどう関連しているのであろうかなどと、私たちの分析的な人間理性で考えると、三位一体の神はこの世の知性では理解できない非常に大きな神秘だと思われます。古代教会には、この三位一体の奥義について人間理性に解り易く説明しようと試みた異端説が次々と現れたので、その度毎に公会議が開催され、信仰の統一と明確化が図られましたが、その結果、公会議教父たちによってこの奥義を説明するために「ペルソナ」という全く新しい用語が創られ導入されました。「ペルソナ」という用語は、元々ギリシャ悲劇などで役者が被る面のことを指しており、面を被った役者は、室町時代に日本で創作された能面を被った役者のように、素顔で登場するこの世の人ではなく、あの世に移った人の霊を示しており、面はその霊の役割や働きなどのシンボルだったようです。古代の公会議教父たちはこの「ペルソナ」という用語で、人間理性では理解し難い三位一体の神の内部における、父・子・聖霊の働きの相互関係を象徴的に示そうとしたのだと思われます。

④ しかし、ここで気をつけなければならないことは、後の時代になって「ペルソナ」という言葉は人間にも類比的に使われるようになり、英語ではperson と言いますが、例えば哲学者たちが「理性的本性の個別的実体」などという意味で使う人間のペルソナと、神のペルソナとは本性的に違っていることであります。人間のペルソナには自存する個別的実体という側面も伴いますが、三位一体の奥義を説明するために導入された本来の「ペルソナ」という概念には、そういう個別的実体という側面は全くなく、ただペルソナとペルソナとの愛の実存関係、協力関係だけしか内包していません。従って、私たち人間の知性にとっては理解し難い大きな神秘なのですが、同じ全く単一の神性の内部に三つのペルソナが相互に愛し協力し合って、存在し活動していることも可能なのです。

⑤ 主はその三つのペルソナを「父と子と聖霊」と表現なさいましたが、私たち人間には、父と子のイメージは何とか心に思い浮かべることができても、聖霊のペルソナとしてのイメージを思い浮かべるのは難しいです。そこでヘリベルト・ミューレンというドイツ人の神学者は、聖霊のペルソナを「我々」と表現して、近年多くの神学者たちの注目を引いています。父と子の相互関係から発出された愛の霊は、言わば「我々」というペルソナとなって、父と子を一つに結ぶ愛の命、愛の火に燃えていますが、神が創造なされた全ての被造物の中でも「我々」として内在し、内面から生かし支え導いて、神に所属する共同体にしているという神学思想です。聖霊は無数の人間のペルソナとは全く違う超越的神の次元にあるペルソナで、その次元から全ての事象や人々の背後にあって、「我々」として独自の全く自由な働きを展開し、神の下に統括しておられるペルソナなのではないでしょうか。

⑥ 私は数年前にこの考えを知り、深い感動を覚えました。聖霊のこのような内在は、ここでは詳述しませんが、聖書の多くの言葉にもよく適合していると思うからです。例えばルカ12章には、権力者たちの前に連れて行かれても、「どのように弁明しようか、何を言おうかと心配することはない。言うべきことは、聖霊がその時教えて下さるから」という主のお言葉がありますし、同じ主はご昇天の直前に、「父と子と聖霊の名において洗礼を授けよ」と命じておられます。これは、父と子と聖霊の愛の交流に受洗者を参与させ、私たち人間を神の愛によって生かされて生きる存在に高めようとする恵みを、意味している言葉ではないでしょうか。使徒パウロはアテネのアレオパゴスで、「私たちは神のうちに生き、動き、存在する」という前6世紀のギリシャの詩人の言葉を引用して、それを肯定していますが、私たちは実際、太陽の引力・光・熱よりももっと遥かに大きく三位一体の神の存在と働きに依存し、こうして日々の生活を営んでいるのではないでしょうか。本日は、神からのその隠れている絶大な恵みに感謝しながら三位一体の神を讃美し、その計り知れない神秘を崇め尊ぶ祝日なのではないでしょうか。

⑦ 始めに「新約の神の民は神の霊・聖霊の働きによって主キリストを頭とする一つ共同体を構成している」と申しましたが、最後に、この一つ共同体について、少しだけ考えてみましょう。これは、使徒パウロがコリント前書12章の中で、「全てのものの内に全てのことをなさるのは」同じ神の霊であることと、「あなた方はキリストの体であり、一人一人はその部分なのです」などと詳述している教えに基づいて申した話ですが、私は、キリストの体の部分とされている私たち各人は、現代風に言うなら、成人した人体に60億もあると言われる個々の細胞のような存在であると考えています。各細胞は、それぞれヒトゲノムと言われる人体全体の設計図のようなものを持っており、増殖機能・代謝機能・情報授受機能等々を備えて、かなり主体的に生存しています。しかし、より大きな生命に生かされて生きている存在であり、その生命から切り離されたら死んでしまう小さなか弱い存在であります。同様に私たち各人も、自分では自覚していなくても、より大きな神のいのちの内に生かされているのではないでしょうか。パウロは、その大きな神のいのちを「キリストの体」と呼んでいるのだと思います。その一つ共同体の中を自在に駆け巡って各細胞に必要な養分を供給したり、老廃物を運び去ったり、痛んだ部分を癒したりしてくれる血液は、聖霊の働きに譬えてもよいのではないでしょうか。三位一体の祝日に当たり、神のこのような隠れた働きに対する感謝の心を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を捧げましょう。

2008年5月11日日曜日

説教集A年: 2005年5月15日:2005年聖霊降臨の主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. 使徒言行録 2: 1~11. Ⅱ. コリント 12: 3b~7, 12~13. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.

① 本日の第一朗読の始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とある言葉は、大切だと思います。弟子たちは、主がご昇天の直前にエルサレムを離れないようにと命じて、「数日のうちに聖霊によって洗礼をうけるから」(使徒 1:5) とおっしゃったお言葉に従ってエルサレムに留まり、聖母マリアや婦人たち、「およびイエズスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈っていた」(使徒 1:14) のだと思います。神が計画しておられる五旬祭の日が来なければ、一同が心を合わせてどんなに熱心に祈り続けても、聖霊は降臨しなかったでしょうし、五旬祭の日が来ても、その時主のお言葉に従ってエルサレムに一緒にいなかった人には、聖霊は降臨しなかったと思われます。従って、今でもあの時のように心を一つにして熱心に祈れば聖霊は降臨する筈だ、などと考えることはできません。

② 私の学生時代に、ある説教者がそのように説いて、信徒たちの熱心を奮起させようと熱弁を振るっている説教を聞いたことがありますが、私は少し冷めた心でその話を聞き流していました。神の御旨の時でなければ、どんなに熱心に祈っても聖霊は降臨しないと思っていたからでした。神のご計画とそれに従う私たち人間の準備や努力とは、このような関係にあると思います。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という主の呼びかけについても、同様に考えてよいと思います。主が呼びかけておられるその時に、そのお言葉に従って新しい生き方に転向する人は、神の恵みを豊かに受けますが、その時怠っていて好機を逸してしまう人は、後でそのことに気づいて自力でどんなに努力しても、その時失った恵みの豊かさには達し得ないと思います。ですから、常日ごろ何よりも神の働きや導きに心の眼を向け、神のお望みの時にすぐにそれに従うことができるよう、祈りつつ準備していることが大切だと思います。自分の計画や自分の都合よりも、神からの指示や神のお望みに、何をさて置いても従おうとしているのが、主の僕・婢としての心構えであり、神よりの恵みを人々の上に豊かに呼び下す生き方であると信じます。主イエスや聖母マリアが実践しておられたそのような生き方を、現代の私たちも日々実践するよう努めましょう。

③ この東海地方では今年も春の好天に恵まれる日が多いようですが、私は都合がつく時には、そのような日によく数キロ乃至十数キロの散歩や遠足を致しています。3年前の5月3日にも、好天に恵まれて関が原近くの垂井町周辺の姫街道や東海自然歩道を十数キロ歩き、久しぶりに中天にさいずる雲雀の姿や、広々と何町歩も続く蓮華草の花畑を眺めて来ました。しかし、大型連休中なのに、農家の人たちは田植えやその他の仕事で、子供も総出で忙しく働いていました。祝日・連休というくつろぎたい人間側の都合よりも、自然界のリズムによって例年より少し早く訪れた温かい好天の日々を利用して働いていたのだと思います。自然界の草木も虫や鳥たちも、年毎に違う天候自然の動きに何よりも注目しながら、あるいは雨の降るのを忍耐強く待ち、あるいは例年よりも早く芽を出し卵を産むなどの営みをしているのではないでしょうか。私たちもそれに学んで、風のように目には見えない神の働きや導きに対する心の感覚を鋭くし、すぐに従おうとしている忠実な僕や婢の心を堅持していましょう。実際聖霊の導きや働きは、自然界の風のようにいつどちらから吹いて来るのか予測し難く、また突然変わることもあるので、その変化を見逃さないよう絶えず目覚め、気をつけていましょう。

④ 神の国へと召されている私たちキリスト者にとって、決定的なのは人間側の努力ではなく、神の働きであります。大洋を渡るヨットを想像してみて下さい。人間は自分の漕ぐ力によっではなく、自然の風や海流を利用して進んでいます。もちろん人間も目覚めて働いています。特に風の強い時や変わり易い時には、一瞬も休まず油断せずに、その風の動きに従っていると思います。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、賜物にも務めにも働きにもいろいろあるが、それらをお与えになるのも働かれるのも神である、と説いています。私たち一人一人は、神の働きの器、神の使者・協力者として造られ、召されていると思います。これが、キリスト教的人間観だと思います。杯やお椀などの中心は空の部分ですが、主のお言葉にもありますように、外側はどんなに綺麗に洗ってあっても、内側に汚れた欲望や利己的計画などがいっぱいに入っているなら、神の器としては使い物にならず、神から捨てられてしまうことでしょう。私たちも、神の器・聖霊の神殿として、何よりも自分の魂の内にいらっしゃる聖霊の現存を信じ、そこからの聖霊の風に心を向けながら、生活するよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音によりますと、聖霊が五旬祭の日に劇的に降臨する以前にも、復活の主は、既にその復活当日の夕刻に、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。聖霊の霊的な火を心に受けるということは、神から一つの新しい使命を受けることなのです。すなわちその火を自分一人のものとして心の奥にしまい込んだり覆い隠して置いたりしないで、積極的に自分の周囲の人たちの心を照らし温めることに努める、という使命を受けることなのです。

⑥ 人間性の罪と言われる、魂の奥底に宿る原罪に由来する心の弱さや悩みを抱えて苦しんでいる人はたくさんいますが、その人たちの魂をその原罪から解放し、罪を赦して下さるのも聖霊の火だと思います。罪は赦しの秘跡の時に告白すれば、聴罪司祭の赦しの言葉によって皆赦されるなどと、あまりにも外的法律的に考えないよう気をつけましょう。神が問題にしておられるのは、そんな外的法律的な違反行為ではなく、何よりも私たちの心の奥底に隠れ潜む罪の毒素であり、その罪から魂を浄化するのは、神の愛・聖霊の火であります。たとい聴罪司祭から赦しの言葉を戴いても、その赦しの恵みに相応しい心で神の愛に生きるよう努めなければ、その赦しの恵みは魂の中にまでは浸透できず、心はいつまでも元の木阿弥だと思います。私たちが日々の営みの中で、いつも聖霊の火を心の奥に燃やしつつ、出会う人々の心に神による赦しと平和の恵みを、また希望と喜びの光を伝えることができますように、聖霊による照らしと謙虚に仕える心とを願いつつ、本日の御ミサを捧げましょう。

⑦ 皆様もお聞きになったでしょうか、先週のラジオ深夜便に元東大教授で6年前に亡くなられた玉城康四郎氏の、「人類の教師たち」と題する7年前にも放送された話が、再放送されていました。玉城氏によると、古来人類の教師として崇敬されている釈尊もイエスもソクラテスも孔子も、その教えの内容を原典に遡って探求し吟味してみると、表面では宗教・哲学・道徳などと担当領域も、使う言葉や表現も異なってはいますが、結局は皆同じ大きな超越的霊の働きに目覚め生かされて語っています。それで玉城氏は、全人類諸民族が相互にますます密接に関係しつつある現代社会の諸問題を解決するため、これらの偉大な教師たちが等しく強調している生き方を新たに体得し広めることが緊急に必要になっていると、説いていました。私はその話を聞きながら、聖書に述べられている聖霊の働きのことを考えていました。聖霊はキリスト教会の中だけではなく、広く全人類の諸民族・諸文化の中でも旺盛に働いていると信じます。釈尊もソクラテスも孔子も、皆その聖霊の働きに生かされ導かれてその教えを残されたのではないでしょうか。玉城氏の踏み込んだ研究と提案に感謝しながら、私たちも小さいながら、争い悩む現代の諸国・諸民族の救いのために聖霊の導き・働きに一層心を込めて従うよう励み、またその恵みを全人類の上に願い求めましょう。

2008年5月4日日曜日

説教集A年: 2005年5月8日:2005年主の昇天(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒言行録1: 1~11. Ⅱ. エフェソ 1: 17~23. Ⅲ. マタイ福音 28: 16~20.

① 五月の第二日曜日を「母の日」として祝う慣習が全国的に広まって定着していますが、戦後のわが国で能力主義教育だけが強調され、心の教育が軽視され勝ちであった風潮の中で、多少なりともバランスを取り戻そうとして広まったのかも知れません。しかし、母子の愛が冷えている家庭が今なお少なくないようですから、せめてこの「母の日」に、子供たちが単に言葉で母に感謝し、プレゼントするだけの行事ではなく、その心が自分を生み育ててくれた母の存在と愛にあらためてもっと深く目覚めるように、また母親たちの心にも新たに母性愛が深まり成熟するように、本日のミサ聖祭の中で神の霊の照らしと導きとを祈り求めましょう。

② 本日の福音には、問題となる表現が一つあります。11人の弟子たちがガリラヤの山で復活なされた主と出会って伏して拝んだ後に、ギリシャ語原文によると、「しかし、疑った」と続いている言葉です。それ以前に何度も復活の主に出会って、もう主の復活を確信していたと思われる弟子たちなのに、ここでは主を伏し拝みながら疑ったとあるのは、少しおかしいのではないかという疑問からか、ラテン語訳の聖書は、「しかし、ある者たちは疑った」と訳しかえ、多くの訳書はそれに従っており、日本語の共同訳でも「しかし、疑う者もいた」と訳しています。これについて聖書学者の雨宮慧神父は、ギリシャ語の「疑う(ディスタゾー)」という言葉は、語源から見て、「二つの方向に歩む」という意味を持つので、弟子たちの心は主に出会って、二つの思いに分かれ戸惑うような試練を体験したのではなかろうか、と解説しています。雨宮神父によると、マタイは他にも一度14章に、水上を歩いて主に近づいたペトロが風に荒れる波を見て溺れかかった時、主が同じ言葉を使って、「なぜ疑ったのか」と叱責なされたように書いているので、ペトロの信仰心の奥に、まだ眠っている心の側面に活を入れて徹底的信仰へと立ち上がらせるための叱責であったと思われます。としますと、この「ディスタゾー」という言葉は、弟子たちの信仰に揺さぶりをかけて、それを一層深く固めさせる試練の時に使われる言葉であると思われます。主のご昇天直前の場面でも、11人の弟子たちが皆一瞬心の中にそのような一時的試練を体験し、そこに主が近寄って話し始めると、すぐその試練から解放され、一層徹底的に主に従う心になったのかも知れません。

③ 主はここで、弟子たちに三つのことを話されます。その第一は、主が天と地の一切の権能を授かっていること、第二は、弟子たちが全ての民を主の弟子とし、洗礼を授けて、主が彼らに命じたことを全て守るように教えること、第三は、主が世の終わりまでいつも弟子たちと共にいることであります。「全ての民を私の弟子にしなさい」というギリシャ語の原文が、ラテン語に「全ての民に教えなさい」と訳されたために、古いラゲ訳聖書などには「汝等往きて万民に教えよ」と邦訳され、それが昔のカトリック界に広まったこともありましたが、無学なガリラヤ出身者たちが高度の文化を持つギリシャ・ローマ人たちに教えるなどということは、とてもできない話です。しかし、彼らが人々に自分の信仰体験を語り、人々の心を主の弟子にすることは可能だと思います。主との師弟関係は心と心の関係であって、文化的知識や教養などの上下とは無関係だからであります。このことは、現代の宣教者にとっても大切だと思います。教えるのではなく、自分の信仰体験から語ったり証ししたりして、主の弟子となるように人々の心に呼びかけ、人々の心を主の方へと導けばよいのです。初代教会の宣教者たちは、ペトロもパウロも、皆自分の見聞きした神の働きについて多くを語っていたと思われます。自分の失敗や弱さについても、神から受けた恵みの豊かさについても。ですから、聴く人々の心に「自分もそのような生き方をしたい」という憧れの火を点火して、神信仰へと導くことができたのだと思います。

④ 現代の宣教師たちが大きな成果を挙げることができずにいるのは、神の働きについての自分の不思議体験よりも、形骸化した宗教的知識を教えようとしているからではないでしょうか。パウロはローマ書の第1章に、「福音は信じる全ての者に救いをもたらす神の力です」と力説しています。頭に説明し伝えることのできる単なる知識やノーハウの技術ではありません。驚きと畏れの心が目覚めてこそ受けることのできる、神の救う力、神秘な力なのです。使徒パウロは本日の第二朗読の中でも、「栄光の源である御父が、あなた方に知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の眼を開いて下さるように」、「また、私たち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれ程大きなものであるかを悟らせて下さるように」などの祈りをなしています。いずれも頭の理知的能力では理解できない神の力とその働きを、神の霊によって照らされ高められた心で悟るようになる恵みを、願い求めている祈りだと思います。現代の宣教師たちも、頭よりも心に語りかけ、心に神の働きと力を悟る恵みを執り成し伝える宣教師であるように、と祈りたいものです。

⑤ 最後に、主のご昇天についても少し考察してみましょう。集会祈願には、「主の昇天に、私たちの未来の姿が示されてします。云々」という言葉が読まれます。私たちは皆、主キリストと一致してこの世の過ぎ去る命に死に、主のように天に昇るよう召されているのです。日々天体を観測している天文学者の多くは、小さな地球世界とは違う悠久広大な宇宙の神秘に感動し、しばしば自分とは何かなどという人生の神秘についても、考えさせられることがあると聞きます。神はご自身に似せてお創りになった人間を、いつまでもこの小さな地球世界にだけ居住させて置くのではなく、主キリストと一致して罪の体に死んだ後の将来は、もはや死ぬことのない主の復活体のような霊的体にして、広い宇宙を自由に駆け巡りながら神を讃え、神の愛に生きるようにすることを望んでおられるのではないでしょうか。

⑥ しかし、そのような霊的体に復活するためには、最後の晩餐の時の主のように、人々を神の愛をもって極限まで愛することと、何らかの形で主と共に多くの人の罪科を背負い、自分を神へのいけにえとして捧げることが必要なのではないでしょうか。死の苦しみは、私たちキリスト者が一生のうちで為すことのできる最高の業、主と一致して神に捧げる最も価値ある司祭的いけにえだと思います。私たちが主と共に、いつの日か多くの人の救いのために自分を一つの司祭的いけにえとなして天父に捧げ、主のように晴れて昇天できるよう、そして多くの人の上に神からの恵みと助けを呼び下すことができるよう、大きな明るい希望と愛のうちに、今から主と共にこの世に死に、主と共に天に昇る心の準備をしていましょう。主も天上から「私に従いなさい」と、温かい眼差しを向けておられることと信じます。自力では不可能ですが、主の体の無数の細胞の一つとなり、日々自分の中の古いアダムに死んで、主の聖霊、主の御血潮、主の復活の力に生かされて生きることに心がけるなら、可能になるのではないでしょうか。明るい意欲的希望に生きるよう努めましょう。希望は銀の食器のように、この世においては日々心を込めて大切にし、磨いていないと灰色になってしまいます。私たちの希望は、輝きを失っていないでしょうか。反省してみましょう。

2008年4月27日日曜日

説教集A年: 2005年5月1日:2005年復活節第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 8: 5~8, 14~17. Ⅱ. ペトロ前 3: 15~18. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~21。

① 激動する現代世界の極度に多様化しつつある流れに、大きく心を開いて働く路線を打ち出した第二ヴァチカン公会議が終わって1年半ほど経った1967年の春から、復活節の第6主日は「世界広報の日」とされて、カトリック教会では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画などをはじめとして、各種の社会的コミュニケーションが世界の情報や文化を正しく伝えて、諸国諸民族間の相互理解と共存共栄に貢献するように祈る日、また主キリストの愛の福音がそれらのメディアを介して一層多くの人の心に光と喜びを齎すよう、祈りや献金などで積極的に支援する日とされています。それで私たちも、本日のミサではこの目的のために、特別に心を合わせて祈りましょう。

② ご存じのように、この春には中国でも韓国でも反日デモやそれに類する動きが高まりました。中国では10年ほど前から愛国主義教育が続けられていますから、この動向は一部の中国国民の間で今後も長く継続されると思われます。かつての文化大革命時代に紅衛兵であったりした世代が、今尚軍事や政治の共産主義的中核勢力となって活躍しているようですから。また先日、私の教え子であった韓国人の若手学者と話していましたら、竹島問題についても、韓国人がその島に来ていた古い記録が幾つも残っているのだそうで、この問題も長く燻り続けると思われます。しかし、どちらの国でも狭い国家主義を乗り越えて、人類全体の福祉のために生きようとしている人々も少なくないのですから、日本人も譲ることのできる所は譲って同じ広い心で生きようとするなら、道は開けて来ると思います。広大な中国のほとんどの田舎町には電話線が引かれていませんが、欧米や日本から導入された便利で安価な携帯電話は、驚くほど早く中国全土に普及しています。そして今やインターネットも普及し、民間の若手中国人たちは世界の人々と自由に情報交換をし始めています。保守的共産主義者たちはそのことで神経を尖らせているようですが、思想の自由化へのこの流れの統制は難しいと思います。これまで抑圧されて来た宗教に対しても、関心を示している人が増えているようです。インターネットが福音宣教の新たな手段として大きな成果を挙げることができるよう、祈りたいと思います。

③ 本日の福音は、18節の「私はあなた方を孤児にはしておかない」を境にして、前半と後半とが対照的に違う色合いを示しています。前半の16,17節では「別の弁護者」「真理の霊」すなわち聖霊が中心であり、後半の18~20節では「私」すなわち主イエスが中心になっています。ここで「別の弁護者」と言われているのは、主イエスも御父の御許で弁護者だからだと思います。ヨハネの第一書簡2章の始めに、「御父の御許に弁護者、義人イエス・キリストがおられます」とありますから。しかし、17節と19節に述べられているように、この世は、聖霊に対しても主イエスに対しても、主の弟子たちとは違って、見ようとも知ろうともしていません。弟子たちが聖霊と主イエスの両弁護者を知っているのは、主のご説明によると、どちらの弁護者も弟子たちと一緒に、弟子たちの中にいるからのようです。主は20節に、「かの日には」と話しておられますが、これは旧約聖書以来の伝統的表現で、神がこの世に決定的に介入し裁きをなされる終末の日を指しています。その日が来るまでは、聖霊の働きも主イエスの働きも信仰の霧に包まれていて、この世に生活している私たち信仰に生きる人たちにも、はっきりとは見ること知ることができないようです。

④ しかし、神の無償の大きな愛に感謝しつつ、私たちも日々そのような愛の実践に生きようと励むなら、天の御父が「永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」と主のお言葉にある聖霊が、不思議に私たちの生活や仕事に伴っていて下さるのを実践的に体験するようになり、やがてその聖霊の勧めや導きに対する預言者的感覚のようなものが、自分の心の中に次第に育って来るのを実感するようになります。主は弟子たちに、迫害される時「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時 (中略) 話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」(マルコ 13:10) などと話されましたが、聖霊降臨直後頃の弟子たちは、主のこのお言葉が事実であるのを幾度も体験していたようです。例えば使徒言行録4章には、「ペトロは聖霊に満たされて答えた」だの、「一同は聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語っていた」などの言葉が読まれるからです。

⑤ 2世紀から4世紀始めにかけて迫害が断続的に激しさを増し、殉教者が続出するようになると、日頃から迫害に備えて、聖霊の生きている神殿としての生き方に励んでいたキリスト者たちの中には、聖霊の働きで自分の心が日々神へと高められ強められて行くのを実感していた人たちが多かったようで、3世紀の始め202年に殉教したリオンの司教聖エイレナイオスは、2世紀後半の名著『異端反駁』の第四巻に、人間が日々神の霊によって養い育てられ、進歩して神に近い者になっていくことを明記しています。これは、自らの数多くの体験に基づく話だと思われます。当時のキリスト者たちの人間観では、人間は単に霊魂と肉体との二つの構成要素から成り立つというだけではなく、そこにもう一つ神の霊の働きも添えて「人間」というものを考えていたようで、こういう人間観の伝統は、今でもギリシャ正教会に根強く保持されています。テサロニケ前書5:23にも、「平和の神が、(中略) あなた方の霊も心も体も完全に守って下さるように」とありますから、このようなキリスト教的人間観は、使徒時代からの伝統なのかも知れません。私たちも、自分の内にいつも現存し働いていて下さる聖霊に対する信仰感覚を実践的に磨きつつ、日々聖霊に導かれ養われて生活するよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めに主は、「あなた方が私を愛しているなら、私の掟を守る」と言い、福音の終わりには「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。云々」と話しておられますが、この言葉は、愛と主の掟との密接な相関関係を示しています。ここで言われている「私の掟」は、人を外から束縛する社会的倫理的義務や、合理的な道徳法などではありません。主が最後の晩餐の席上で与えたばかりの新しい掟、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、ヨハネ13章に述べられている掟だと思います。それは、神の愛と助けを体験し、感動している心の内に、感謝と喜びと共に自発的に湧き出て来る決意や誓いのようなものでもあります。人間同士の心と心の関係においても、自ら自分に課するこのような感謝と決意の掟、自分の一生をかけた結婚の誓いのようなパーソナルな心のこもった掟があります。人の心は本来そのように生きるよう創られているのだと思いますが、主が私たちから順守を求めておられる愛の掟も、そのような自ら自分に課する「心の掟」なのではないでしょうか。としますと、何か社会的合理的な規則にだけ目を向けていては足りません。何よりも聖霊の神殿としての自分の心と、聖霊の働きの場である自分の日常体験に心の眼を向けていましょう。そして神の霊に導かれ助けられつつ、相互に愛し合うよう努めましょう。主の求めておられるこの新しい愛の生き方が、私たちの心の中に、また多くの人の心の中に益々深く根を下ろすよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。

2008年4月20日日曜日

説教集A年: 2005年4月24日:2005年復活節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 6: 1~7. Ⅱ. ペトロ前 2: 4~9. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 1~12.

① ヨハネ福音書の14章から17章までは、最後の晩餐の席で主が語られた、告別の説教と祈りであると思います。本日の福音は、その長い説教の最初の部分で、途中にちょっとトマスの質問とフィリッポの願いの言葉が入りますが、それ程長くないパラグラフなのに、その中には「父」という言葉が何と14回も登場しています。ヨハネはこの話の少し前で、裏切り者の「ユダはそのパンを食べると、すぐに出て行った。時は夜であった」と書いていますが、夜の闇が主と弟子たちの小さな光の集いを覆い、ユダが外の闇の中へ消えて行ってから、主はご自身の魂の内奥に脈打っていた一番大切な掟や教えや願いなどを、次々と弟子たちの前に披露なされたのではないでしょうか。その最初が、13章後半に述べられている新しい愛の掟ですが、続く14章で主は、父なる神について、愛する者たちに父から派遣される聖霊について、また愛する者たちの心に住んで下さる神について語っておられます。

② 本日の福音の始めに、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と話しておられますが、それは、「私は光として世に来た」(ヨハネ12:46)と公言なされた神の子の光をも呑み込む程、大きな黒い闇の勢力が攻撃のすさまじさを増して周辺に迫り、暗い不安が海の潮のように、エルサレムの町中に満ちて来ていたからだと思われます。現代世界の状況も、ある意味で当時のユダヤ社会に似ているかも知れません。当時のエルサレムには、明るい建築ブームが続いていました。国際化が急速に進展して、多くの貿易商や観光客、巡礼団などが来訪していたからでした。しかし内的には、政治も宗教もこのあまりにも急激で大きな国際化と多様化の流れにどう対応したらよいかに戸惑い、富の流れに巻き込まれたり、昨日と異なる思想を全て拒絶したりして、形骸化した事なかれ主義に終始していたようです。それで、商工業優先の新しい国際的流れの中で続々と産み出されて来る無数の貧者や苦しむ者たちを救う活力を失っていました。外的経済的には社会は明るく大きく発展し続けていたのですが、内的には心の教育も、家庭の絆も、信仰生活も、内面から崩壊しつつあったようです。このことは、福音書に登場する譬え話や出来事にも反映しています。日本を含め、現代のアジア諸国、いや世界のほとんど全ての国で、今同様の危機的状況が急速に進行しつつあるのではないでしょうか。主は本日の福音の中で、そのような状況の下で生活している現代人にも、父なる神に信仰の眼を向け、信頼と明るい希望をもって生きるよう勧めておられるのだと思います。

③ 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。云々」というお言葉で、主は、私たちが永遠に仕合せに生活する場所が神ご自身によって用意され、主が私たちをそこへ連れて行って下さることを確約なさいました。崩壊しつつある古い社会の激流に押し流されて、浮き草や流れ藻のように神から遠く離れた所へ運び去られ、実を結べない不幸な存在とならないように、父なる神が人類に提供なされた足場、深く根を下ろすための地盤は、神の真理であり、魂に活力を与える神のいのちであり、信ずる者が日々神に近づくのを可能にする道であります。そしてその神の真理・いのち・道は、神から派遣されて人となり、死後は霊的いのちに復活して今も私たちの近くに共にいて下さるメシア、神のロゴス、神の御言葉なのです。主ご自身が本日の福音の中でそうおっしゃっておられるのです。主のこの宣言を堅く信じましょう。主がここで私たちから求めておられるのは、単にそれは本当だと思うだけ、納得するだけの、理知的な頭の信仰ではありません。主のお言葉に日々新たにしっかりと掴まって生きようとする心の実践的信仰、意志的信仰であります。この信仰のある所に神の救う力が働くのです。神の働きに内的に結ばれ支えられて生きようとしない、単なる「頭の信仰」だけの人の中では、神の力が働けません。それは、ある意味で悪魔の信仰のようなものだからです。神の力強さをいつも痛感させられている悪魔も、全知全能の神の存在を信じています。しかし、その心は神に従おうとはせず、神に結ばれて生きようとはしていません。私たちの信仰も、神に対する愛に欠ける冷たいもの、実践の伴わない口先だけの「頭の信仰」にならないよう気をつけましょう。

④ 目に見えるこの世の過ぎ行く事物現象に囚われて、自分の人生をこの世だけの、間もなく朝露のように消え行くものと考えないよう気をつけましょう。洗礼によって神の子のいのちに参与している私たちは死後も、私たちを限りなく愛しておられる天の御父の下で、霊化されたいのちに復活なされた主のお体のように一切の労苦や病苦から自由になって、神の栄光の内に永遠にのびのびと生きるよう召されているのです。復活なされた主の神秘なお体の、言わば無数の細胞の一つとなって父なる神を讃えつつ、仕合せに生き続けるよう召されているのです。あの世のその自由と栄光に満ちた人生の側から眺めると、今の世は何か知らない暗い夢のような世界、あの世に生まれ出るまでの胎児の世界、しかも、原罪による誤謬・誤解・労苦・害悪などが無数に蔓延しているような、狭苦しい世界なのではないでしょうか。それらの誤りや罪悪の毒素によって心が蝕まれたり歪められたりし、出来損ないの人間となってあの世に生まれ出ることのないよう、神の子キリストのいのちに結ばれ、生かされて生きるよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音の中で、主は「私は道であり、真理であり、いのちである」と話しておられますが、ここで言われている道について、人間がその上を足で踏んで行くような地上のこの世的道を連想しないよう気をつけましょう。それは、私たちの魂を着物のように四方から包み込んで、神へと運び導いてくれる精神的パイプ、柔軟なホースのようなトンネル通路に似ている道なのではないでしょうか。使徒パウロが「キリストを着る」(ガラ3:27)と表現しているのも、このことだと思います。私たちの魂は、キリストという通路を通ってあの世に生まれ出るのだと思います。ですから、使徒トマスが心配したように、どこへ行くのか目指す行き先やその道筋を、この世においては見通すことができなくても、見ないで信じていて良いのではないでしょうか。主がここでおっしゃった真理についても同様に、この世の人間が持って生まれた自然理性で理解し、自力で利用できるようなこの世的真理ではなく、私たちの心の眼を内面から照らし目覚めさせて、神の啓示や働きを洞察させ確信させるような、生きている信仰の真理なのではないでしょうか。人間イエスや聖母マリアが身をもって示された神の僕・婢としての生き方に倣い、私たちも神の僕・婢として、神の言葉や導きに全く信頼しながら、私たちを愛しておられる父なる神へと進んで行きましょう。

⑥ 本日の第二朗読の中で、使徒ペトロは「石」という言葉を七回も使いながら、「(主は)神によって選ばれた、尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。云々」と書いています。石は、自分主導に神を利用して何かをなそうと積極的に動く存在ではなく、むしろ神のお望み通りに取り上げられるのをじーっと待ち、自分の置かれた持ち場で神の家を下から支える存在だと思います。「隅の親石」となられたキリストに見習って、私たちも神のお望みに徹底的に従う石となるよう努めましょう。

2008年4月13日日曜日

説教集A年: 2005年4月17日:2005年復活節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14a, 36~41. Ⅱ. ペトロ前 2: 20b~25. Ⅱ. ヨハネ福音 10: 1~10.

① 本日の第一朗読は、五旬祭すなわちペンテコステの祝日に聖霊の恵みに満たされてから、ペトロが他の使徒たちと共に立ち上がって語った、最初の長い説教からの最後の部分の引用ですが、ペトロはこの説教の中で、ナザレのイエスこそ神から遣わされたメシアであると、いろいろと言葉を変えて幾度も強調しています。その最初の所でペトロは預言者ヨエルの書3章から引用して、「神は言われる。終りの日に私の霊を全ての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」などと話しています。

② 神は預言者の口を通してなぜ幻だの夢だのという話をなさったのでしょうか。またペトロは、エルサレムでの祭りに集まっていた大勢の民衆に向かっての自分の最初の説教の冒頭に、その言葉を引用したのでしょうか。それは、彼らが今エルサレムで見聞きしている、  ラザロの蘇り、イエスの受難死と復活、それに聖霊降臨などの出来事は、神が数百年前から預言者の口を介して予告しておられた夢・幻のように不可解で神秘な現実であり、そこには神が臨在しておられて、私たちから信仰と従順の心を求めておられるということを、示すためであったと思われます。この世の人間的、自然的な出来事であるならば、人間が持って生まれた理性で考究し理解することもできるでしょうが、そういう地上世界を遥かに超える神秘な真理そのものであられる偉大な神が臨在してお示しになる、夢・幻のように不可解な現実に対しては、まずこの世の人間中心の態度や能力は引っ込め、慎んで謙虚に自分の罪深さを反省し悔い改めることが大切だと思います。この観点から本日の第一朗読を見直してみますと、ペトロも集まって来た民衆に、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と勧めています。

③ 神から聖霊の賜物を受けるなら、夢・幻のように不可解な現実も神のお望み通りに正しく知解できると思います。ペトロの言葉を受け入れて、その日のうちに3千人ほどの人が洗礼を受け、使徒たちの仲間に加わったように述べられていますが、その人たちのほとんどは祭りのためにエルサレムに来ていた人たちで、祭りが終わればいなくなるので、エルサレムに残った信徒の数は、多くても2,3百人ほどだったのではないかと推察されます。私見では、受洗した3千人ほどの民衆の多くは、当時ユダヤとその周辺の荒れ野で預言者的精神で貧しく共同生活を営んでいたエッセネ派の人たちだったと思います。第二次世界大戦後に発見されたクムラン文書から、彼らの生活や思想もある程度明らかになっていますが、キリスト時代のその数は4千人ほどに達していたと思われます。メシアを待望していた彼らは、祭りの時に上京してナザレのイエスに会うと、慎重に考えながらもイエスをメシアとして信ずる方に傾いていたと思われます。彼らは福音書では「民衆」と書かれていますが、大祭司たちも預言者的精神で敬虔に厳しい生活を営んでいたエッセネ派には一目置いていたので、イエスを捕えたくても、祭りの時にはその「民衆」の反抗を恐れて手を出せずにいたことが幾度もありました。使徒言行録4:4によると、聖霊降臨後間もないある日、生まれながらの足の不自由な男を癒したペトロとヨハネが大祭司たちに捕えられた頃には、キリストに従う人の数は「五千人ほど」と記されていますが、これもエッセネ派が聖霊降臨後に続々と受洗した結果であると思われます。旧約時代の預言者たちのように、神の霊の働きに対する心の感覚を日頃から実践的に磨いていること、それが主の恵みを早くまた豊かに受ける最良の準備だと思います。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです」。だから、「善を行って苦しみを耐え忍ぶのが、神の御心に適うことです」と強調しています。聖書のどこにも、教会に来てお祈りしていればそれで救われる、などとは書かれていません。2千年前のファリサイ派はそのように考え、競うようにして沢山の祈りをしていたかも知れませんが、人間側の努力にだけ眼を向けていて、神の働きに対する心のセンスは磨いていなかったのか、メシアを死に追いやってしまいました。何よりも父なる神よりのものに心の眼を向けつつ生活し、神から与えられた苦しみも喜んでお受けし、耐え忍ぶこと、これが主キリストが私たちに残された模範であり、神の御心に適う生き方なのではないでしょうか。

⑤ 主は模範ばかりでなく、私たちがそのように生きるための力も残し与えて下さいました。すなわちキリストを信じて受洗し、主が最後の晩餐の時にお定めになったミサ聖祭の中で与えられる主の御肉を食べ、主の御血を飲んで御受難の主と霊的に一つ体になるならば、主の復活の立ち上がる力が私たちの魂の中にも働いて、私たちは小さいながらも主と同様に生きるようになれると信じます。ペトロも本日の第二朗読の中で、「私たちが罪に死んで義に生きるようになるために」、また「魂の牧者の所へ戻って来るために」、キリストは「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さった」と説いています。信仰は決断です。信仰のない所、決断のない所には神の力も働かず、救いもありません。主キリストと内的に一致して日々自分に与えられる十字架の苦しみを担い、多くの人の救いのために主と共に苦しみを耐え忍び、その苦しみを神にお捧げしようとの決意を新たに致しましょう。この決意に欠けている心には、この世に死んで復活なされた主の救う力も働かない、と信じるからです。

⑥ 本日の福音の中で、主は「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。云々」と話して、「門」と「羊飼い」という二つのテーマを持ち出しておられますが、11節以降に読まれる羊飼いについての話は本日の福音から外されていますので、ここでは、「私は門である。私を通して入る者は救われる。云々」と、主がご自身を「門」と見立てておられる譬えについてだけ考えてみましょう。主は別の箇所ではご自身を「道」と称されていますが、ここで「門」とあるのは、救いに到る真の門である精神、すなわち何よりも神の御旨中心に生きようとする神の子の奉仕的愛、キリストの自己犠牲的精神を指しているのではないでしょうか。

⑦ この愛や精神なしに羊たちの世話をしよう、羊たちを教え導こうとする教師や宗教者たちに対して、主は「盗人であり、強盗である」と、二度も厳しい非難の言葉を浴びせておられます。自分のこの世的地位や知識・能力などを利用して、助けを必要としている羊たちを食い物にする、そのような教師や宗教者たちに、私たちも気をつけましょう。たとえその人たちの話がどれ程面白く、心を和らげ楽しませるものであろうとも、その人たちの心がキリストの自己犠牲的奉仕愛の精神に生かされていないようでしたら、警戒しましょう。18世紀から19世紀にかけてのフランス革命時代に、ウィーンで数多くの若者や知識人たちを伝統的カトリック信仰に復帰させることに成功した聖クレメンス・マリア・ホーフバウエルは、無数の間違った聖書解釈や危険思想の乱れ飛ぶ過渡期には、カトリック者は信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別しなければならないと説いています。現代も、そのような危険が溢れているような過渡期ではないでしょうか。私たちも信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別するよう心がけましょう。二千年前のエッセネ派の人々も、同様の預言者的鼻の嗅覚で真偽を確かめていたのだと思います。

⑧ 本日の福音のすぐ前のヨハネ福音書9章には、生まれながらの盲目を癒された人が、ファリサイ派の人たちから何を言われても、それに従わず、自分の心が真に従うべきメシアをひたすらにたずね求めて、遂にそのメシアにめぐり会い、「主よ、私は信じます」と告白して、主を拝むに到った話が感動的に語られています。主はそういう人たちを示唆しているかのように、羊は門から入る羊飼いの声を聞き分け、その声を知っているので、先頭に立って行く羊飼いにはついて行くが、外の者にはついて行かない、などと話しておられます。しかし、ついて行く行かないは羊の心の問題ですので、やはり日頃から信仰の嗅覚を鋭く磨きつつ、真の牧者の声を正しく識別し、あくまでもその牧者に付き従って行く決意を固めていましょう。

⑨ 最近、韓国や中国で反日感情や反日運動が高まっていますが、この動向はこれからもまだ長く続くと思われます。中国では数年前から愛国主義教育が施行され盛んになっているようですから、その教育を受けて全てを中国中心に評価する偏狭な価値観や世界観で生きる若者たちが非常に多くなっていると思われるからです。しかし、同じ中国には、何よりも人類全体の平和共存を願う国際主義的価値観や民主主義にも温かい理解と好意を抱いている人も少なくありません。中国・北朝鮮・韓国で万事に平和共存を優先する温厚な人々の見解が重んじられて、不要な対立や戦争の危機が解消されるよう、また神の聖霊が隣国の人々の心を明るく照らし守り導いて下さるよう、この四月からは毎月一回、日曜日にミサを捧げてご一緒に祈りたいと思います。本日のミサ聖祭はそのために捧げられますが、ご協力をお願い致します。

2008年4月6日日曜日

説教集A年: 2005年4月10日:2005年復活節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14, 22~33. Ⅱ. ペトロ前 1: 17~21. Ⅲ. ルカ福音 24: 13~35.

① 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「あなた方は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と教えています。天の父なる神は、深い大きな愛をもって、罪深い私たちの救いのために真剣になっておられるのです。罪や穢れの全くない最愛の御独り子の尊い御血によって私たちを贖い、永遠の栄光への道を開いて下さったのです。私たちが死後永遠に仕合せになれるか否かは、ひとえにこの神の愛を信じて日々その神に感謝しつつ、神と共に生きようと努めるか否かにかかっている、と言ってもよいと思います。終末の時に神がお裁きになるのは、この神の愛を無視して神に背を向ける行為と、背を向けなくても自分の欲や考えや計画などを優先して、神に従って生きようとしない怠りの行為だけである、と思います。神に感謝することを知らない、そんな冷たい心で日々戴いている神よりの恵みを無駄遣いすることのないよう、神の裁きを恐れることに心がけましょう。厳しい裁きの時は、私たちにも遠からずやって来るのですから。

② とかく目前の人間関係や利害関係のことに眼を奪われ、自分中心の煩悩の霧にこもって生活し勝ちな私たちでしたが、この世のそういう霧や雲の上から、私たちに大きな愛と期待の眼差しを注いでおられる父なる神、目には見えなくても温かい春の太陽のように万物を養い育てておられる献身的奉仕愛の神に、感謝と信仰の眼を向けながら祈り、働き、生活するように努めましょう。私たちがそのように生きる時、復活の主キリストの新しい命が私たちの心の内に生き生きと働くようになり、私たちは復活なされた主キリストが、今も目に見えないながら実際に私たちと共におられ、そっと私たちを助け導いておられることを、数多くの小さな体験から次第に確信するようになります。現代は情報も価値観も刻々と急激に変貌し多様化しつつある、ある意味では非常に不安な落ち着きのない時代であり、未だ嘗てなかった程の恐ろしい詐欺やテロや自然災害の危険も高まっている時代ですが、こういう時にこそ、心の奥底に伴っていて下さる復活の主と日々内的に堅く結ばれて生活することは、非常に大切であり、また有り難いことだと思います。神が望んでおられるこの信仰の生き方を体得し、世の人々にも伝えるよう努めましょう。

③ 本日の福音は、24節までの前半部分と、それ以後の後半部分とに分けて考えることができますが、前半と後半には、それぞれ「エルサレム」「互いに」「彼らの目が」「認める」「預言者」などの共通する言葉が幾つも登場していて、ある意味では対照的に対応しています。しかし、前半では主の受難死に深刻な落胆を覚えて立ち上がれずにいる二人の弟子たちが中心になっており、エマオへの途上に出会った見知らぬ旅人に、ナザレのイエスをめぐる最近の出来事について語り聞かせます。彼らは、業にも言葉にも力ある預言者であったイエスに大きな期待を抱いていたのに、そのイエスが十字架刑で死んでしまい、もうこの世にはいないので、暗い顔をしています。その日の早朝、仲間の婦人たちが墓にご遺体がなくなっているのを発見し、天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられたことも、仲間の弟子たちがその墓に行って、婦人たちの言う通りご遺体がなくなっているのを確認したことも知っていました。しかし二人は、この世の目に見える出来事にだけ心を向け、ご遺体は誰かに盗み去られたのかも知れないなどと考えたのか、いつまでも落胆から立ち直れずにいました。まだまだ聖書の預言や教えのことを知らず、人間理性中心の立場で全ての出来事や情報を解釈する、この世的生き方にこだわっていたからだと思います。

④ 後半部分では、見知らぬ旅人の姿で出現なされた復活の主が中心です。主はモーセと全ての預言者たちの言葉を解説しながら、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るのが神の御旨であったことを、聖書全体から説明なさいました。一行が目指す村に到着すると、二人は「一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方ですから」と、主を強いて引き止め、宿の家に入って一緒に食事の席に着きました。すると復活の主がパンを取って賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。主が食卓の主人であるかのように振舞われたのです。この動作は、最後の晩餐などの時の主の日ごろの所作に似ていたと思われます。二人がそのパンを戴くと、心の眼が開けてその旅人が復活の主であることに気づきましたが、その瞬間にそのお姿は見えなくなりました。

⑤ 主が主導権を取っておられるこの後半部分では、二人の心は聖書の教えに眼を向けるようになってだんだんと立ち直り、やがて全く新しい希望の火に燃え立ち、メシアの復活を信じるようになりました。そして見知らぬ旅人が復活の主であったことに気づくとすぐ、急いでエルサレムに立ち帰り、見聞きした出来事を他の弟子たちに報告しています。この後半部分は、復活の主との出会いの場がどこにあるかを、現代の私たちにも教えているのではないでしょうか。それは、自分中心の理知的立場で主の復活について幾ら考察しても、復活の主に出会うことはできず、むしろ自分から抜け出て見知らぬ人にも親切を尽くそうとする行為のうちに、また聖書から神のお考えを学びそれに従おうとする心のうちに、そして特にミサ中の聖体拝領の時に、心を大きく開いて神の御旨に徹底的に従って生きようとする意思を実践的に表明するなら、復活の主は、私たちにも心の奥で主に出会う恵みを与えて下さるのではないでしょうか。希望をもって日々復活の主と出会い、現代社会の不安に耐えて生き抜く力を戴くように努めましょう。

2008年3月30日日曜日

説教集A年: 2005年4月3日:2005年復活節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 42~47. Ⅱ. ペトロ前 1: 3~9. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~31.

① 主の復活後に生まれ、多くの入信者を獲得しつつあった一番最初の教会について述べている本日の第一朗読には、「すべての人に恐れが生じた」という注目に値する言葉が読まれます。初期のキリスト教入信者たちは、単に新しい運動に対する憧れや人間的な助け合い精神などに引かれて集まって来たのではなく、同時に何か共同の大きな恐れの念をもって互いに寄り添い、助け合っていたのではないでしょうか。いったい何を恐れていたのでしょうか。主は世の終わりについての預言の最後に、「あなた方によく言っておく。これらの事が全て起こるまでは、今の時代は過ぎ去らない。天地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去ることがない」(ルカ21:22~23)とおっしゃったことが、マタイ、マルコ、ルカのどの福音書にも書かれていますが、このお言葉とその他幾つかの主のお言葉から、メシアが再臨なさる終末の時は近いのだという緊迫感が、初期のキリスト者たちの間に強かったと、聖書学者たちは考えています。

② 本日の第一朗読に、「信者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆それを分け合った」だの、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」などとあるのも、間もなく終末の大災害がノアの洪水の時のように突然に訪れて、罪に穢れたこの世の富も権力もすべて崩壊させる時が来るのだ、ただ信仰に生きる人たちだけが救われるのだという、緊迫した恐れの雰囲気が皆の心を捉えていたからではないでしょうか。旧約聖書には「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7, 9:10) だの、「主を畏れることは宝である」(イザヤ33:6)など、神に対する畏れの大切さを説く言葉が少なくありませんが、各人が緊迫した畏れの心を一つにして真剣に祈る共同的祈りのある所に、神の霊も生き生きと働き、使徒たちによって多くの不思議な業と徴が行われていたのではないでしょうか。

③ 私たちの信仰生活にそのような不思議がほとんど伴っていないのは、まだ緊迫した畏れの心を一つにして真剣に祈っていないからではないでしょうか。豊かさと便利さが溢れる程にある今の生活事情の中で、私たちの奥底の心はまだ半分眠っているのかも知れません。しかし、強いて人為的に神への畏れの心を煽り立てないよう気をつけましょう。いずれ時が来れば神の霊が働いて下さり、信仰に忠実な人々の心が不穏な事態の切迫を鋭敏に感知し、互いに心を一つにして祈り始める時が来ると思います。その時、神の導きに従って適切に行動できるよう、初代教会の模範を心に銘記しながら、いつも神と共に生きる生き方を今からしっかりと身に付け、危機の到来に備えていましょう。

④ ミサ中の朗読聖書は三年の周期で、朗読箇所がA・B・Cといろいろに変化していますが、今年はA年で復活節主日の第二朗読はペトロの第一書簡から朗読され、来年のB年にはヨハネの第一書簡から、再来年のC年には黙示録から朗読されることになっています。教会史学者たちの見解によると、本日の第二朗読であるペトロの第一書簡は、ローマでキリスト者を火刑にするなどの残酷な迫害を始めたネロ皇帝のギリシャ歴訪が公になった段階で、ギリシャ、小アジア地方の教会に宛てて書かれた書簡とされています。ペトロはキリスト者人口の多いギリシャでも迫害が始まるかも知れないと恐れて、この書簡を書き送ったのだと思われます。従ってその書簡には、ローマでの迫害を連想させる表現が幾つか読まれますが、これについてはいつかまた別の機会の説教で説明致しましょう。

⑤ 本日の朗読箇所にも、「あなた方の信仰は、その試練によって本物とされ、火で精錬されながらも、云々」と、ネロが迫害に使った「火」という言葉が登場しています。ペトロは火のように容赦しないネロの迫害を終末が近い徴と考えたようで、この書簡の4章には「万物の終わりが近づいています。心を確かにし、身を慎んでよく祈りなさい。云々」と勧めていますし、本日の朗読箇所にも、「あなた方は終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により信仰によって守られています」という言葉が読まれます。ペトロとパウロの殉教後、68年6月に、ガリヤにいた正規軍の叛乱に呼応してローマにいた近衛兵たちも叛旗を翻したため、ネロは自殺し、迫害はすぐに終わって世の終わりにはなりませんでしたが、しかし、初期のキリスト者たちが主キリストの再臨する終末の時、大災害到来の時は近いと信じつつ、大きな恐れの内に過ぎ去る事物に対する執着を断ち切り、ひたすら神の方に眼を向けながら、一つ心になって祈ったその熱心は、高い評価に値すると思います。神もその祈りに応えて、数々の奇跡や徴をお示しになったようです。

⑥ 現代の私たちは、その熱心を失っているのではないでしょうか。頭では世の終わりが来ることを信じ、近い将来に東南海大地震が発生すると予告されていることも知ってはいますが、心の眼を神の方に向けて熱心に祈り信頼心を深めるよりも、この世の社会や他の人々の動きの方にだけ目を向けて、その時になれば皆諸共だなどと、ノアの時代に滅んで行った神信仰に不熱心な人々のように考えたり、生活したりしているのではないでしょうか。恐怖を煽り立てることは慎まなければなりませんが、しかし、神に対する信頼と復活信仰の熱心を新たにしながら、終末の時のためにこれまでの生き方に死に、ひたすら神中心に生きるよう心を整え、準備していましょう。この観点から読み直す時、ペトロの第一書簡は私たちの信仰生活に多くの示唆を与えており、それは古来、洗礼式の説教にも引用されることの多かった書簡でもあります。キリスト教信仰生活は、自分中心の古い命に死んで主キリストの新しい命に生かされることを特徴としていますが、その恵みは特に洗礼の秘跡によって豊かに与えられるからだと思います。

⑦ 本日の福音は、23節までの前半と、それ以降の後半部分に読まれる二つの出来事から構成されていますが、この両者は三つの点で共通しています。どちらも「週の初めの日」すなわち日曜日の出来事で、復活なされた主は戸に鍵をかけて閉めてあるのに、そこを通り抜けて弟子たちのいる部屋の真ん中にお立ちになります。そして「あなた方にシャローム(平和) があるように」という言葉で挨拶しておられます。主はなぜ、ユダヤ人たちが伝統的に最も大切にしていた週末の安息日にではなく、「週の初めの日」すなわち日曜日に復活なされ、弟子たちにもいつも日曜日に出現なされたり、彼らに聖霊を日曜日に注いだりなされたのでしょうか。察するに、神によって新しく生まれた神の民が日曜日を最も大切な日とするように、しかし、ユダヤ人たちのように戸を閉めて家の中にいることの多い安息日としてよりは、むしろその日を主の復活を記念し感謝する日として特別に大切にし、その恵みを世の人々にも積極的に宣べ伝える日とさせるためなのではないでしょうか。そうだとすると、日曜日には積極的に自分の小さな殻から抜け出て、神と人々への無償奉仕のために祈ること、何かの善業に努めることが大切だと思います。

⑧ 戸を通り抜けて弟子たちの前に出現なされた主は、もはや死ぬことのないあの世の霊的体に復活さなれたことを示しています。何事もこの世での自分の経験に基づいて考え勝ちな人間理性にとっては、夢のような現実ですが、主は「見なくとも信じる人は幸い」と言明なさいます。そのお言葉に従って、頭で理解できなくても、心の意志で信じましょう。そしてその信仰を神に、自分の態度や言葉で表明するように心がけましょう。すると不思議な程、神が私たちのその実践的信仰に応えて働いて下さるのを体験するようになります。そして主が実際に復活なされたことを確信するようになります。本日の福音の最後に、使徒ヨハネは「あなた方が、イエスは神の子であると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書いていますが、私たちを主の復活の命とその喜びに参与させるものは、そのような心の信仰実践であって、理知的な頭の信仰に留まっていては絶対に足りないということを、忘れないように致しましょう。

2008年3月23日日曜日

説教集A年: 2005年3月27日:2005年復活の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 34a, 37~43. Ⅱ. コロサイ 3: 1~4. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 1~9.

① 40年程前に閉会した第二ヴァチカン公会議が、プロテスタント諸派の人々に大きく心を開いて、共に現代世界の救いのために働こうとする路線を打ち出すと、ちょうどその頃にプロテスタントの若手学者たちの間で持て囃され、広まり始めた聖書学者ルドルフ・ブルトマン(1884~1976) の流行思想が、カトリックの若手聖書学者たちの間でも持て囃され、日本のカトリック界でも、学生紛争が盛んであった1969年、70年頃に、無学なガリラヤ出身の弟子たちが、キリストの埋葬された墓が空になっているのを見て驚き、感激して、やがてキリストは復活したのだと言い出し、それを一般民衆の間に言い広めたのだ、などと言う勝手な解釈や見解が、カトリック出版物などに盛んに書かれたことがありました。しかし、幸いすぐに年輩の聖書学者たちから厳しく批判され、そんな流行思想は70年代前半に消えて行きました。

② ルカ福音書24章によりますと、ガリラヤ出身の弟子たちは主の受難死にあまりにも大きなショックを心に受けていたのか、復活の朝に墓地に行って主のご遺体が墓にないのを見つけた婦人たちが、二人の天使から、主が予言通りに復活なされたのだと知らされて、そのことの次第を残らず弟子たちに報告しても、婦人たちのその話をたわごとのように思って、なかなか信じようとはしなかったようです。後で主が実際に彼らの真ん中にご出現になって挨拶なされても、彼らは始めのうちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思っていたようです。それで主は、「なぜ怯えているのか。なぜ心に疑いを抱くのか。私の手や足を見なさい。まさしく私自身だ。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなた方が見るように、私にはそれがある」などとおっしゃって、彼らの持っていた焼き魚一切れを食べて見せたりしておられます。復活の主は、その後も幾度も彼らにご出現になって、彼らが数多くの体験により、あの世の霊的体への主の復活を堅く信ずるに到るよう、懇切に導いておられます。従って、主キリストの復活に対する信仰は、無学な弟子たちが単に空になっている墓を見てすぐに興奮し、その熱狂的になった心で主の幻を見たりしながら言い広めたものではありません。

③ 本日の福音は、弟子たちが見たその一番最初の出来事、すなわち主が復活なされた朝に、マグダラのマリアから知らせを受けて、主のご遺体が葬られた墓が空になっているのを、ペトロと一緒に走って見に行き、確認した使徒ヨハネの報告です。ヨハネは二日前の夕刻、その墓に主のご遺体を埋葬した人たちの一人だったのですから、そのご遺体が墓にないということは、ヨハネにとっては大きな驚きであったでしょうが、しかし彼は、その墓で見届けたことを冷静に細かく報告しています。キリスト時代のユダヤ人の間では遺体を石棺に入れる慣習はなく、遺体は横壁に掘られた窪みに寝せて置かれるのが普通でした。主のご遺体も、おそらくそのようにして寝せて置かれ、墓の外の入口が大きな石で閉じられていたのだと思われます。その埋葬に立ち会ったヨハネは、ご遺体が大きな亜麻布(オト二ア)に包まれて結ばれてあったように書いています。この結んだ(エデサン)という言葉を「巻いた」と誤訳して、包帯で包まれていたかのように翻訳しているプロテスタントの聖書もあったそうですが、権威ある聖書学者たちは、それは違うと退けています。4世紀末のパレスチナで聖書の研究をしていた聖ヒエロニモも、オトニアをラテン語で linteamina (大きな亜麻布) と正しく翻訳しています。

④ さて、犯罪人として処刑された人の遺体は、衣服は脱がされていますので、そのまま洗わずに亜麻布に包んで葬られました。ユダヤ教の規定では、死後に出た血はそのまま遺体と一緒に葬らなければならない、と定められていましたから。主のご遺体も、日没までの限られた時間内に急いで埋葬されたのですから、全身血で覆われたまま、大きな亜麻布に包んで置かれたのだと思われます。その血痕を留めているトリノの聖骸布は、そこに付着していたパレスチナ地方にしかない花の花粉などからも、実際に主のご遺骸を包んだ本物の亜麻布だと思います。聖骸布には、表の顔と裏の後頭部との間に25センチほどの空白がありますが、これが死人の口を塞ぐために、顎の下から頭の上にかけて巻いて縛った手ぬぐいの跡です。本日の福音では、それが「頭を包んでいた覆い」と邦訳されていますが、頭をすっぽり包んでいた「ほほ被りのような布」ではありません。誤解しないように致しましょう。

⑤ 主から特別に愛されていた使徒ヨハネは、亜麻布が抜け殻のように平らになっているのを見て、主のご遺体は誰かに盗まれたのではなく、婦人たちが天使から聞いた通りに、やはり復活したのではないかと考えたと思います。しかし、まだ旧約聖書の預言のことはよく知らずにいましたので、その考えは信仰にまでは至っていなかったのだと思います。先に墓に入ったペトロは、同じものを見ても唯いぶかるだけだったと思われますが、その後で墓に入ったヨハネは、主の復活を漠然とながらも既に信じ始めたのではないでしょうか。ですから、「見て信じた」と書いたのではないでしょうか。それは理知的に検証する頭の良さの問題ではなく、隠れている謎を発見する心の感覚、心のセンスの問題だと思います。ヨハネは主の愛を全身で受け止め、最後の晩餐の時にも、特別に心を込めて聖体拝領し、心の愛のセンスを磨いていたのではないかと想像されます。私たちも、使徒ヨハネの模範に学んで、主に対する心の愛のセンスを日頃から磨くよう心がけましょう。それが、主の復活をいち早く確信し、その信仰から大きな希望と喜びの恵みを受ける道だと思います。

2008年3月16日日曜日

説教集A年: 2005年3月20日:2005年受難の主日(三ケ日)

聖書朗読: 入城の福音: マタイ21: 1~11. Ⅰ. イザヤ 50: 4~7. Ⅱ. フィリピ 2: 6~11. Ⅲ. マタイ福音 27: 11~54.

① 皆様、本日のミサの前には、主が御受難の数日前にメシアとしてエルサレムに入城なさった時の出来事を、ささやかながら記念する行列の入堂式がありましたので、始めにその時読まれた福音について少し考えてみましょう。マタイの福音書には「驢馬が繋いであり、一緒に子驢馬がいるのが見える」とあって、主が雌の驢馬にお乗りになったのか、それともその繋いである雌驢馬と一緒に繋がれていた子驢馬にお乗りになったのか不明ですが、他の三福音書にはいずれも子驢馬となっていますので、主は子驢馬に乗って入城なされたのだと思います。数日後のご死去の後、主はまだ誰も葬られたことのない新しい墓に埋葬されましたから、この時もまだ誰も乗ったことのない子驢馬にお乗りになったのではないでしょうか。

② 主がこの入城行進を、エルサレムのすぐ東隣りのベトファゲに来られてから、突然弟子たちに子驢馬を連れて来るよう指示してお始めになったのは、もしその計画があらかじめファリサイ派に知られていたり、あるいは歓迎する群衆があまりにも多すぎて長引いたりすると、敵対する人たちからローマ軍に騒擾罪の廉で訴えられたり、邪魔されたりする虞があったからだと思われます。ですから主は、メシアがその門を通って都に来ると信じられていた、エルサレム神殿の真東にある黄金の門まで、後2,30分という地点にまで来てから、突然電撃的にその入城行進をお始めになったのだと思います。理知的批判的なファリサイ派の人々が駆けつけて来た時には、主はもう黄金の門を目前にしておられて、やがて神殿の中にお入りになり、主を歓迎した群衆の騒ぎもすぐに収まったのだと思われます。

③ それでも、ヨハネ福音書の記事によると、その短時間で終わったメシアの入城行進に参加したのは、弟子たちとイェリコから主に伴って来た巡礼者たちだけではなく、過越しの祭りのために各地から既にエルサレムに来ていた、それよりも遥かに多くの巡礼者たちが、「ダビデの子にホザンナ」と叫ぶ弟子たちの声を聞いて、続々と都から出て来てメシアを出迎えたようです。それで、そこにやって来たファリサイ派の人々もその光景に驚き、「もう何もかもだめだ。見ろ、世はこぞってあの人についてしまった」などと、互いに言い合ったようです。

④ しかし、巡礼者の大群衆によるこの熱狂的歓迎行事のすぐ後から、メシアを葬り去ろうとする悪魔たちが走り回ったようで、事態はご存じのように、ユダの裏切りで大きく変わります。ユダの裏切りによってキリストの愛の御命が受難死を介してお体の外にまで溢れ出て、その御命が聖体の秘跡の形で私たちにも与えられるなど、メシアによる救いの業が完成したことを思いますと、メシアに対する裏切りはキリスト教の本質の一部で、その意味では、私たちもある意味でユダに感謝しなければならないように思います。主キリストも、それを予見しつつユダを使徒の一人にお選びになったのだと思います。裏切ってメシアを敵に渡すというその非常に難しい悪役を演じてしまったユダの改心を、一番強く望んでおられたのは、主ご自身だったのではないでしょうか。しかし、ユダがペトロとは違って改心しようとせず、逆に絶望してしまったことは、真に残念なことだったと思います。

⑤ でも、メシアを敵に渡したユダは地獄に落ちたなどという想像は、慎まなければならないと思います。自分の現世的夢が破れて裏切りに傾いてしまった人間的弱さの根深いユダではありますが、悪魔のように徹底的にメシアを憎んだのではありませんし、裏切ったことを深く後悔して自殺したのですから、その魂は死後も極度に苦しんだでしょうが、神の憐れみによって救われる時があったのではないでしょうか。私たちも主の聖心を自分の心として、神に背を向ける裏切り者たちを冷たく軽蔑することなく、大きく開いた温かい心でひたすらその改心を祈り、待ち続ける人であるよう努めたいものです。主は何よりも、そういう絶望的に苦しむ罪人を真っ先に招き救うために、救いのみ業を成し遂げられたのですから。

⑥ 本日のマタイ受難記の中では、主はほんの二言しか話しておられません。そこには、例えばルカ福音書にあるようなキレネの人シモンの手伝いも、主のお苦しみを見て泣く女たちも、改心する盗賊も、ヨハネ福音書に登場する十字架のすぐお側で最後まで見ていてくれる聖母や愛する使徒ヨハネやマグダレナのマリアも全て省かれていて、主は全ての人間から、いや天の御父からさえも見放され、全く孤独な絶望的状態でお亡くなりになったかのように描かれています。マタイは、多くの人の罪を背負わせられ、荒れ野に放逐されて死ぬ山羊スケープゴートのような、メシアの死の孤独を強調するため、このような描写の仕方をしたのかも知れません。しかし、主は日ごろ天の御父と深く結ばれて生きておられたのですから、外的に極度の孤独に見舞われたような時には、その弱って死に行く人の心の奥底に宿る神の威厳が一層力強く周辺の自然界に働き出して、観る眼を持つ人の心を動かし、感動を与えたり畏敬の念を抱かせたりしたのではないでしょうか。メシアの死と共に生じた地震やその他の出来事を見て、大きな恐れを覚えた百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのは、そのことを示していると思います。

⑦ 私たちも過ぎ行くこの世の人間関係の中での孤独を恐れずに、むしろその孤独をバネにして、ひたすら主キリストと内的に深く結ばれて生きるように心がけましょう。そうすれば、主の御力が死に行く私たちの体を介して大きく働いて下さり、周辺の人々にも豊かに救いの恵みを与えて下さると信じます。

2008年3月9日日曜日

説教集A年: 2005年3月13日:2005年四旬節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エゼキエル 37: 12~14. Ⅱ. ローマ 8: 8~11. Ⅲ. ヨハネ福音 11: 1~45.
① 皆様、温かい陽の光が天地に満ちて生物の命を目覚めさせ成長させて、それぞれの花を咲かせる美しい春の季節になりました。私は、私たちの修道院が建っているこの三ケ日町の風景は神様からの一つの大きなお恵みだと思って、常々神に感謝を捧げています。そして春には、正岡子規の「故郷やどちらを見ても山笑う」の句を少しもじって、「三ケ日やどちらを見ても山笑う」などと口ずさみながら、明るく微笑みつつ散歩したりもしています。春は、生き物である私たちの心も、耐え忍ぶことの多かった長い冬の眠りから新たに目覚めて、意欲的に働き出す時、そして希望と喜びの温かい光を放ちながら輝く時ではないでしょうか。私たちも、神の恵みに対する感謝を新たにし、喜びをもって生活するよう心がけましょう。

② 本日の第一朗読には、「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」という言葉が、また第二朗読には、「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は肉ではなく、霊の支配下にいます」、「キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬ筈の体をも生かして下さるでしょう」という言葉が読まれます。ここで言われている「霊」は、神の霊、すなわち聖霊を意味しており、「肉」という言葉は、目に見えるこの世の過ぎ行く事物に囚われ、それらを自分中心に保持し利用しよう、そしてこの世で幸せになろうと努めている精神を指していると思います。神は、これまでこういう自力主義の肉の精神に操られ、この世の事物にだけ目を注ぐ肉の支配下に生活し勝ちであった私たちの中に、ご自身の清い愛の霊を吹き込んで、神の霊・神の力によって生かされ、導かれる存在、広い心で神と人を愛し、神の霊の支配下に清く美しく輝く存在にしてあげよう、こうして数々の誤謬と罪悪に充満して行き、やがて徹底的に崩される運命にあるこの世に生活していても、この世の罪に汚染されず、時が来たらそこから救い出される存在にしてあげようと、いま春を迎えて明るい希望の内に強く望んでおられるのではないでしょうか。私たちも、神のそのご期待に積極的に沿うよう心がけましょう。

③ 一週間前の主日と同様に本日の福音も長いですが、洗礼志願者のある教会では、それに加えて一つ特別の典礼もあります。私たちもこのミサ聖祭の中で、それらの教会の洗礼志願者たちのため祈りましょう。本日の福音に述べられているラザロの蘇りは、ヨハネ福音書に述べられている主がなされた七つの奇跡のうち、最後の最も大きな奇跡ですが、既に過越祭のためエルサレムに集まって来ていた群衆の間にこの奇跡の話が広まると、その数日後に行われた主の都入りに、エルサレムの東門から大群衆が迎えに出て、大歓迎行事になりました。ヨハネはその出来事を劇的に描きながら、ラザロの蘇りの奇跡を目撃した人々が、「その目撃したことを証ししたからである」と書いています。そして「ファリサイの人々は、もう何もかもだめだ、見ろ、世はこぞってあの人についてしまった、と互いに言い合った」とも付言しています。しかし、本日の福音の最後に、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とある言葉のすぐ後の話を読んでみますと、大祭司やファリサイ派たちはすぐに衆議会を招集して、「あの男は多くのしるしを行っている。このままにしておけば、皆彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、云々」と相談し合い、遂に主の処刑を決議しています。こうしてラザロの蘇りは、主の公生活を締めくくる奇跡となってしまいました。人に命を与えた奇跡が、主に死を齎してしまったのです。

④ 本日の福音には「イエスは心に憤りを覚えて」という言葉が二度も読まれましたが、主はいったい何に対してそんなに激しい怒りを感じられたのでしょうか。察するに、無数の人々に耐え難い程の死の苦しみや悲しみをもたらした悪魔に対してだと思います。その悪魔たちは、今ラザロを蘇らせようとしておられる主に対しても、殺害を企み策動しているのです。主はそれを覚悟の上で、死をも恐れずにこの大きな奇跡をなさったのではないでしょうか。私たちも主のように、自己犠牲を覚悟して人助けに挺身する時、神の霊に生かされて大きく輝き、人を助け救うことができると思います。その時にこそ、自己犠牲的な主の復活の力が、私たちの中で私たちを通して存分に働いて下さるのですから。神の命に内面から生かされ支えられて働くこの大胆な犠牲的生き方が、誤謬と罪悪の充満しつつある今の世における、キリスト教的生き方だと信じます。主のご受難を記念する聖金曜日を間近にして、私たちも神の御旨によって与えられた苦難の時、試練の時に、そのような大胆で美しい自己犠牲的生き方ができるよう、神に恵みと導きを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2008年3月2日日曜日

説教集A年: 2005年3月6日:2005年四旬節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. サムエル上 16: 1b, 6~7, 10~13a. Ⅱ. エフェソ 5: 8~14. Ⅲ. ヨハネ福音 9: 1~41.

① 本日の第一朗読には、神の命令によりサムエル預言者がダビデを神の民の王とするために注油したら、主の霊が激しく彼の上に降ったと述べられていますが、ユダヤ人の古い伝えによると、このダビデは父エッサイの不義の子、いわば私生児だったようです。ラビ・アハは次のように述べています。「聖人君子でも悪の誘い、性欲に振り回されることがある。たとえばエッサイは義人として尊敬されていたが、彼の不義の子として生まれたのが、後に名君となったダビデ王である。だからダビデは詩篇51に『母は私を罪の内に身ごもった』と述べ、詩篇27には『父母は私を見捨てた。しかし、あなた(神)は私を拾ってくれた』と言っている」と。この第二の引用は、私たちの唱えている詩篇では、「父母に見放されても、あなたは私を迎えて下さる」という日本語訳になっていますが、とにかくダビデは子供の頃、父エッサイには相応しくない女の産んだ子として、兄弟たちの中でも少し差別扱いを受けていたようです。それが、本日の第一朗読にも反映しています。子供たちを全部集めるようにと預言者から願われても、ダビデだけは除け者とされていたようですから。

② しかし、何よりも弱い者・小さい者の味方であられる神は、正にその除け者とされている人、この世の社会の価値観では存在価値がないとされている人の祈りを顧み、その人を介して多くの苦しんでいる人たちに豊かな救いの恵みを与えようとなさる神なのです。出エジプト記20章に記されているいわゆる神の十戒は、自由主義的文化圏では、とかく神に対する個人的倫理の立場から解説され勝ちですが、神がその冒頭に、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と話しておられる言葉と関連させて読み直しますと、それは強い者勝ちのこの世の価値観に抑圧され、苦しんで来た者たちが互いに兄弟姉妹として助け合い、自由に愛し合って生きる社会を創り上げるための原則であり、古代の支配者たちが自分たちの支配権を正当化し保護する神々を次々と造り出して崇めさせ、国民の正義感や価値観を自分たちに有利になるよう牛耳っていたその集団的利己主義を、一神教は神の名によって全て排除し、愛の神中心の新しい正義感や価値観の内に、新しい大きな家族共同体を産み出すための宗教だったようです。

③ そこでは、この世の氏・育ち・家柄・能力などは重視されず、ただ神と人の愛に生きることだけが重んじられるのです。ダビデは王になっても、神の僕としてこの愛に忠実に生きようとしていました。しかし、その後で王位についた人々の中には、神の愛に生きようとはせず、古代の支配者たちのような価値観で弱い者・小さな者たちを抑圧する人たちが少なくありませんでした。それで神は、次々と預言者たちを神の民に送り込んで、初心に立ち帰るよう強い言葉で促し続けられたのです。この世の社会で苦しんでいる弱い者・小さい者たちを、抑圧から解放しようとなさる神の愛の御旨と働きは、新約時代に入っても変わりません。主は山上の説教の中で「私は律法と預言者を廃止するためにではなく、完成するために来た」と話されましたが、律法も預言者も皆、この世の支配者たちや強い者勝ちのこの世的価値観の下に抑圧され搾取されている人々を、その奴隷状態から解放し、全ての人が神の子らとして神の愛の内に、互いに自由に助け合って平等に仕合わせに生きるようにするもの、そして神の民の美しい社会を築くものであったことを、心に銘記していましょう。私たちの信仰生活は、主キリストにおいてその伝統を受け継ぐものなのですから。また豊かさと便利さの溢れる現代の資本主義社会においても、その陰にはまだ非常に多くの人が貧困ゆえに自由を奪われ、昔の奴隷たちのように働いているのですから。

④ 本日の第二朗読には、「あなた方は以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」とありますが、ここで言われている光は、この世の物質的な光ではありません。現代の都会では、部屋の中を夜昼人工的な電気の光で明るく照らし、屋外の夜の道路も明るく照らし出して、外的闇を全く無くしていますが、そういう明るさ一辺倒の中で生活していますと、次第に光明の美しさも有り難さも分からなくなり、昔の人たちのように夜空に輝く天の川や、無数の星々の壮大な美しさを味わうこともできなくなってしまいます。それは言わば、夜も人工的光で明るくされているビニール・ハウスの中で生きている家畜や植物のように、不自然な生き方を続けていることであり、次第に人間本来の心の能力を鈍化させたり、ばい菌に対する体の抵抗力を退化させたりして行くのではないでしょうか。そして知らない内に、心に神秘な内的闇が蓄積され広がって来るのではないでしょうか。神がお創りになった大自然の闇を厭わず、その闇の背後でも呼びかけておられる神の現存を信じてこそ、月や星の美しさに感動したり、太陽の光の美しさに喜びを覚えたりするようになると思います。これが、主に結ばれて主と共に、「光の子として歩む」生き方だと思います。

⑤ 本日の福音は、昔から洗礼志願者を闇から光へ導き入れる時に朗読されて来た福音で、聖アウグスティヌスは、シロアムの水で目を洗った盲人を洗礼志願者になぞらえた説教を残しています。シロアムは、「遣わされた者」(すなわちメシア)という意味の言葉です。主は唾で土をこねてその盲人の目に塗ったとありますが、人間の唾には殺菌力がありますし、昔のユダヤ人の所では眼病を癒す力があると信じられていたそうです。私たちの受けた洗礼は、もう過去のものとなってしまったのではなく、その洗礼の水は「生ける水」すなわち泉となって、今も私たちの魂の奥に働いています。そのメシアの泉で心の眼を洗い、光と闇の力とを正しく見分ける視力を回復させながら、救い主メシアにあくまでも忠実に従うよう努めましょう。

⑥ 本日の福音であるヨハネ9章25節から31節には、「知る」という動詞が6回も使われています。盲目を癒された人の言葉に4回、ファリサイ派の言葉に2回です。聖書についての理知的な頭の知識を豊かに持っていたファリサイ派は、自分の頭の中にあるその知識を中心にして、全てを判断し裁こうとします。「我々は神がモーセに語られたことを知っている。しかし、その人がどこから来たかは知らない」と、安息日に主が神の力によってなされた奇跡的治癒を頭から無視し、安息日に癒す人を罪人として排斥する厳しい態度で話しています。主がなされた奇跡的な神の業から、新しく謙虚に学ぼうとはしていません。それに対して目を癒された人は、神の力でしかなし得ない奇跡的治癒の体験に基づいて猛然と反発します。それで、遂に神殿の境内から追い出されてしまいました。しかし、彼が追放されたことをお聞きになった主が、再び彼の所に来て下さり、彼に神よりの人メシアを信ずる恵みを与えて下さいました。

⑦ 間もなく復活祭に受洗する今年の洗礼志願者たちも、主を信奉していない世の人々の考えに迷わされることなく、神よりの導きと救いの恵みとを正しく見分け、隠れて現存しておられる主と内的に出会って、恵みから恵みへと逞しく進むことができるよう、このミサ聖祭の中で主の助けと導きとを祈り求めましょう。同時に私たち自身も、自分の頭の知識に固執することなく、世の終わりまで人類社会の中に現存して、絶えず働いておられる主からの突然の示しや導きにも、神の僕・婢としてすぐに柔軟に従って行く決心を新たに致しましょう。

2008年2月24日日曜日

説教集A年: 2005年2月27日:2005年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 3~7. Ⅱ. ローマ 5: 1~2, 5~8. Ⅲ. ヨハネ福音 4: 5~42.

① 本日の第一朗読に読まれる「マサ」や「メリバ」という地名は、私たちが日々唱えている詩篇の祈りにも、「今日神の声を聞くなら、メリバのあの日のように、マッサの荒れ野の時のように、神に心を閉じてはならない」という形で登場していますが、本日の朗読箇所の中でモーセが主に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることや、主の命令に従ってイスラエルの長老たち数名をいわば護衛のようにして伴いながら、民衆に近づいていることから察しますと、荒れ野での民衆の不満は非常に激しく、神との調停者であるモーセは死を覚悟しなければならなかった程、その場の雰囲気は一時的に険悪になっていたと察せられます。太陽が容赦なく照りつける砂漠で、水が全く得られない時の苦しみは、それ程深刻で絶望的に覚えるのだと思われます。しかし、私たちの信奉している神は、そのような極度に絶望的事態をも簡単に解消することがおできになる程、全能の神です。私たちはそういう力強い神に伴われ、導かれ、守られているのですから、目前の困難がどれ程大きくとも不満を言わずに、ひたすら黙々と神に従おうとすべきことを、本日の第一朗読は教えているのだと思います。

② シナイ地方に多い石灰岩には、今日でも水を豊かに内に蓄えている岩のあることが、第一次世界大戦の後にこの地方を支配していた英国軍によって確認されています。空気に触れている石灰岩の表面は固くなっていますが、空気に接触していない部分の石灰岩は幾分柔らかいので、その岩が山の麓などにあって、そこに遠い高い山からの地下水が流れ込んでいるような時には、その岩の表面を固いもので打ち壊して穴を開けると、水が豊かに流れ出ることがあるのだそうです。神は3千4百年も前に、そのことをイスラエルの民に実証的に示し、くよくよ心配せずに全てを神に委ねて従って来るよう、お求めになったのだと思います。私たちも、目前の過ぎ去る困難に心を振り回されずに、私たちを愛しておられる全知全能の神への信頼に生きるよう、日々決意を新たにして歩み続けましょう。

③ 本日の第二朗読には、「信仰によって」という言葉と「希望」という言葉が、それぞれ二回ずつ読まれます。以前にも話しましたように、ギリシャ語のpistis (信仰)という言葉は、信頼という意味の言葉ですから、神の働きや導きに絶対的に信頼し続けることによって数々の苦境を乗り越えて来た体験を持つ使徒パウロはここで、たとえどんなに絶望的状態に陥ることがあろうとも、諦めてしまうことなく、あくまでも神に信頼し希望し続けているよう勧めているのだと思います。神は、苦しみの中で実践的に表明されたそのような信頼や希望には、必ず応えて下さるからです。私がここで「実践的に」と申しましたのは、単に口先で「信頼しています。希望しています」と申し上げているだけでは、その祈りは頭の信仰の段階に留まっているだけで、奥底の心はまだ十分に目覚めず、そっぽ向いているかも知れないと思うからです。意識界の「頭」が「心」に呼びかけつつ実践に励むと、無意識界の「心」が度重なるその実践に促されて目覚めて来るのだと思います。頭の働きは自己中心的ですが、心が神に頼り神中心に生きようと目覚めて来ると、そこに神の力が働き出すのです。奥底の心が目覚めて真剣に祈る時は、それは態度や顔や行動にまで現れます。苦しくとも神に眼を向けてその苦しみを喜んで捧げる時、神は感謝と信頼の心が籠ったその微笑みをお喜びになり、特別に眼をかけて下さるのではないでしょうか。四旬節に当たり、使徒パウロの模範に倣って、私たちも自分の受ける苦しみを十字架上の主と一致して耐え忍び、多くの人の救いのために天の御父にお捧げするよう心がけましょう。

④ 本日の福音には、旅に疲れてヤコブの井戸の側に休んでおられる主と、サマリアの女との話が載っています。ちょうど正午頃で、弟子たちは皆食べ物を買うために町に行っていた、とあります。水汲みは朝夕の涼しいときになすのが普通なのに、誰も井戸に来ない正午頃に、女が一人で町外れの井戸に来たのは、社会的に恥ずかしい罪があって、なるべく人目を避けていたからかも知れません。主はその女に「水を飲ませて下さい」と願うことから、話しかけます。ユダヤ人はサマリア人と対立していて、サマリア人に自分から挨拶の言葉をかけるようなことはなく、まして男が女に話しかけるようなことはないので、その女ははじめ、この型破りの人に驚きますが、しかし、その人の謎めいた言葉や態度から、間もなくこの人は神よりの人、預言者ではないかと思います。そして暑い日中にもう水汲みに来なくてもいいように、主の話された「決して渇くことのない水」を、自分に与えてくれるよう願います。女は、自分の人生や今の社会に嫌気がさし、救いを渇き求めてもいたのだと思います。主は正にそのような苦しんでいる人生の脱落者をも救おうとして、ここで巧みに話しかけられたのだと思います。主と暫く話している内に、女の心には、町に戻って人々に自分が今出会った人のことを語ろうとする望みも勇気も生じて来たようで、この女の語る言葉から、サマリア伝道の道も開かれるに到ったようです。

⑤ 現代にも、救いを切に渇き求めている人生の脱落者は少なくありません。もしも神の御摂理によってそのような人に巡り会うようなことがありましたら、私たちもその人に何かを願ったり、その人の話に耳を傾けたりして、巧みにその人に神信仰の恵みを伝えることができるよう、日ごろから全ての人、特に今苦しんでいる人、今助けを必要としている人のため、心を開いて自分の祈りや苦しみなどを神に捧げることにも心がけていましょう。

⑥ 最後 に、主が女に語られた「真の礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する時が来る。今がその時である」というお言葉も、忘れないようにしましょう。旧約時代には、礼拝する所は云々などという細かい外的規制がたくさんあって、各民族はそれぞれその民族特有の宗教形態を細かく順守しながら神を崇めていましたが、救い主が来臨して全人類救済のいけにえを神に捧げ、神信仰の新しい道を全ての人に向けて開かれ、新しい宗教の時代が始まったのです。宗教には何らかの美しい外的形というものも大切ですが、しかし古い時代から受け継いだ一つの固定化した形にあまりこだわり過ぎずに、何よりも心の底から神を礼拝し、神に感謝し信頼して生きること、すなわちそのような心の信仰、心のあり方を新しく自由に表明することの方が、神に喜ばれる時代になっているのではないでしょうか。私たちが主キリストの望んでおられる「真の礼拝者」となって、心から自由に神信仰に生きることができるよう、恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。

2008年2月17日日曜日

説教集A年: 2005年2月20日:2005年四旬節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 12: 1~4a. Ⅱ. テモテ後 1: 8b~10. Ⅲ. マタイ福音 17: 1~9.

① 四旬節の第2主日には、毎年アブラハム物語の中から第一朗読が選ばれていますが、今年の箇所はアブラム(すなわち後のアブラハム)の選びの話です。メソポタミアの異教文化の中に生まれ育ったアブラムが、宇宙万物を創造なされた神の声を聞き分けるに到ったことは、異教文化の中にも真の神がお働きになることを示しています。それで、異教や異教文化を軽視することなく、その中にも現存し働いておられる遍在の神に、信仰の眼を向けるよう心がけましょう。

② さて神はそのアブラムに、父の家を離れて神の示す地に行くよう命じたのですが、その目的として「私はあなたを大いなる国民にしてあなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」と話しておられます。本日の第一朗読には「祝福」という言葉が5回も登場していますが、聖書に数多く読まれる神からの祝福は、多くの人が単に相手のご無事、相手の幸せを祈るぐらいの軽い気持ちで言い交わしているのとは違って、相手に神からの貴重な現実的恵み、すなわち神の御保護・お導き・お助けなどを与えることを意味しています。ですから以前にも申しましたように、イサクはヤコブに長子に与えられる神よりのアブラハムの祝福を与えてしまった後に、イゾウが来て祝福を願った時に困ってしまい、結局地の祝福しか与えることができませんでした。アブラムは、そういう二つとない特別の現実的恵みの祝福を神から戴いたのです。しかも、「地の氏族は全てあなたによって祝福に入る」という神の言葉から察しますと、その祝福を単に自分の一族子孫のためにのみ受けたのではなく、全人類のために戴いたのです。従って、この世に生まれ出る諸国諸部族の全ての人は、血筋によらずに、ただアブラハムの信仰精神を受け継いで生活するだけで、アブラハムの受けた祝福に参与すると言ってよいのではないでしょうか。ピオ11世教皇はこの意味で、「私たちは皆アブラハムの子孫である」とおっしゃたことがあります。肉の血ではアブラハムの子孫ではありませんが、皆聖霊の赤い愛の血によって生かされ、それを受け継いでいるという意味では、神の御眼にアブラハムの子孫とされているのではないでしょうか。

③ 私たちもこのことを深く肝に銘じ、アブラハムの信仰精神を体得し堅持するよう心がけましょう。アブラムは、神のお言葉に従って、神がお示しになるという見知らぬ所へ出発したのですが、察するに行き先の情報が全くなく、ただ神のお導き一つに信頼して遠い旅を続けるのですから、これからの生活のため何を準備し何に警戒していたら良いのかも判らず、時々は厳しい現実に直面し、弱い人間として深刻な不安に襲われることもあったのではないでしょうか。しかしアブラムは、たとい一緒にいた妻や甥のロトがどれ程不安を訴えても、ひたすら神のご命令、神のお言葉だけに縋って祈りつつ、不屈の忍耐を持って歩み続けたのだと思われます。時々はちょうど暗いトンネルの中にいるかのように覚えたほど、不安の闇の深まりを痛感したことがあったかも知れません。しかし、その試練を抜け出た時には、また神に出会ったという喜びを見出していたのではないでしょうか。私たちも、時として暗い試練のトンネルを体験しようとも、神から召されたこの信仰生活の道に最後まで忠実に留まり続けましょう。全能の神が、私たちもアブラハムの精神に生きているのをご覧になって、私たちに豊かな祝福を与えて下さるように。

④ 本日の福音に描かれている主のご変容の出来事は、この世の日常の出来事からは離れた、ある意味では歴史を超えた神秘的出来事であったようです。そのことを象徴するかのように、主は三人の弟子たちだけを連れて高い山に登り、ルカ福音によるとそこで一夜を明かし、翌日その山から下りて通常の生活にお戻りになったようです。一行はその出来事の前にガリラヤ北方のフィリッポ・カイザリアにおり、出来事の後でガリラヤに戻って来ましたから、御変容の山は、キリスト時代にガリラヤでの暴動などに備えてローマ軍の砦が置かれていた、ガリラヤ中心部の背の低いターボル山ではなく、フィリッポ・カイザリアに近い、2千メートル級の大ヘルモン連山の一つであったと思われます。そこでは急に白い雲がかかったり、またすぐに過ぎ去ったりしますから。もしそんなに高い山で一夜を明かしたとしますと、この出来事は冬のことではなく、教会の典礼が昔から8月6日に記念しているように、真夏の出来事だったのではないでしょうか。ペトロが夢うつつの内に目撃した光り輝く出来事に感激して、「ここにテント小屋を三つ建てましょう」などと話したことからも、人里遠く離れたその山上が真夏には涼しくて過ごし易く、快く感じられる所だったと思われます。

⑤ さて、半日がけで登ったその山の上にいた時、ルカ福音には「ペトロと他の二人の弟子たちは眠くてたまらなかった」とありますから、日が落ちて暗くなってからでしょうか、主のお姿が彼らの目の前で急に変わり始め、顔は太陽のように輝き、衣服も光のように白く輝き始めました。太陽のように輝いたという主のお顔は、シナイ山で神にまみえたモーセの顔や、黙示録1章にヨハネが描写している栄光に満ちた復活のキリストのお顔を思わせます。とその時、見ると遠い昔の人モーセとエリヤの姿が現れて、栄光に輝く主と語り合っていました。この二人は、救い主来臨の準備をする旧約時代を代表する二大人物です。この全く思いがけない夢幻のような出来事に、弟子たちの心は驚き感激したことでしょう。ペトロはとっさに「私たちがここにいるのは、すばらしいことです。云々」口走りましたが、まだ半分眠っていて、夢うつつのような心境にいたのだと思われます。

⑥ その時、急に光り輝く白い雲が彼らを覆い、雲の中から「これは私の愛する子、私の心に適う者、これに聞け」という威厳に満ちた声が響き渡りました。弟子たちはその声を聞いて非常に恐れ、ひれ伏してしまいました。この場面は、ヨルダン川で主が受洗なされた時の場面によく似ています。ヨルダン川の時には天が開けて天から声が聞こえたのですが、天に近いこの山の上では、光り輝く雲が弟子たちを覆い、その間近の雲の中から威厳に満ちた声が響き渡ったのです。この時の光り輝く雲は聖霊の現れで、神の畏れ多い臨在を示していると思いますが、その臨在の突然の身近さに弟子たちの心は極度に畏れ、ひれ伏したのだと思われます。この場面も、モーセが2290m余のシナイ山の雲の中で神から啓示を受けた時の状況に似ていると思います。しかし、弟子たちはそれ以上には何も啓示を受けず、夢幻のようなあの世の光り輝く状況は過ぎ去ってしまいました。

⑦ その時、主イエスが近づき、ひれ伏している弟子たちに手を触れて、「起きなさい。恐れることはない」と言われました。彼らが顔を上げて見ると、そこにはもう主イエスの他に誰もいませんでした。あの世の栄光に満ちた神の顕現は消えて、再びこの世の現実に戻っていたのでした。マタイ福音には「近づく」という言葉が52回も使われていますが、そのほとんどは人間が主の御許に近づく時などに使われています。しかし、2回だけ主が弟子たちに現れる時に使われています。その一つはこのご変容の場面であり、もう一つは、復活なされた主がご昇天の直前に、「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」とおっしゃって、弟子たちを全世界へ宣教に行くよう命じた場面で使われています。あの世の三位一体の神は、目に見えないながら今も世の終わりまで、ご聖体の主イエスにおいて私たちの間近に現存しておられるのではないでしょうか。弟子たちが体験した主のご変容の場面を心に描きながら、その主が目に見えないながら私たちにも近づき、私たちにも手を触れて、「起きなさい」と優しく呼びかけて下さるという、主の現存に対する信仰を新たに致しましょう。多くの人の救いのために、私たちも主と一致して、日々の苦しみを喜んで神にお捧げすることができますように。

2008年2月10日日曜日

説教集A年: 2005年2月13日:2005年四旬節第1主日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 創世記 2: 7~9, 3: 1~7. Ⅱ. ローマ 5: 12~19. Ⅲ. マタイ福音 4: 1~11.

① 本日の第一朗読は、創世記2章と3章に述べられている人間の創造と堕落についての話ですが、この話をそのまま歴史的出来事についての報告と思わないよう気をつけましょう。目撃証人のいない事柄ですし、これは神から聖書記者に夢か幻のうちに啓示された一種の神話物語だと思います。世界各地の諸民族には、世界の創造や人間の創造についての断片的神話が幾つも伝えられていますが、それらに比べて創世記に読まれる神話は遥かに詳しく、また最もよく纏まっていると言うことができましょう。それ故私は、この神話は人間の心が自力で生み出した夢物語のようなものではなく、その心の中に神の霊が働いて生み出された物語だと思っています。人間の心の中に神霊が働いて見聞きした幻示や、それに基づいた語った言葉が、多少形を変えてでも後でその通りに実現したという実例は、聖書の中でも数多く読まれますし、聖人伝の中にも、民間の伝承の中にも枚挙に暇がない程多く存在します。私は歴史家として、そういう実例をたくさん知っていますので、創世記の神話も、神霊が人の心に働いて生み出した話だと信じます。

② ところで、その神話の中で、神が「命の息を吹き入れて生きる者となった」と人間について述べられている言葉は大切だと思います。私が中学生であった頃には、「自己とは何ぞや」という哲学的な問題が、真面目な若者たちの間で盛んに囁かれていました。ちょうど太平洋戦争が負け戦になっていた頃や、終戦直後の絶望的社会事情が社会を暗くしていた時代で、個人ではどうしようもない程自分の人生に明るい希望を持てずにいた時でした。この世の事物現象に執着するから苦しむのであって、心がその執着を全く断ち切った心境に入れば、悩みも苦しみも超越して生きることができるという、釈尊の教えも耳にしていましたし、禅によってその超越的「無」の心境を体得しようとしている人の多いことも知っていました。しかし私は、長く続いた青春期のその悩みを介して仏教からキリスト教へと導かれ、今は神の不思議な導きに感謝しています。そしてキリスト者となった立場から、改めて「自己とは何ぞや」と問い直すこともあります。

③ 洗礼者ヨハネは、ユダヤ教指導者たちから「あなたはどなたですか」と、繰り返して問われた時、「私は荒れ野に叫ぶ者の声」と答えていますが、このような自己認識は、豊かさと便利さの中で、また様々の意見対立の中で生活している現代人にとっても大切なのではないでしょうか。つまり、自分であれこれの事物や意見などを全く所有しようとせず、ただ神の声・救い主の声となって、自分に与えられている今の世を貧しく身軽に渡り歩くなら、心は執着から解放されていますから、悩みも苦しみも超越して生きることができるのではないでしょうか。神からの「命の息」という聖書の言葉に出会った時、私も「ここに私の本当の自己がある」と思いました。ヘブライ語の原文では息は「ルーアッハ」といって、風という意味も持っているそうです。外的には殆ど見ることも掴むこともできない、「無」のように軽い自己に成り切って、春風や秋風のように、人々にそっと奉仕していること、自分では富も名誉も能力も何も自分のものとして所有しようとせずに、全ては神からの委託物として利用させていただいていること、そしてわずか数十年の短い人生を風のように過ぎ去って行くこと、そこにキリスト者としての私の生き方があるのだと悟りました。

④ 神から啓示された創造神話によると、人祖は狡猾な蛇に騙されて神からの戒めを無視し、自分中心に理知的に考え、禁断の木の実を取って食べてしまいました。自分中心に自己をも事物や論理をも所有しようとしたために、神よりの霊的な「命の息」から離れてしまったのではないでしょうか。人間の悩み・苦しみはそこから始まったのであることを、神話は教えているのだと思います。主キリストは「敵を愛せよ」とお命じになりましたが、私は、自分にとって嫌な敵も競争相手も、自分の恩人だと考えます。自分の能力・見解・権利・実績などに固執し、十分に評価してくれない相手にそれを認めさせようとすると、当然その執着から深刻な苦しみも生じて来ます。理知的尺度を最高のものにして「不平等だ」などと怒らずに、自分の受ける苦しみを黙々と喜んで神にお捧げすると、無から創られた自分と神との接点である「無」に近づくことができ、それだけ神の力が内面から自分の内に働くようになります。もし積極的に相手の存在に感謝し、「敵のために祈れ」という主の勧めに従って、日々相手の上に神の恵みを祈るなら、不思議に心が軽くなり、やがて温かい眼で相手を眺め、相手と気軽に話し合うこともできるようになるでしょう。こうなったらしめたものです。その大きく広がった自分の心の中に、運命の糸を握っておられる神がのびのびと働いて下さり、自分に新しい道が開けて来るのですから。これは、小さいながら私の体験して来たことでもあり、人生の秘訣だと思います。

⑤ 本日の福音は、主が公生活の始めに聖霊に導かれて荒れ野に行き、四十日間昼も夜も断食なさった時に、悪魔から受けた誘惑の話であります。極度の空腹を覚えておられた主に、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」といったようですが、主はすぐに「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の申命記の聖句を引用して、その誘惑を退けておられます。この世の物質的豊かさに依存して生きているだけの人間では、まだ創造神の意図した人間ではなく、詩篇にも詠われているように、やがて寿命が来て次々と死んで行く野の草や動物たちとあまり違わない存在価値しかありません。そうではなく、神の御前に人間らしい心の輝きを放ちつつ、永遠に価値ある人生を営むには、どうしてもその時その時に神から与えられる言葉に生かされ導かれて生きる必要がある、というのがこの聖句の骨子だと思います。創世記の冒頭にも描かれているように、この世界は全て「光あれ !」などの力強い神の言葉によって創られ、また支えられているのです。全能の神の言葉には、無から事物を創造したり奇跡を行ったりする威力と共に、人の心を神の命へと導く働きもあります。その神の言葉に内面から生かされ導かれて生きるのが、人間本来の生き方なのではないでしょうか。

⑥ 次に悪魔は、主を神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」などと、聖書の言葉も引用しながら誘惑しますが、主はここでも申命記の言葉を引用して、その誘惑を退けます。「神である主を試す」のは、人間主導の理知的思考を駆使して、神をも聖書をも利用しようとする傲慢不遜の行為だと思います。私たちも気をつけ、神の言葉、聖書の言葉に対しては、ひたすら謙虚に聞き従う僕・婢の態度を心がけましょう。最後に悪魔は、世の全ての国々とその繁栄ぶりとを見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、云々」と誘惑しましたが、主はまたも申命記の言葉を引用して、神以外のものを拝ませようとする不遜な試みを、断固として退けます。宇宙万物の創造者であられる神のみを唯一の主として推戴し、聖母のように神の僕・婢としてただ神のみに仕えよう、神のみに従っていようとするのが、感謝を知る人間本来の生き方なのではないでしょうか。四旬節の初めに当たり、自己とは何か、人間本来の生き方はどうあるべきかなどについて、主キリストの生き方やお言葉なども模範にして改めてしっかりと考え、神の働きに一層深く根ざした実り多い人生を営むよう、決意を新たに致しましょう。

2008年2月3日日曜日

説教集A年: 2005年1月30日:2005年間第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ゼファニヤ 2: 3, 3: 12~13. Ⅱ. コリント前 1: 26~31. Ⅲ. マタイ福音 5: 1~12a.

① 本日の第一朗読の預言者ゼファニヤは、バビロン捕囚の少し前頃の人で、ヒゼキヤ王の血を引く貴族出身者であったと考えられています。当時のユダヤ貴族の罪深さをよく知っていて、「主は言われる。私は地の表から全てのものを一掃する」という言葉で、恐ろしい主の怒りの日についての預言を書き始めています。しかし、ゼファニヤ預言者の言う「主の怒りの日」は終わりの日ではなく、そこから新しい神の民が出現する始まりの日のようです。本日の第一朗読にも、「恵みの業を求めよ。苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に、あるいは身を守られるであろう。」「私は お前の中に、苦しめられ卑しめられた民を残す。彼らは、主の名を避け所とする。イスラエルの残りの者は、云々」とあって、神に従おうとしない世俗社会での成功や安楽を自分の人生目的とせずに、苦しみに耐えてひたすら神の御旨を訊ね求め、それに従おうとしている少数の小さい貧しい者たちには、神が避難所を提供してその人たちを匿い、生き残らせて下さることが予告されています。ゼファニヤという名前も、「隠す」という意味の動詞から派生している名詞のようです。

② 本日の第二朗読の中でも、「神は、…世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、誰一人神の前で誇ることがないようにするためです」という言葉が読まれますが、私たちも、預言者ならびに使徒たちのこれらの言葉に従って、ひたすら神の御旨中心に、神に匿われて小さく貧しく忠実に生きるよう心がけましょう。そうすれば、不慮の恐るべき天罰の日や災害の日にも、神に守られて生き残り、神の民として立ち直って新しく仕合せに生き続けることができると信じます。

③ 本日の福音は、いわゆる「山上の説教」と言われている話からの引用ですが、その始めにギリシャ語原文で「この群衆を見て」とあるその群衆とは、すぐ前にある文脈を見ますと、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から来た大勢の群衆を指しています。としますと、そこにはユダヤ人に混じって非常に多くの異教徒もいたと思われます。ルカ福音6章の平行記事を見ても同様です。どちらの福音にも、主はこの話の後でカファルナウムの町に行っています。従って、マタイがここで「山」と書いているのは、地上高くに聳えているような山ではなく、大群衆が一緒に寄り集まることのできる広い高台や高原のような所を指していると思われます。カファルナウムの西南にはちょうどそのような広い平坦な丘がありますし、そこには今日「山上の説教」の教会が建っています。それでルカが、山にいって夜通し祈ってから12使徒を選定した主が、「彼らと共に山を下り、平らな所にお立ちになった」と書いている処と同じ、平らな丘の上での話であったと思われます。

④ しかし、マタイがその処をわざわざ「山」と表現しているのには、何か特別な意図があるからではないでしょうか。察するにマタイはこの「山上の説教」を、神がかつてシナイ山上でモーセを介して旧約の神の民に授けた十戒などの信仰規範に匹敵する、神の子メシアがユダヤ人も異邦人も一緒になっている新しい神の民に、人里よりは天に近い山の上から授けた新約時代の信仰規範として描いているのではないでしょうか。それでこの観点から、本日の福音であるいわゆる「真福八端」(八つの幸い) について、考察してみましょう。

⑤ まず出エジプト記20章に載っている十戒には、「他のものを神にしてはならない」とか「みだりにあなたの神、主の名を呼んではならない」とか、「ならない」という禁令が数多く連発されており、その間に二回だけ「安息日を心に留めて聖とせよ」という命令と、「あなたの父母を敬え」という命令があって、旧約の信仰規範は全体として、罪に傾き勝ちな人間の自由を束縛し、心を矯めなおそうとしているような印象を与えます。これに対してマタイの描く新約の信仰規範は、まず「マカリオイ(幸い)」という言葉を連発しながら、神の救う力がどういう人々の中で働くかを啓示しています。「幸い」と邦訳されている原語の「マカリオイ」は、英語ではhappyと訳されていますが、いずれも少しニュアンスが違っていて、中国語の「恵福」(恵まれ祝福された) という訳語の方が、原語の意味に近いと思われます。新約の信仰規範は、神から各人の心に注がれる温かい思いやりの精神で、主体的に自由に生きさせる規範であり、ますます豊かに神よりの恵みと祝福を受けさせる規範である、と考えてよいのではないでしょうか。

⑥ 次に、十戒の最初の部分が対神関係、後の部分が対人関係のものであるように、私は勝手ながら、マタイ福音書にある「真福八端」も、前半部分に神に対する心の態度を、「憐れみ深い人々」以降の後半部分に人に対する心の態度を教えていると受け止めています。もしこの見解が正鵠を得ているとするなら、主はこの世で貧しい人、悲しんでいる人が天国に入れていただき慰められる、などと説かれたのではないと思います。神の御前で霊的に貧しい人、すなわち人間の心が生み出す一切の偶像を捨て去って真の神以外のものを神とせず、ひたすら神中心に生きている宗教的に貧しい人が、神の国、すなわち神の支配・神の働きを自分のものとする、と宣言しておられるのだと思います。

⑦ 「心の貧しい」と邦訳されている原文のプトーコイ・トー・プネウマティは、原文をそのまま訳しますと「霊において貧しい」となり、神の御前での霊的乞食を指していると思われますし、同様に「悲しむ人々」という言葉も、この世の富・権力・名誉や、対人関係のことで悲嘆に暮れている人々のことではなく、何よりも神を忘れ、神に背を向けて生き勝ちな自分の中の罪のことで悲しむ人々を指している、と私は受け止めます。ここで「慰められる」と邦訳されている動詞パラカレオーは、直訳すると「側で声をかける」となり、慰め励ますという意味で理解することもできますが、側で声をかけて慰めて下さるのは、神ご自身なのではないでしょうか。第三の「柔和な人々」も、対神関係の観点から見直しますと、八方美人のような人々ではなく、神からの呼びかけや導きにすぐに従おうとしている聖母や聖ヨゼフのような、神の僕・神の婢の精神で生活している人々を指していると思います。「柔和な」と邦訳されているヘブライ語も、「貧しい」と邦訳されているヘブライ語と同様に、背を曲げるという意味合いを持っているそうです。これは、神の御前に遜り、神に徹底的に従おうとしている人々の姿を指しているのではないでしょうか。第四の「義に飢え渇く人々」は、この世の社会正義や自分の権利主張のために奔走する人々のことではなく、神の御前での義、すなわち神に対する正しい従属関係のうちに生きることを切望している人々を指していると思います。そういう人の心は、ちょうど鉄が磁石に引きつけられるように絶えず神に憧れ、神中心に生きようと努めると思いますが、この憧れは、神に近づくほど強くなるのではないでしょうか。

⑧ 次に後半部分で「幸い」と言われている人々は、この世の暗い難しい生活環境や、真の信仰に生きる人を迫害するような社会状況の中で、神の愛の命に生かされている人々を指していると思います。「憐れみ深い人々」は、たといこの世では人から理解されず迫害されることが多いとしても、その罪を快く赦して善をなす人々を、「心の清い人々」は、心に神の愛の火を燃やしつつ、誤解する人や迫害する人をも温かい清い眼差しで眺める人々を、更に「平和を造る人々」は、神の子キリストの献身的愛の精神に内面から生かされつつ、この世の人々の間に互いに赦しあい助け合う精神を広める人々を指していると思います。たとい神の義のために迫害されたり、あるいは身に覚えのない言葉や行いのことで悪口を浴びせられることがあっても、荒れ狂うその現実や滅び行くこの世の流れを恐れずに、むしろ「その時にこそ大いに喜びなさい。天国はその人たちのものであり、その人たちは天国で大きな報いを受けるのですから」というのが、主キリストが新しい神の民に与えた実践的信仰規範なのではないでしょうか。私たちも積極的心意気を重んずるこの規範を日々心に銘記しながら、激動する今の世を希望をもって生き抜きましょう。

2008年1月27日日曜日

説教集A年: 2005年1月23日:2005年間第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 8: 23b~ 9: 3. Ⅱ. コリント前 1: 10~13, 17. Ⅲ. マタイ福音 4: 12~23.

①本日の第二朗読は、使徒パウロのコリント前書第1章からの引用ですが、パウロは挨拶と感謝から成るこの書簡の序文の後で、すぐに本論に入り、「皆勝手なことは言わず、仲たがいせずに、心を一つにし思いを一つにして、固く団結しなさい」と、キリストの名によって強く勧告しています。コリントの信徒団の中に争いが生じ、「私はパウロに従う」「私はアポロに」「私はケファに」「私はキリストに」などと言い合っているという知らせが、クロエの家の人たちからあったからでした。それでパウロは、「キリストは幾つにも分けられてしまったのですか ! 」と、厳しく詰問しています。

②この厳しい叱責の言葉を、現代の私たちキリスト者も身を正して謙虚に受け止め、深く反省しなければならないと思います。ご存じのように、一口にキリスト教と言っても、教会は、カトリック教会やギリシャ正教や、英国教会・プロテスタント各派などと、歴史的に数多くのグループに分かれてしまっており、互いにその勢力拡張を競い合った前歴の名残は、今も続いているからです。四十数年前の第二ヴァチカン公会議以降、相互の話し合いや相互協力の動きが盛んになって、過去の忌まわしい対立関係が大きく緩和されて来たことは喜ばしいことですが、しかし、まだ主キリストにおける一つの信仰共同体にはなってはいません。18世紀半ば以来キリスト教会の信仰一致のためになされた提案や祈りは、個別的に幾例かありましたが、教会一致のための祈祷週間は、1856年にロンドンで開催されたYMCAの大会の時から一部のプロテスタント諸派の間でなされたのを始めとして、カトリック教会内でも1894年のレオ13世教皇の呼びかけに応じて、始めはごく一部の人々によって続けられています。20世紀に入り第一次世界大戦後に国際精神が高まると、プロテスタント諸教派の間でキリスト教一致のための祈りが次第に世界的に広まって来て、信仰と職制の一致についても教派間で幾度も話し合いがなされていますが、初代教会以来の伝統を何よりも重視するカトリック教会では、教会一致のための祈りは続けながらも、教義や教会組織などについての話し合いには距離を置いて来ました。

③ところで、これ程多くの祈りと話し合いが大きな善意のうちになされても、キリスト教会がまだ一つになれずにいるのは、何故なのでしょうか。私はその一番大きな原因を、人間主体の自分の信条、自分たちの信条や伝統というものにこだわり、主キリストや聖母マリアのように、己を徹底的に無にして神の僕・婢として生きようとしていないことにあると考えます。人間主体の善意は山ほどあるのですが、己を無にして現実世界の中での神のお考え、神の働きに徹底的に従おうとする意志的「心の信仰」に不足していますと、創世記3章に描かれている蛇の誘惑の時のように、そこに知的な悪魔の誘惑が巧みに介入し、人間の知性や心を神の無我な愛から離れるように誘導してしまうのではないでしょうか。人間主体のそういう「頭の信仰」を超越して、我なしの神の愛の御旨に徹底的に従おうとする「心の信仰」に生きるには、神の聖霊による特別の照らしと導きの恵みが必要だと思います。それでカトリック教会は、毎年1月18日からパウロの改心の記念日である25日までの八日間に、キリスト教会一致のために特別に祈ることにしています。本日のこのミサ聖祭もその意向で捧げていますので、ご一緒に心を合わせて、教会一致の恵みを神に祈り求めましょう。

④パウロは本日の第二朗読で、「キリストが私を遣わされたのは、…..福音を告げ知らせるためであり、しかも、...言葉の知恵によらずに告げ知らせるためです」と述べていますが、この言葉も私たちに、人間主体の「頭の信仰」を脱皮して己を徹底的に神に捧げ、広い大らかなキリストの愛のうちに生きるよう、私たちを促しているのではないでしょうか。私たち各人の平凡な日常生活においても、そのような柔軟で寛大な神の愛を体現するよう心がけましょう。

⑤本日の第一朗読の中でイザヤ預言者は、「海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは栄光を受ける。云々」と述べて、エルサレム周辺のユダヤ人たちから軽蔑され勝ちであった異教的闇の中に住む人々の所に、神よりの救いの光が輝くことを預言していますが、マタイはこの預言を念頭に置きながら、本日の福音を書いています。当時ユダヤ教の指導者たちは、預言者ミカの予言に基づいてメシアはユダヤのベトレヘムから出るとのみ思い込んでいました。彼らが、あまりにも聖書の知識のみに偏った「頭の信仰」に留まっていたからだと思います。それでマタイは、彼らの思い込みの不完全さを正すために、博士たちの来訪について述べた2章では、そのミカの予言も引用してメシアが確かにベトレヘムに生まれたことを伝えると共に、ここではイザヤ預言者の言葉を引用して、メシアの齎した救いの光がユダヤ人たちから見下されていた異邦人たちの多く住む、ガリラヤから輝き始めたことを明らかにしているのだと思われます。それは、誇り高いユダヤ教指導者たちにとっては躓きであり、神の約束に反することに見えたかも知れませんが、かつてその指導者たちから軽蔑される徴税人であったマタイは、このことも神の予言通りであることを明示したかったのだと思います。

⑥本日の福音の後半は、主がガリラヤ湖のほとりを歩いて、二人ずつ計四人の無学な漁夫を宣教活動に召し出された話です。「頭の信仰」よりも「心の信仰」を重視する主にとって、宣教とは、神のお考えや教えを解り易く合理的に解説したり、その知識をできるだけ多くの人に伝えたりすることではなく、何よりも各人が実際に見聞きし、感動した神の救う働きを人々に力強く証言することであったと思います。目撃した現実について証言することは、学歴のない素朴な労働者であっても子供であっても、現実を素直に受け止め感動する心さえあればできます。現代に生きる私たちも、主が一番望んでおられる宣教活動は、そのような神の救い体験に基づく力強い証言であることを心に銘記しながら、復活なされた救い主が今も世の終わりまで続けておられる救いの働き、私たちの中でも成しておられる救いの働きに心の眼を開き、それを世の人々に証しするよう努めましょう。私たちが皆、目に見えないながらも実際に身近に現存しておられる復活の主に対する信仰と従順に励むなら、キリスト教会の一致を妨げて来た歴史的隔ての壁も、やがてゆっくりと内面から崩壊するに到ると信じます。この希望を新たにしながら、キリスト教会の信仰一致のために祈ると共に、日々の祈りと信仰実践にも励みましょう。

2008年1月20日日曜日

説教集A年: 2005年1月16日:2005年間第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 49: 3, 5~6. Ⅱ. コリント前 1: 1~3. Ⅲ. ヨハネ福音 1: 29~34.

① 本日の第一朗読は、この前の日曜日に話した第二イザヤの預言書に読まれる四つの「主の僕」の歌の、第二のものからの引用ですが、第二イザヤの40章から48章までは、バビロンで神の民の解放が近いことを語った預言であったのに対して、本日の朗読である49章からは、エルサレムに帰って来た神の民についての預言になっています。まず49章の1節と2節には、神がその僕の名を、まだ母の胎内にいた時から呼んで、矢筒の中に隠した鋭い矢のような使命をお与えになったことが「主の僕」の歌の冒頭を飾った後に、本日の第一朗読に続いていますが、この第一朗読に抜けている4節には、「私はいたずらに骨折り、空しく力を使い果たしたと思った」というような、神の僕の弱い人間としての嘆きの言葉も収録されています。しかし神は、その弱い私を見捨てることなく、私の苦悩や働きに報いて下さることが明言されて、第一朗読の5節に続き、最後に、神がその僕を国々の光とし、神の救いを地の果てまで齎す者とすることが謳歌されています。

② ここで神の僕キリストについて預言されていることは、洗礼の秘跡によってその主キリストの霊的命に参与し、キリストの霊的体の細胞のようにして戴いた私たち各人と私たちの内的使命についても、ある意味で預言されているのではないでしょうか。神は人間的弱さを抱えて嘆くことのある私たちをも、世の人々を照らす光となし、神の救いを人々の心に齎す者として下さるのではないでしょうか。本日の第二朗読であるコリント前書の冒頭に、使徒パウロはこの書簡の宛先人として、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」と書いています。「聖」という概念は、この世的清さを絶対的に超越しておられる神の聖さ、全てが神中心に秩序正しく存在し動いている来世的聖さを意味しています。従って、「聖なる人々」とは、その来世的聖さを身に宿して内的にも神に属する存在となっている人々という意味だと思います。使徒パウロの書簡に読まれるこのような表現を尊重しながら、初代教会は、何よりもまず信徒共同体や信徒各人の中で内在しておられる神の働きに心の眼を向けていましたが、私たちも同様に心がけ、私たち各人を内面から生かし、支え、導いて下さる神とのパーソナルな語らいにも心がけましょう。主キリストは、そのように心がけておられたのですから。

③ 本日の福音は、主キリストに洗礼を授けた洗礼者ヨハネの言葉ですが、31節までの前半部分でヨハネは、主が「世の罪を取り除く神の小羊」であることを証しし、同時に「来る」という動詞を二度も使いながら自分の使命について語っており、それに続く後半部分では「霊」という名詞を三度使って、主が「神の子」であることを証ししています。この前半と後半の両方にそれぞれ一回「私はこの方を知らなかった」とある言葉は、どういう意味でしょうか。この前の日曜日のマタイ福音に、主がヨハネの洗礼を受けようとしてその面前に現れた時、ヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と話していることを考え合わせますと、私は勝手ながら、母エリザベトの胎内にいた時から聖霊に満たされ、聖母の胎内におられる神の子の来訪を感知したヨハネは、子供の時から荒れ野のエッセネ派の所で育てられ成長してはいても、自分の親戚にあたる聖母マリアがナザレトにおり、そこに神の子イエズスも生活していることは知っており、そのイエズスのお顔も見知っていたのではないかと思います。としますと、「私はこの方を知らなかった」という前述の言葉は、この方が内に秘めておられる神秘の深さは、まだ解らずにいたと解釈した方がよいのではないでしょうか。

④ ヨハネは、主が内に秘めておられるその深い神秘が神の民イスラエルの社会に現れ出るよう、主に洗礼を授けたのであり、その時聖霊がその方の上に降って留まるのを見て、この方が聖霊によって洗礼を授ける人であることを、かねて神から与えられていた啓示によって確信したのではないでしょうか。私たちの身近にも、洗礼や聖体の秘跡によって神の御子を心に宿している人々がいますが、私たちも、またその人たち自身も、神の御子のその隠れている現存を、まだほとんど感知せず、解らずにいるのではないでしょうか。私たちが主キリストのその深く隠れた現存を信仰の心で発見し、洗礼者ヨハネのように、いつも主に信仰の眼を向けながら、主のお導きに従って生活することができるよう、恵みを願いつつ本日のミサを捧げたいと思います。

2008年1月13日日曜日

説教集A年: 2005年1月9日主の洗礼(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 42: 1~4, 6~7. Ⅱ. 使徒 10: 34~38. Ⅲ. マタイ福音 3: 13~17.

① 本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代に神の民イスラエルが過去に犯した罪の恐ろしさに目覚め、落胆しかけている民に、神による救いと解放を予告した第二イザヤという言われる預言書からの引用ですが、「第二イザヤ」と言われているイザヤ書の40~55章に、四つ読まれる「主の僕の歌」のうちの最初のものであります。神がここで「私の僕」と呼んでいる者が誰を指しているかについては、ユダヤ人ラビたちの間でも解釈が分かれていて、イザヤ預言者自身を指しているのではないかだの、いや神の民イスラエルを指しているのではないかなどと言われていたそうですが、キリスト教では伝統的に救い主メシアのこととしています。メシアは後述する天からの神の声の中でも、「私の愛する子、私の心に適う者」と呼ばれていますが、同時に、神が特別に選び支えておられる神の「僕」でもあると思います。使徒たちも主キリストを「神の僕」と考えていました。使徒言行録4章によると、神殿の祭司長たちに捕らえられていたペトロとヨハネが、釈放されて信徒団の所に戻って来た時、皆が心を一つにして神に捧げた祈りの中で、「あなたの聖なる僕イエズス」という言葉が二度も読まれますから。

② ところで、この第一朗読の中に3回も登場している「裁き」という言葉は、世の終わりの時のような、この世の悪を徹底的に断罪するという意味の裁きではなく、むしろこの世にはびこる悪の支配を抑圧し、弱い者、苦しむ者を救い出す、助け出すという意味の裁きだと思います。3節には「傷ついた葦を折ることなく、ほの暗い灯心を消すことなく」という言葉も読まれますが、これは、いくら説明しても物分りの悪い、頑迷な心の人や、どうにも仕様がないと思われる程意志力や意欲に欠けている人をも見捨てることなく、どこまでも変わらない誠実な心で事ある毎に呼びかけ、道を示して行くことを意味しているのではないでしょうか。

③ 1970年代の前半に、安保闘争に勝てなかった若者たちの間に「しらけムード」が広まった時、無気力・無関心など子供たちの心の「三無主義」が話題になったこともありましたが、幼い時から人工的な豊かさと便利さの中で、汗水流して働く体験なしに育った現代の日本人の中にも、新たに心の無気力や意欲喪失に悩む人たちが増えているのではないでしょうか。英語のNot in Education, Employment, or Training の頭文字NEET から名づけられた「ニート」と呼ばれる若者たち、すなわち学校にも行きたくない、仕事もしたくない、どんな訓練も受けたくないという若者たちが、今の日本には既に60万人もいると聞きますが、救い主はそのような心の病に苦しむ人々をも「自己責任だ」などという冷たい言葉で切り捨てることなく、その癒しと立ち直りのために特別に配慮しておられるのではないでしょうか。彼らは皆ある意味で、神忌避の現代社会や現代のゆがんだ教育の犠牲者なのですから。「宣教」だの「伝道」などの言葉は、単に道を求めて意欲的になっている人々に福音の真理を説くことだけを意味しているのではなく、そういう働く意欲さえ失っている心の病人たちにも大きく心を開いて、その癒しと立ち直りのため尽力することも意味していると思います。福音書を調べてみますと、主キリストの宣教のかなりの部分は、癒しによって神の国の到来を証することにあったと言うことができます。私たちも心の意欲喪失に悩む人たちを足手まといとして厭わずに、主の僕・婢として祈りつつ、主のそのような宣教活動の器・道具となるよう心がけましょう。心の病からの癒しのために捧げる祈りも、立派に一つの宣教活動なのですから。特に今年成人式を迎える若者たちの上に、神からの照らしと祝福の恵みが豊かにあるよう祈りましょう。

④ 本日の福音では、主が人類の罪を背負ってなされた行為なのでしょうか、群衆に紛れ、群衆の一人となってヨハネから悔い改めの洗礼を受けるためにヨハネの所に来られましたが、驚いたヨハネが「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と言って思い留まらせようとしますと、主は「今は、止めないで欲しい。義を全て行うのは、我々に相応しいことです」と答えておられます。ここで「我々」とあるのは、誰のことでしょうか。二つの可能性があると思います。一つは、「我々」を主とヨハネとに限定し、「義」という言葉をこの二人を通して働く神の義として理解することで、二人はやがて神のご計画に従って共に殺されて行きますが、ヨハネによる主の洗礼も、神による救いの道を世に示し証する一つの業としてなしてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。もう一つは、「我々」を主イエズスを含む民衆と理解し、「義」を人間が神に対して為すべきことと考える立場で、ヨハネの説く悔い改めの洗礼を受けて、今生きている心を、一旦創造の神との接点である「無」に立ち返らせ、我なしの素直に従う心で神よりのもの全てを受け入れる「義」を証するために、洗礼を授けてくれるよう頼むという意味で理解する可能性であります。

⑤ 察するに、ヨハネはこの二つの意味で主のお言葉を理解し、主に悔い改めの洗礼を授けたのではないでしょうか。その時、それまで雲で覆われていたようになっていた天が急に開け、洗礼を受けて水から上がられた主の上に、神の霊が鳩の形で降り、天から「これは、私の愛する子、私の心に適う者」という声が響き渡りました。一つは視覚的に、一つは聴覚的にイエズスが誰であるかを明らかにするものでしたが、それを見聞きした洗礼者ヨハネは、預言の時代・準備の時代の終わりと、神主導の新しい救いの時代の始まりとを、この時はっきりと自覚したと思います。主のヨルダン川での洗礼は、主のメシアとしての就任式であり、新しい時代の始まりであると思います。しかし、まだ神中心の福音的信仰生活を営んでいない人々のためには、人間側からの謙虚な準備の時代は続いていると考えてよいのではないでしょうか。ヨハネもヘロデ王に捉えられるまでは、この後もまだ悔い改めの洗礼を授けていたと思われます。

⑥ 従ってヨハネの洗礼は、神の子の命に参与して生かされるための準備の次元に属しており、まだそのような準備の次元に留まって、心に病菌を抱えている多くの現代人のため、また主の受洗を記念する私たち自身のためにも必要なものだと思います。ヨルダン川でヨハネの洗礼をお受けになった主と一致して、私たちも神の御前に己を全く無にして謙虚に生きる恵みの照らしと力を祈り求めつつ、本日のミサ聖祭をお捧げ致しましょう。

2008年1月6日日曜日

説教集A年: 2005年1月2日主の公現(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6. Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① 本日の福音に登場する星がどのような星であるかについて、私は1970年1月以来各地でなした講演や説教の中で、ウィーン天文学研究所長ドキエッポ教授の綿密な研究に基づいて説明しており、それは31年前に発行した拙著『一杯の水』の208頁から216頁の中でも「博士たちの星」と題して詳述して置きましたので、皆様も既に読んでおられると存じますが、わが国ではまだドキエッポ教授の新しい天文学的研究のことを知らずにいる人が多いようですので、久しぶりに本日の説教の中で、その主要点について簡単に紹介してみましょう。

② マタイ福音書第2章に述べられている「その星」が、彗星でも、老化した星の原子爆発によって一時的に明るく輝いて見える新星でもなく、木星と土星とが重なって大きく見える相合現象であろうということは、既にかなり以前の頃から有識者たちの間で言われていました。彗星は、キリスト時代の観測記録から拾うと、紀元前44年3月のユリウス・カエサル暗殺の日と、紀元前17年、ハーレー彗星が見えた紀元前12年と、紀元後66年のネロ皇帝によるキリスト者迫害の直前頃に見られただけで、一般に不吉な徴と考えられており、これを見て東方の博士たちが拝みに来たとは思われません。次にNovaといわれる新星(星の原子爆発)は、紀元前134年と紀元後173年に現れていますが、キリスト時代には観測されていません。それで、第三の木星と土星の相合現象がキリスト時代に観測されていたかの問題について、考察してみましょう。

③ この現象が805年毎に地球から観測されることを最初に突き止めたのは、ガリレオと同時代の天文学者ケプラーでした。彼はユダヤ教に、「木星と土星とが魚座の中で相会する時、メシアが現れるであろう」という、ラビ・アバルバネルの予言が言い伝えられていることを聞いて、木星と土星の軌道・周期を精密に計算し、彼が32歳の時、1603年12月18日の朝早くにプラハで、魚座を背景とするその相合現象を実際に観測し、時間を書き入れた観測記録を絵にして残しています。そして前人未到の天文学的計算をなした後、紀元前7年にも同様の現象が観測された筈だと書いています。

④ ドキエッポ教授によると、現存する四つのバビロニアの暦はいずれも断片的ですが、古代の占星術の概要を伝えており、それによると木星は最高神の星とされており、土星は幸福の王の星で、同時にパレスチナ人やイスラエル人の守護神とされているそうです。また各星座は、それぞれ地上の特定国のシンボルとされ、魚座はパレスチナまたはユダヤのシンボルと考えられていたそうです。邦訳のマタイ福音書に「博士たち」と訳されているマゴイは、太古は一部族の呼称でしたが、後にはバビロニアで星の観測などに従事している貴族的知識人たちの呼称となり、彼らは既に前9世紀頃から星の観測をしていたようです。前8世紀の中頃に活躍したアモス預言者は、バビロニア占星術の思想にかぶれて、土星を自分たちの神として拝むイスラエル人を、アモス書5:26の中で批判していますが、当時のマゴイは、今度木星と土星とが重なって昇る時、その背景となる星座の示している国に、偉大な王、世界の救い主が生まれると信じていたそうです。前述のラビ・アバルバネルの予言は、この思想に基づくものだと思われます。

⑤ 二つの星が紀元前7年のいつ重なって昇ったかについては、既に天文学者リープハルトが、それがこの年に3回あったことをその月日と共に1954年の神学雑誌に発表していますが、ドキエッポ教授の新たな一層緻密な研究はその研究を少し訂正して、前7年の3月15日、4月4日、9月15日の3回としており、いずれも早朝で魚座を背景にして昇っています。なお教授は、マタイのギリシャ語原文にen te anatole と単数で書いてあるのは「昇る時に」と訳すべき天文学上の専門用語で、en tais anatolais と複数で書いてある時の「東方で」というのとは、少し意味が違うと指摘しています。

⑥ 前7年に魚座を背景にして木星と土星とが重なって昇るのを観測したマゴイは、祖先代々の古い伝えに基づいて世界の救い主がユダヤに生まれたと考えたと思います。しかし、春に見られた二回の現象は二つの星の重なっていた時間が短くて、一緒に並んで昇ったという印象を与えたかも知れませんが、三回目の9月15日の早朝には、二つがしっかりと重なり、一つの大きな星のようになって見えた筈だとドキエッポ教授は考えています。としますと、博士たちは9月15日の観測後に救い主の誕生を確信し、旅支度を整えて拝みに来たのだと思われます。その六ヶ月前の3月15日には、洗礼者ヨハネが生まれたのかも知れません。博士たちのいたシッパルからエルサレムまでは、ゆっくりと旅して一ヶ月程の道程ですが、旅支度に手間取り、エルサレムに着いたのは11月上旬頃になったかも知れません。星が先立って道案内をし、博士たちはその後をつけて来たのだ、などという御伽噺的想像はしないで下さい。彼らは、ユダヤに行って星にメシア誕生の徴が現れたことを知らせるなら、同じく救い主の到来を待ちわびているユダヤ人たちに喜ばれるであろうし、また数多くの預言者を輩出させたことで有名なユダヤでは、彼らの齎す知らせの合鍵となる預言もあって、人類の救い主を見出すことができるであろうなどと希望しながら、やって来たのだと思われます。

⑦ ヘロデ王の宮殿で、預言によるとメシアがベトレヘムに生まれることになっているという返事を得た彼らは、エルサレムの南9キロ程のベトレヘムに向けて旅を続けましたが、それは午後になってからのことだったようです。ベトレヘムに近づくと、東方で見た星が今度は南の方に見え、幼子のいる家の上に止まったように書かれています。ドキエッポ教授の研究によると、前7年には一回だけ11月12日の夜に、木星と土星が一つに重なって南方に止まって見える、非常に珍しい現象が発生しています。止まって見えるというのは、コペルニクスによって明らかに説明された現象で、太陽から地球よりも遠い軌道をめぐっている火星・木星・土星は、観測者がいる地球の軌道がUターンすると、暫くの間地球からは逆行しているように見えますが、その逆行現象のちょうど変わり目の時に一時的に生ずる現象です。察するに、星の観測の専門家であった博士たちは11月12日の夜にベトレヘムを間近にした地点で、木星と土星が一つに重なってある家の上で止まって見えるという、神の特別の配慮によって生じたこの真に珍しい現象に遭遇し、大きな喜びに溢れたのだと思います。生まれて一ヶ月余の幼児を見出すのも、難しくなかったと思われます。

⑧ なお、メシアの誕生が、ローマの不敗太陽神の祝日に合わせて12月25日に祝われるようになったのは4世紀からで、12月にはベトレヘムの羊飼いたちも野宿していませんから、メシアが9月頃に生まれた考えるのは聖書の記事にも適合しています。また博士たちは、ルネサンス時代の絵に描かれているような家畜置き場でメシアを礼拝したのではなく、ヨゼフたちは遅くとも住民登録が終わるとすぐ、ヨゼフの本家の大きな家に住んでいたでしょうから、博士たちもそこでメシアを礼拝し、その家に一泊させていただいたのだと思います。本日の福音にも、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とあるのですから。異邦人のためにも、このようにしてメシアに会う機会を提供して下さった神の至れり尽くせりの不思議な御摂理に感嘆し感謝すると共に、神は現代の私たちのためにも、また無数の異教徒たちのためにも、同じ愛の御摂理で配慮して下さっていることを堅く信じ、感謝し、何よりも神のお導きに従うように努めましょう。神の愛の摂理は、素直に信じて従う人々の中で働いて下さるのですから。アーメン。

2008年1月1日火曜日

説教集A年: 2005年1月1日神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7. Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 年の始めの聖書朗読は、古くから神の民イスラエルに伝わっている祝福の言葉で始まります。それは神から命じられたもので、祭司が民を荘厳に祝福して唱える言葉であります。神は新しい神の民である私たちをも守り、私たちにも恵みと平安を与えて下さいます。もし私たちが神を自分の存在の本源、自分の人生の最終目標として崇め尊び、ひたすらその導きと助けに縋って生きようとしているならば。 新しい年の初めに当たり、神の民としてのこの心構えを新たにして、神からの祝福を豊かに戴くように致しましょう。

② 第二朗読の「時満ちて」という言葉を神学生時代に読んだ時から、私の心にはいつも一つの想像が去来するようになりました。それは、海岸の砂浜に造られたさまざまな砂の模様や家や城などが、潮が満ちて来ると一様に崩されてしまう情景であります。私は既に幾度も講演・講話・説教の中などで話して来ましたので、あるいは皆様にも話したことがあるかも知れませんが、数百年来の伝統的価値観や家族組織・社会組織などが次々と流動化して拘束力を失い、内面から崩壊しつつある現代の世相も、それに似た情景を露呈しているのではないでしょうか。2千年前のオリエント諸国の世相も、同様の情景を示していたと思われます。国際的なシルクロード貿易と商工業の急速な発展と、人口の流動化や生活の豊かさなどによって、人々の価値観が極度に多様化し、親子の間でも意思の疎通を欠くようになると、自分中心に考えたり行動したりする人間が増え、家庭での躾や心の教育も投げ遣りにされて、社会には詐欺や盗みや横領などが横行していたのではないでしょうか。どれ程多くの小さい者たち、弱い者たちがその犠牲となって嘆き悲しんでいたか知れません。

③ 外的には豊かになったオリエント社会が、このようにして内的に弱体化し、人の力ではもう施す手がない程に精神的に崩壊し始めていた時、その社会の最下層に救い主がお生まれになって、神中心に生きる新しい生き方を身をもって啓示し、そのように生きるための神の命もお与えになったのではないでしょうか。現代の人類社会も同様の様相を呈し始めていることから察すると、救い主がお示しになった神中心の新しい生き方の内に、このような満潮時代に生きる人々への神からの大きな祝福と私たちの本当の生き甲斐も隠されているのではないかと思われます。新しい年の始めに当たり、神の母聖マリアの執り成しを願いつつ、救い主がお示し下さった生き方を正しく深く洞察する照らしと恵みを祈り求めましょう。

④ 本日の福音は、クリスマスの夜半のミサに朗読された福音の続きで、羊飼いたちが天使から告げられた通りに乳飲み子の救い主を見出し、天使から告げられたことを人々にも知らせ、神を崇め賛美しながら帰って行った話ですが、ここに「人々に知らせた。聞いた者は皆、……不思議に思った」とある、この「人々」は誰を指しているのでしょうか。当然その乳飲み子と共にいた聖母マリアと聖ヨゼフを指してはいますが、このお二人だけでしょうか。としますと、「そこにいた二人は」でなく、「聞いた者は皆」という書き方は少し不自然に思われます。私は勝手ながら、クリスマスの説教にも申しましたように、救い主のお生まれになった家畜置き場が、真夜中の羊飼いたちの来訪によって少し騒がしくなったので、その上のカタリマで眠っていたダビデ家の一部の人たちが、階段を下りて様子を見に来たのではないかと想像しています。その人たちが、マリアの生んだ幼子が神の子だとその時すぐに信じたとは思いませんが、羊飼いたちの語った不思議な話から、この子が神から特別に眼をかけられている恵みの子なのだと考えたのではないでしょうか。ヨゼフが、住民登録のために一時的に本家の家に来泊した他の親戚たちと違って、その後もナザレに戻らずに、ベトレヘムで一月半も滞在し得たのは、本家の人たちの格別の厚意によるのではないか、と思われます。

⑤ 本日の福音でもう一つ注目したいのは、「マリアはこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らせていた」という言葉です。出来事と邦訳されているギリシャ語の原語は、「語る」を意味する動詞から派生したレーマという名詞ですが、レーマは第一に「語られた言葉」を意味しており、そこから転じて「出来事」をも意味するようになったと聞いています。私はこのことから、全能の神の語られる言葉には、単に何かの心情や意味を伝える手段でしかない私たち人間の言葉とは違って、この歴史的現実世界に実際に形をとって出現したり、歴史的現象に絶対的影響を与えて、その成り行きや運命を変えることもできる程の大きな生命力が込められているのではないかと想像しています。聖書に読まれる「み言葉は肉となられた」だの、「私があなた方に話した言葉は霊であり命である」などの言葉も、これと関連して理解してよいと思います。聖母は神からの言葉のこのような神秘な働きを、この後も全て心に納めて思い巡らせておられたのではないでしょうか。年の始めに神の母を記念する私たちも、神からの言葉に対する同様の信仰を新たにしながら、聖書の言葉を心に納めて日々思いめぐらせつつ、ますます深く洞察して行く恵みを祈り求めましょう。全ての人の運命を統括しておられる神は、そのように生活する人の人生を、実り豊かにして下さると信じます。