2008年12月7日日曜日

説教集B年: 2005年12月4日、年待降節第2主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 40: 1~5, 9~11.  Ⅱ. ペトロ後 3: 8~14.
 Ⅲ. マルコ福音 1: 1~8.

① 本日の第一朗読は第二イザヤ書 (イザヤ40~55章) の序曲とも言うべきもので、旧約聖書の中でも最も喜ばしい知らせを告げている箇所の一つであります。ミサ聖祭がラテン語で捧げられていた昔には、クリスマス前の九日間に毎晩 Consolamini, consolamini (慰めよ、慰めよ) という神よりの喜ばしい言葉が、美しいグレゴリアン聖歌のメロディーで歌われていましたが、その歌詞が本日の朗読箇所からのものです。聖歌隊の中でも最も声の良い一人が神に代って独唱するその懐かしい聖歌を聴くと、いよいよ降誕祭が始まる、という嬉しい雰囲気が聖堂内に溢れるのを覚えたものでしたが、今でもヨーロッパの古い修道院などでは、この聖歌が歌われていると思います。わが国の教会や修道院などで、グレゴリアン聖歌がほとんど歌われなくなっているのは、昔を知る者たちにとり残念でなりません。
② さて約半世紀のバビロン捕囚時代の終りごろ、神は預言者を介して言われた。「苦役の時は今や満ち、彼女 (神の民) の咎は償われた」「罪の全てに倍する報いを主の御手から受けた」と。そして「主のために荒れ野に道を備え、……険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。云々」と。神は更に、民にこの良い知らせを伝える者に次のように命じる。「声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に告げよ。見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。云々」と。これらの力強い言葉は、いずれも既に数十年間異国の地で苦しい捕囚生活をさせられている神の民に、神による解放と新たな自由独立への希望を告げていますが、ここで「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神」と、神に眼を向けさせようとする言葉に注目したいです。この世の現実だけに眼を向けていては、全てはまだ強大なバビロニア軍の支配下にあり、神の民の自由独立などという話は、現実離れの夢でしかないでしょうが、今主なる神にひたすらに信仰と信頼の眼を向けて揺るがないなら、その神の力が働いて下さるという意味なのではないでしょうか。信仰のある所に、神が来て下さるのですから。民が牧者のいない羊の群れのように、狼や猛獣に襲われ易い弱い集団であっても、本日の朗読の最後にあるように、神が羊飼いとなってその群れを養い、御腕をもって集め、小羊はふところに抱き、その母を導いて一緒に進んで行かれるのです。私たちも、今の世界が各種のテロ組織や巧みな詐欺・横領・窃盗などの横行でどれ程かく乱されようとも、目に見える現実だけに囚われずに、いつも神に心の眼を向けているなら、神の救う力が働いて下さるのを見るのではないでしょうか。
③ 第二朗読のペトロ後書については、ペトロ前書についてと同様、それが果たして使徒ペトロが書いた書簡なのか、またペトロの殉教後のおそらく1世紀末か2世紀初め頃に書かれたものではないのか、などという議論が聖書学者たちの間でなされていますが、ここではそういう問題に立ち入らずに、カトリック教会の古い伝統のまま一応使徒ペトロの書簡として、その記述内容から学ぶことに致しましょう。第二朗読は主の再臨の約束について述べていますが、それは、そのすぐ前の文脈を調べてみますと、「主の来臨の約束はどうなったのか。……全ては創造の初めからそのまま存続しているではないか」などと、主の再臨も世の終りも来ないのではないか、と言う人たちがいたからだと思います。
④ それでペトロはまず、「主の許では一日は千年のようで、千年は一日のようです」と、人間の一日と神の一日とは根本的に違っていることを説いた上で、神はなるべく皆が悔い改めるようにと、人間たちのために忍耐して、世の終りの到来を押し留めておられるのだと考えています。しかし、天が焼け崩れ、天体が火に包まれて溶け去る世の終りの来ることは決まっており、その日は盗人のようにして突然到来するので、その日にしみや傷のない者として、平和に過ごしているのを神に見出して戴けるよう励むことを勧めています。また私たちは神の約束に従って、今の世の全てのものが滅び去っても、義の宿る新しい天と新しい地に生きるようになることを待ち望んでいる、とも述べています。ということは、今の世の崩壊は神中心に生きようとしている人たちにとっては決して悲しむべきことではなくて、新しい遥かに素晴らしい世の始まりを意味しており、私たちはその日を待望しているのだ、ということだと思います。
⑤ 第二ヴァチカン公会議後の典礼改革により、待降節は12月16日までの期間と17日からクリスマスまでの期間との二つに区分され、前の期間には主の再臨を待望し、降誕祭直前の期間にはこの世への救い主の誕生を待望しつつ信仰に生きた昔の人々を記念し、その待望の熱心を祈りの内に追体験することになりました。主の再臨と聞くと、世の終りの恐ろしい大災害や最後の公審判のことだけ考えて、主の再臨を待望することにあまり意欲も喜びも感じないという人がいるようですが、主は世の終り前に激しくなる各種の社会的乱れや災害などに苦しみ悩む人々を救うために、救い主としてお出で下さるのです。主の再臨によって古い苦しみの世は消え失せ、遥かに美しい新しい世が始まるのです。待降節の前半は、その救い主の来臨を切に願い求め、待望する時だと思います。受精している鶏の卵は、3週間親鳥に温められると割れてひよこになりますが、新しい命は卵の中にいる間は将来のことは何一つ判らず、ただ信頼してひたすら成長するだけであると思われます。私たちも、今の世が将来どうなるかということは全く判らず、ある意味では卵の中のひよこのようですが、主のお言葉に信頼して大きな希望のうちに、救い主の再臨と新しい世界の始まりとを待っていましょう。この世のどんな混乱も災害も、この信頼と希望があれば耐え抜くことができます。
⑥ 本日の福音を記したマルコは、その福音書を預言書の引用から書き始めていますが、それは洗礼者ヨハネがその派遣が神から約束されていた神よりの人であることを示すためであると思います。ヨハネも、列王記下の1章に描かれているエリヤ預言者と同様に、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締めて、悔い改めの必要性を力説し、悔い改めの洗礼を授けていました。悔い改めは、ヘブライ語では神に顔を向けることを意味している言葉だそうで、その意味では単に何かの原則や法規に背いた言行を反省して、後悔したり改心したりすることではなく、何よりも神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする「回心」を意味しているようです。洗礼者ヨハネ自身、己を無となしてひたすら神よりの声に聞き従おうとしていたのではないでしょうか。自分よりも後に来られるメシアについて、「私はかがんでその方の履物の紐を解く値打ちもない」と語った言葉は、その心を示しています。ヨハネが水で授けた洗礼も、神の子の新しい命や力を与える洗礼ではなく、己を無にして神に心の眼を向け、神よりのものを受け入れ、それに従って生きようとする決心を固めさせる「回心」の洗礼であります。この洗礼は、神の子メシアがお授けになる洗礼、神の愛の火・聖霊を与える洗礼の恵みを効果的に受け、その恵みに生かされるための前提であり、既にメシアの洗礼を受けている私たちの内に聖霊の恵みが働くためにも必要なものだと思います。神の導きと働きに対する心のセンスを磨く絶えざる回心のため、決心を新たにして祈りましょう。