2008年12月24日水曜日

説教集B年: 2005年12月24日、年降誕祭夜中のミサ (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ.イザヤ 9: 1~3, 5~6.  Ⅱ. テトス後 2: 11~14.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の後半に恐ろしいアッシリアの支配下に置かれ、絶望的な闇の状態に置かれているガリラヤの民が、大きな希望の光を見るに至ることを預言しています。紀元8世紀に破竹の勢いでオリエント諸国を征服し、サマリアをも征服して、エルサレムを襲撃する気配を示していた凶暴なアッシリア帝国の大軍を、神の救う力に頼っている預言者イザヤは少しも恐れずに、神がその支配を粉砕してくださることを予見し、ただ今朗読された神の言葉を書きました。「闇の中を歩む民」「死の陰の地に住む者たち」とあるのは、そのすぐ前に「異邦人のガリラヤは、栄光を受ける」とありますから、アッシリアの支配下に呻吟しているガリラヤの人々を指していると思います。神は「彼らの負うくびき、肩を打つ杖、虐げる者の鞭を」すべて折ってくださるのです。かつて士師ギデオンが、侵攻して来たミディアン人たちを打ち破った時のように。
② ここで預言者イザヤの予見は、間もなくアッシリアの支配から解放されたガリラヤの民衆から離れて、悪魔の支配下にあって、罪と死の内的暗闇の中で呻吟している無数の人々、全人類にまで思いを馳せ、その人々のために神から派遣された一人の男の子が生まれることを預言します。神の権威がその肩にあって、その子はやがて「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と崇められ、その王座と王国、また平和は永遠に続くこと、万軍の主であられる神がこれを成し遂げられるのであることも、預言します。ガリラヤの民をアッシリアの支配から解放して下さった神は、この男の子によって全人類を悪魔の支配、罪と死の闇から解放して下さることを預言しているのだと思います。イザヤが預言したこの男の子が、2千年余り前にベトレヘムで誕生なされた救い主イエスであります。
③ 今宵のミサで、私たちはその男の子の誕生を祝いますが、それは2千年前の出来事の単なる記念ではありません。この世の万物を時間空間の枠組みの中に創造なされた全能の神は、被造物であるその枠組みの外で全存在の中に現存し、それらの存在を支えておられる方であります。その神が、この世の時間空間を超越しているその世界から神のロゴス、神の御独り子を人間となして派遣なされた受肉の神秘は、特定の歴史的時間空間の中に生じたという意味では歴史的事実ですが、歴史的要素と永遠的要素とを含んでいて、単なる歴史的出来事ではありません。19世紀の著名なデンマーク人のプロテスタント神学者キェルケゴールは、こういう出来事を「絶対的事実」と呼んで、歴史的探究からはイエスが神であるという結論は導き出せないとしても、神からの啓示を素直に受け止める各人の心の信仰、心の意志によって、その歴史的不確実性は乗り越えることができるので、神の啓示を信ずる人には、その出来事は「今ここに」確実に現存する事実となるのである、と説いています。
④ カトリック教会もこの教説を受容しています。第二ヴァチカン公会議後に導入された第四奉献文には、聖変化の直後に「聖なる父よ、私たちは今ここに贖いの記念をともに行って、云々」という祈りがあります。ここで「今ここに」の言葉を入れたのは、時間空間の制約を超えて実際に現存する神の絶対的事実を想起させるためであると思います。本日私たちも、信仰によって幼子イエスが霊的に私たちの心の内にお生まれになり、現存してくださることを堅く信じましょう。12月16日までの待降節はメシアの再臨を待望しつつ救いを願う典礼になっています、と申しましたが、待降節最後の一週間は、同じ救い主の私たちの心の中での霊的誕生のために、心を準備し整えるための典礼と申してもよいと思います。今宵の聖体拝領のとき、聖母マリア、聖ヨゼフと共に神の御子を感謝の心で迎え入れ、慎んで深く礼拝し致しましょう。粗末な私たち各人の心は、いわばその幼子を迎え入れるまぐさ桶のようなものかもしれませんが、救い主はどんな所をも厭わずにお出でくださるのですから。
⑤ 本日の第二朗読では、「すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れ出ました」という言葉に続いて、その恵みが私たちにどうするようにと希望し教えているかが、述べられています。そして最後に、「キリストが私たちのために御自身を捧げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです」とありますが、主が私たちの中にお生まれ下さったその目的について、少し考えてみましょう。「贖い出す」という言葉は日本人にはなじみ薄い言葉ですが、それは奴隷状態から解放することを意味しています。罪と死の闇の中に生まれ育った私たちは、不安と苦しみの絶えないこの不条理の世にあって嘆くことはあっても、自分が奴隷状態に置かれていることを自覚していません。しかし、神からの啓示によると、これが神が初めに意図された私たちの本来あるべき姿、あるべき状態ではないのです。小さな儚い存在である朝露でも、朝日に照らされるとダイヤモンドのように美しく輝くように、私たち人間の眼も顔も、神の愛を反映して喜びと感謝に美しく輝いているはずなのに、現実がそうでないのは、心の奥底がまだ神に背を向けていて神中心に生きようとしておらず、そこに自我中心主義が居座り続けているからではないでしょうか。
⑥ 神の子は私たちの心を、罪に穢れたその自我への奴隷状態から解放するために、か弱い幼子の姿で私たち各人の心の中に生まれて下さるのだと思います。私たち自身も、救い主の力によって自分の中の古い自我に死に、幼子のように素直な心で神中心に生きる決意を堅めながら、主の御聖体を拝領し、主の御降誕に感謝致しましょう。私たちは今の世の奴隷状態から完全に救い出されてみて初めて、救いとは何か、神が初めに意図された人間とはどういう存在であるのかを、はっきりと知るに至るのです。それまでは幾度神の恵みに浴しても信仰の闇は続くでしょうが、しかし、神の御子はすでにこの闇の世にお出でくださっているのですから、その現存を信じつつ、希望のうちに日々その神の御子と共に生きるよう努めましょう。
⑦ 今宵のミサの福音に登場するベトレヘムの羊飼いたちは、天使から救い主誕生の知らせを受けると、すぐに話し合ってから、急いでお生まれになった神の子を拝みに行きましたが、彼らのその対応について少し考えてみましょう。遊牧民の生活の現場で神の声を聞き、神に希望をかけながら信仰と愛と感謝に生きていた太祖アブラハムたちの時代と違って、社会形態も宗教形態も大きく発展し、人々が皆子供の時から神殿の境内や会堂でファリサイ派の教師たちから律法順守の教育を受け、神殿礼拝や会堂礼拝に参加しながら安息日を厳守しているような時代には、昔ながらのアブラハム的生活を続けていた羊飼いたちは、社会の人々から見下げられ、まだ誰の私有地にもされていない、町や村から離れた草地を経巡りながら羊の群れを世話するという、非常に苦しい生活を営んでいたと思われます。羊の群れは絶えず保護し世話しなければならない生きている財産・生きている生活の糧ですから、その生活の場から遠く離れて会堂礼拝などに参加することはできません。羊を襲う狼や盗人たちも出没していた時ですから、親が干草を集めたり羊毛を売ったりする仕事に忙しい時には、子供も羊の群れを監視してくれる大事な働き手です。羊が一頭迷い出ても病気になっても、貧しい一家にとっては困るのです。子供に宗教教育を受けさせることはできません。あるラビは、「羊飼いほど罪に沈んでいる職業はない。彼らが貧しいのは、律法を守らないからだ」と言ったそうですが、当時の社会形態・宗教形態の下では、律法を守りたくても守れず、ひたすら忍従しながら生きるのが、羊飼いたちの生活実態であったと思われます。
⑧ それだけに、彼らは互いに助け合い励まし合って、日々の生活の場で一心に神による保護と救いを祈り、羊の群れと家族と隣人に対する愛一筋に生きることで、あらゆる苦しみに耐えていたのではないでしょうか。当時の社会の最下層にあって、最も熱心に神による救いを祈り求めていたその羊飼いたちに、神の天使は真っ先に救い主誕生の知らせを告げたのでした。おそらく真夜中ごろの出来事でしょうから、彼らは交互に睡眠をとりながら、共同で羊の群れを守っていたのだと思います。天使と天の大軍による壮大な讃美を目撃した後、彼らは相談し合って、寝ている羊の群れをそのまま交互に監視しながら、交代で生まれたばかりの救い主を拝みに行ったのではないでしょうか。天使から彼らに与えられた「乳飲み子」という印は、同時に神ご自身、救い主ご自身でもありました。彼らは、聖母と聖ヨゼフに次いで、最初にその救い主を、人となられた神をじかに眺めて拝む栄誉に浴した人々であります。彼らは同時に、天の大軍による壮大なクリスマス讃美についての福音を、聖母と聖ヨゼフをはじめ、その後も出会う人々に語り伝えた最初の福音伝道者でもあったと思います。しかし、彼らはその後も会堂礼拝などには参加せず、自分たちの生活の場で一層大きな希望と感謝のうちに神を讃え、神信仰に生き続けていたと思います。これが、神から喜ばれる新約時代の生き方なのではないでしょうか。
⑨ すでに諸外国で問題になっているように、ミサを捧げる司祭数の激減のため、これまでの伝統的教会形態は、将来大きな改変を余儀なくされるかも知れません。しかし、日曜・大祝日などにミサに出席しないからと、その信徒の信仰を疑ったり見下げたりするようなことは固く慎みましょう。何よりも太祖アブラハムのように、自分の生活の場で神の働き、神の導きに心を向け、神と人への奉仕の愛に生きるよう努めましょう。神はベトレヘムの羊飼いたちを介して、私たちにもその生き方を求めておられると思います。