2008年12月25日木曜日

説教集B年: 2005年12月25日、年降誕祭日中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 52: 7~10.  Ⅱ. ヘブライ 1: 1~6.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 1~18.

① 本日の第二朗読は、「神はかつて預言者たちによって、多くのかたちでまた多くのしかたで先祖に語られたが、この終りの時代には、御子によって私たちに語られた」という言葉で始まっていますが、ここでは、2千年前の神の子メシアの来臨が、すでにこの世の終末時代の始まりであることが教えられていると思います。マタイ福音書3章やルカ福音書3章で悔い改めを説いた洗礼者ヨハネの厳しい説教も、終末時代の到来を示しています。しかし、聖書によると、終末は神による恐るべき審判の時であると同時に、神による被造物世界の徹底的浄化刷新の時、救いの時を意味しており、それは、人となられた神の御子とその御子の命に生かされて生きる無数の人間の働きによって、ゆっくりと実現するもの、長い準備期や成長期・変動期などを経てから実現するもののようです。ちょうど受難死と復活によって短時日のうちに完成したメシアによる救いの御業が、その前にメシアの誕生・成長・宣教活動という長い生命的準備期・成長期・活動期などを基盤としているように。
② 聖書が、神の子メシアのこの世への来臨によってすでに終末時代が始まったとしていることは、注目に値します。本日の朗読箇所にある「神は、この御子を万物の相続者と定め、」「御子は神の栄光の反映、神の本質の完全な現れであって、万物を御自分の力ある言葉によって支えておられますが、人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」などの言葉を読みますと、私たちの生活しているこの病的な世界は、メシアの受肉によって根底からしっかりと神の御手に握られており、すでにゆっくりと栄光の世へと持ち上げられつつあり、その過程で発生する無数の善悪闘争や悲劇は、根の深い病気が癒される過程で生ずる各種の症状や痛みのようなものと考えても良いのではないでしょうか。救い主の復活のすぐ前に恐ろしい受難死があったように、この終末時代の終りにも、神により最後の恐ろしい苦難と試練が予定されているかも知れません。神の力によってそれらの試練に耐え抜くことができるよう、今から覚悟を堅め、心を整えていましょう。
③ 本日の福音は、この世に来臨した神の子メシアの本質が何であるかを教えています。それによると、赤貧のうちに無力な幼子の姿でお生まれになったメシアは、実はこの世界が存在する前から永遠に存在しておられる神であり、万物を創造した全能の神の御言葉、すべての人を生かす神の御命、すべての人を照らす神の光なのです。私たち人間が互いに話し合っている言葉とは違って、父なる神の発する言葉には、私たちの想像を絶する巨大な力と光が込められているのだと思います。この神の御言葉は、三位一体の神の共同体的愛の交わり中では永遠に力強く燃え輝いている光ですが、その神に背を向け目をつむる暗闇の霊とその支配下にある人々には理解されず、その暗闇に覆い包まれ、その勢力下に置かれて罪の世に呻吟している人々を救うために、神の御言葉は己を無にして本来の力と光を隠し、か弱い幼子の姿でこの世にお生まれになったのです。私たちのこの日常的平凡さの中で、深く身を隠して臨在しておられるその神を、温かく迎え入れるか冷たく追い出すかの態度如何で、人間は自ら自分の終末的運命を決定するのではないでしょうか。私たちの恐るべき終末の審判は、目に見えないながらすでに始まっていると考えるべきだと思います。
④ 神を無視し、何よりも自分の自由、自分の考えや望み・計画などを中心にして生きている人は、温かい世話を必要としている小さなか弱い存在、貧しい者の来訪を喜ばず、足手まといとして嫌がることでしょう。しかし、小さな者のかげに隠れて伴っておられる神は、万物の創造主、絶対の所有者で、私たちに何事にも神のため、神中心に生きるよう求めておられること、ならびに「私はねたみの神である」「どんな偶像も造ってはならない。それらに仕えてはならない」と厳しくお命じになったことを忘れてはなりません。神が「偶像に仕えてはならない」という言葉で禁じておられるのは、未開民族の間に広まっていた木や石で造った神々の像を崇めることよりも、現代人にも多く見られる、自分の富・名誉・社会的地位等々、万物の創造神以外のものを神のように崇め尊ぶ生き方を指していると思います。私たちも、そのような偶像を崇めることのないよう心細かに気をつけましょう。そのため、何よりもまず神の隠れた臨在に心の眼を向け、小さいものを大切になさる神に仕えよう、神のお望みに従おうと心がけましょう。そうすれば、思わぬとき、思わぬ形での神の隠れた来訪にも適切に対応することができ、ますます豊かに神の恵みに養われ、栄光から栄光へと次第に高く導かれて行くのを体験することでしょう。
⑤ 日本語の「いのち」という言葉の「い」は語源的に息を、「ち」は力を指していると聞きます。太古の日本人は「いのち」を「息の力」と表現して、息のなくなることを死と考え、外的には真にはかなく見える息の中に、神秘な神の力を感じていたのではないでしょうか。黒潮のように巨大な現代の国際化・流動化の流れにより、世界中の諸国諸民族の伝統的道徳も価値観も社会組織も根底から突き崩され押し流されて、社会全体がますます暗い不安な霧の中に呑み込まれて行くように覚える終末期には、これまで生活の拠り所として来たものすべてが、真に頼りなく感じられるかも知れません。そのような世界的混沌時代には、社会や国家が形成され発展する以前の、神の護りと導きを願い求めつつ一日一日を生きていた原初の単純な人々の心に立ち帰り、隠れてこの世に現存しておられる神の息吹の力に生かされ、導かれようと心がけることが大切だと思います。
⑥ 「私は世の終りまであなた方とともにいる」とおっしゃった全能の神の御言葉、神の子の受肉は、霊的に今もなお続いている現実です。神の御言葉は、忽ち色あせて過ぎ去る木の葉のような人間の言葉とは違って永遠に残るものであり、私たちの生活に伴っていて、事ある毎に私たちの前に密かに現われてくる生きている神秘な存在だと思います。多くの人はそれを見ても、それと気づかずにいるのではないでしょうか。神の子の臨在を感知するには、花や鳥や四季の移り変わりなどに感動する詩人や画家たちのような、鋭敏な心のセンスが必要だと思います。神の働きの微妙な動きを感知し、心を開いてその恵みを受け止める信仰も、一種の芸術的センスだと思いますから。私たちがそのような「心の信仰」に生き、神の力と御保護とを豊かに受けることができるよう照らしと導きとを願いつつ、神の子の来臨に感謝する本日の「感謝の祭儀」を献げましょう。