2008年12月14日日曜日

説教集B年: 2005年12月11日、年待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 61: 1~2a, 10~11. Ⅱ. テサロニケ前 5: 16~24.
 Ⅲ. ヨハネ福音 1: 6~8, 19~28.
① 待降節の第三主日は、フィリピ書4章4~5節の引用であるラテン語の入祭唱が ”Laetare (喜べ)” という言葉で始まっていて、昔からよく「 Laetare (喜べ) の日曜日」と言われて来ました。すでに待降節の務めも半分が過ぎて、嬉しい降誕祭が間近になったからでもありました。本日の第一朗読にも、「私は主によって喜び楽しみ、私の魂は私の神にあって喜び躍る」という第三イザヤの言葉があり、第二朗読の始めにも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈り、どんなことにも感謝しなさい。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなた方に望んでおられることです。云々」という使徒パウロの強い勧めがあります。神の全能に対する私たちの信仰と信頼を、日々感謝のうちに喜んで祈り生活することにより、実践的に表明するよう努めましょう。このような信仰と信頼の喜びがある所に、神も生き生きと働いて下さいます。
② 使徒パウロが第二朗読で「いつも喜んでいなさい。云々」と書いたのは、そのテサロニケ前書5章の前半に、夜の盗人のようにして突然にやって来る主の再臨の日に備えて目覚めているようにと説いた後の言葉ですから、「喜んでいなさい」という勧めにも、主の再臨を待望しながら、という意味が込められていると思われます。それに続く「霊の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません」という勧めも大切だと思います。救い主再臨の日は、察するにノアの日のように、多くの人が日々溢れるほどの快楽や遊びに囚われて神を忘れ無視している時代に、しかも社会的には極度に多様化と多元化が進展して、もはや誰一人その道義の乱れを取り締まることができないほど、内的精神的には暗いお手上げの状態になっている時に、大災害が突然に襲うようにして来るのではないでしょうか。そういう内的暗闇の時代には、人間理性で事態を理知的に分析して問題解決策を模索するよりも、私たちの心の奥底に与えられている神の霊の火を何よりも大切にし、神の預言、すなわち神からの呼びかけの声に従おうとすることが、大事になると思います。
③ 私が神学生であった時に聞いた話によると、ある聖人は「世の終りは非常に温かくなった夜が、急に冷える時に来る」と予言したそうですが、近年の世界の経済的豊かさとその反面の道義的乱れの深刻さなどを考慮しますと、これがその聖人の言った「非常に温かい夜」の到来ではないか、などと思うことがあります。しかし、終末的状況はこれまでにも人類史上に幾度も発生していますから、現代の状況もその一つで、主の再臨はまだ遠い将来なのかも知れません。でも、主は「その日は罠のように地の表に住む全て人に臨むから、いつも目覚めていなさい」(ルカ 21: 35,36) と命じておられるのですから、待降節にあたり、主がいつ来臨なされてもよいよう心の準備を整えていましょう。
④ いずれにしろ、パウロは本日の朗読の中でそういう時代に生きる信徒たちのためにも、「平和の神ご自身が、あなた方を全く聖なる者として下さいますように」と祈った後に、「あなた方の霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、云々」と祈りを続けています。以前にも話したことですが、ここで「霊も魂も体も」と、パウロが神中心に生きる聖なる人間、完全な人間を、霊と魂と体という三つの要素から構成されているように述べていることも、大切だと思います。自分の死が近い時や主の再臨が近いと思われる時には、日ごろ心の奥底に隠れている霊に主導権を執って戴き、霊の導きに従おうと努めるのが、弱い私たちに各種の困難に耐える力を与える賢明な生き方なのではないでしょうか。使徒パウロによると、私たち各人は皆「聖霊の神殿」なのですから。
⑤ 本日の福音には「彼は証しをするために来た」という言葉が読まれますが、ヨハネ福音書に描かれている洗礼者ヨハネは、神の子メシアを世の人々に証しするという自分の受けた使命のために、自分の人生の全てを捧げ尽くしていると思います。私たちも、自分の受けた修道者としての使命のために、これほど徹底的に自分を無にし、神の子メシアに捧げ尽くすことができたらよいと、うらやましく思うほどです。本日の福音に登場するエルサレムからの二つの使節団のうち、最初のものは祭司やレビ人たちから派遣された人たち、第二のものは、その人たちとは思想的に対立することの多かったファリサイ派に属する人たちです。これら二つの使節団がほとんど同時に荒れ野の洗礼者ヨハネの所に派遣されて来たことから察しますと、春の祝祭などでエルサレムに来る巡礼者たちの中に、ヨルダン川でヨハネから受洗した人たちが多く、エリヤ預言者のようにラクダの毛衣をまとい、腰に皮の帯を締めているヨハネを、民衆は神から派遣が約束されている預言者ではないかと考え始め、それが大きな話題になっていたのだと思われます。
⑥ 最初の使節団は、洗礼者ヨハネに対して三つの質問をします。「あなたはどなたですか」「エリヤですか」「預言者ですか」と。最初の質問に「私はメシアではない」と答えたヨハネは、その後の質問に対しても、ただ「ノー」と答えるだけで、自分がどういう人間であるかを明示しようとはしません。察するに、人間を社会的業績や権威者から受けた任命書や推薦状などにより、自分たちの味方か敵かと考えたり、受け入れるか否かを決めたり勝ちであった当時のユダヤ教指導者たちに、そんなこの世の判断基準から抜け出て、何よりも神秘な神からの直接的呼びかけに各人の心を目覚めさせるため、ヨハネはこのような答え方をしたのではないでしょうか。
⑦ 私たちも、この世の人たちの考え方や価値観に宗教を迎合させ過ぎないよう心がけましょう。神からの啓示を理知的な現代人に受け入れさせようとして、あまりにも平易に解り易く説明しよう、あるいはこの世の文化に適合させて説明しようとすると、その啓示の中核をなす理解し難い神秘や、人間に従順を迫る威厳に満ちた神の権威などが皆抜け落ち、魅力のない形骸や誤解され易い教えになってしまう虞があります。自分中心の考え方から脱皮できずにいる人たちには、むしろ「ノー」の返答を繰り返して撥ね付ける方が、却って相手のうちに理知的考えから抜け出て求める心を目覚めさせ、真の悟りへと導くのではないでしょうか。10年ほど前のことだったでしょうか、知人の大江真道牧師がこんな話を書いているのを読んだことがあります。教会堂の上に掲げてある十字架を指して「あれは何の印」と尋ねた現代の若者に、「ノーという印だよ」と答えたら、その関心を引いたそうです。誰にも解るように十字架の印の意味を説明するよりも、世俗の生き方を拒む「ノーの印」と答える方が、その人に理知的生き方の限界を自覚させ、神を信じ神に徹底的に従おうとする生き方の魅力を、感じさせるのではないでしょうか。
⑧ 最初の使節団が、「私たちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と言って尋ねると、ヨハネは漸くイザヤ預言者の言葉を引用し、「私は『主の道をまっすぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ者の声である」と、神の深い神秘を感じさせるような返答を与えています。しかし、これは同時に己を無にして神の働きに徹底的に従順であろうと努めていた、洗礼者ヨハネの実践的自己認識だったのではないでしょうか。リジューの聖女テレジアはその自叙伝に、「私は幼きイエスの手まりです」と書いたことがありますが、私たちの心も神の御前で、何かこのような謙虚な実践的自己認識を持った方がよいのではないでしょうか。
⑨ ヨハネが第一の使節団に与えた答えをその場で聞いていた、ファリサイ派に属する第二の使節団は、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ洗礼を授けるのですか」と尋ねました。ヨハネはそれに対しても、頭で解るような理知的理由を挙げて説明しようとはせず、むしろ既に来て人々の間に隠れておられる神よりの人メシアに、また各人の身近での神の働きに、人々の心の眼を向けさせようとします。そして自分は「その方 (すなわちメシア) の履物の紐を解く資格もない」、その方に奴隷として奉仕する資格もない人間であると、再び一層深い神秘を感じさせる返事をしています。日ごろとかく目に見える法規や理知的利害に心を向けて生活し勝ちな私たちですが、待降節は、身近な小さな事・弱い人・苦しむ人などの中に隠れて、今も私たちの間に現存しておられる神の子、主キリストに対する心の眼を磨くべき時なのではないでしょうか。主に対する心の眼を磨く恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げたいと思います。