2008年12月28日日曜日

説教集B年: 2005年12月28日、年聖家族の祝日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヘブライ 11: 8, 11~12, 17~19.
 Ⅱ. ルカ福音 2: 22~40.

① 神の御子イエスを中心とする聖家族を特別に崇敬することによって自分たちの家族精神を浄化しよう、その精神の上に神の恵みを祈り求めようとする信心は、一部の地方ですでに17世紀に始まり、人間中心の合理主義的啓蒙主義が18世紀にヨーロッパ各地で盛んになり、それまでの家族の温かい結束が乱され始めると次第に広まったようですが、教皇レオ13世は1893年に任意の祝日として定め、推奨しています。その後第一次世界大戦によってヨーロッパ社会の伝統が崩壊し、民衆の力で新しい社会を築こうとする機運が高まり、共産主義やその他の思想が広まり始めると、教皇ベネディクト15世は1921年にローマ教会の典礼に導入し、それ以来全世界のカトリック教会で祝われるようになりました。その時は1月6日の主の公現祭後の最初の日曜日に祝われていましたが、1969年の典礼暦改定後は主の降誕祭後の主日に祝われることになりました。ただし、今年の場合のように降誕祭が日曜日と重なり、年末までに日曜日がないときは、12月30日に祝われることになっています。その場合には主日ではないので、朗読聖書は二つだけとなります。
② 本日の第一朗読は、典礼の上では創世記15章から選ぶことも、ヘブライ書11章から選ぶこともできますが、このミサではヘブライ書から朗読してもらうことにしました。ヘブライ書11章は、「信仰とは、希望していることの保証、見えないものの確信です」「信仰によって私たちは、この世界が言葉によって創造されたこと、したがって、見えるものは現われ出ているものから生じたのではないことを知っています」という言葉で始まって、アベル以来の旧約時代の信仰の模範を列挙しています。本日の朗読箇所は、そのうちのアブラハム関係の所からの引用です。神の声を聞いたアブラハムは、その声が自分を実際に幸せに導くものであるかを確かめようとして従ったのではなく、自分に語りかけてくださった神の愛に信頼し、これからの旅の行き先も知らず、自分の将来に何があるのかも知らずに出発したのでした。神の招きの声に従って人生の旅を続けているうちに、神はアブラハムのその信仰実践に応えて、次々と遠い将来に、自分の子孫だけではなく全人類に与えられる大きな祝福を約束してくださいました。しかし、それがいつどのようにして実現するのかは、人間の側からは全く知る由もありませんでした。人間理性にとってはすべてが深い闇に包まれていて、限りなく不安な人生であったかも知れません。
③ でも、こうして神からの約束、神から与えられる夢のような祝福をひたすら信じ希望して、日々の労苦を神に捧げつつ生活しているうちに、アブラハムの心は次第に、自分が目に見えない神から特別に愛され、いつも神に見守られ伴われていることを、数多くの体験から確信するに至ったのではないでしょうか。神に信頼し切って生きているアブラハムのこの骨太信仰に感化されて、妻サラも甥のロトも神の御旨中心主義の生き方を次第に体得するに到り、一族はどんな試練に出遭っても堅く団結し、その試練を乗り越えることができたのではないでしょうか。カトリック教会が聖家族の祝日の聖書朗読にヘブライ書のこの箇所を選んだのは、家族の成員の団結も一致も本当の幸せも、各人が神の愛に信頼し、神の導きに従うことを万事に優先させることから生まれることを教えていると思います。聖母マリアも聖ヨゼフも、そして成長して自主的判断ができるようになった主イエスも、いずれも父なる神の人類救済の御旨に従うことを万事に優先し、そのためその日その時の神の導きに従うことに努めていたと思われます。私たちの修道家族の団結と一致と幸せも、各人がこの一事に励むか否かにかかっていると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の福音は、生後40日目の幼子イエスの神殿奉献の話ですが、律法に従って男子の初子を神に献げるため、聖母マリアと聖ヨゼフがエルサレム神殿に連れて来たら、エルサレムに住んでいた信仰の厚いシメオンという老預言者が、聖霊に導かれてちょうどその時神殿の境内に入って来て、その幼子がメシアであることを悟り、両腕に抱かせてもらって神を讃えたこと、神殿で夜も昼も神に仕えていた84歳の女預言者アンナも、その子がメシアであることを看破して神を讃え、救い主を待ち望んでいた人たちにこの幼子について話したことに、注目したいと思います。ここで聖書に「初子」とあるのを取り上げて、「初子」と言うからには、マリアはその後も子供を産んだのではないか、などと主張した人がいたそうですが、ユダヤ社会ではそんな意見は通用しません。一人っ子であっても「初子」と言いますから。日本でも「初孫が生まれた」といってお祝いしても、その後にも孫が生まれたとは限らないのと同様です。ついでながら、「イエスの兄弟」という言葉もユダヤ社会では広い意味で使われており、ヨゼフの兄弟姉妹の子供たち、すなわちイエスの従兄弟姉妹をも指しています。
⑤ さて、死を間近にした高齢のため、日々メシアを待望しながら祈りと断食に専念していたと思われる預言者シメオンとアンナは、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などからは離れて、精神的には神の民全体を自分の家族として愛し、生活するようになっていたのではないでしょうか。そして神から預言者たちを通してその神の民に約束されていたメシア到来の時は近づいていたので、死ぬ前にできればひと目神から派遣されたメシアに会いたいと願いつつ、祈りに励んでいたのではないでしょうか。エルサレムに住む二人の預言者は、当時の世俗化しているユダヤ教指導者たちが預言者的精神に欠けていること、しかし年毎にエルサレム神殿に来る巡礼団の中に、神の霊に生かされていない無力なユダヤ教の実態に満足できず、ひたすら神による救いを待ち望む願いが高まっていることを、鋭く感知していたと推察されます。シメオンが幼子イエスを胸に抱きながら神に申し上げた祈りと母のマリアに語った言葉とは、日ごろ預言者の心に去来していたそのような願いや心配などを反映していると思います。しかし、預言者たちは問題の多いその神の民を自分の家族として愛し、神が万民のために備えてくださったメシアがこの神の民の中に生まれ出ることで、この家族の中から異邦人を照らす啓示の光が輝き、それが神の民イスラエルの誉れになることも予見していたと思われます。
⑥ この推測が正鵠を得ているとしますと、二人の預言者に神の民全体との家族的連帯感を与え、祈りのうちに日々その連帯感や結束を強めていたものは、太祖アブラハムの場合と同様、神の啓示や働きに対する信頼、従順と愛と言ってよいでしょう。私たち修道者も、こうして歳が進んでみますと、もう自分の個人的血縁家族に対する配慮などは超越して、一緒に生活している修道家族に対する愛着が深まっていることでしょうが、しかしその段階に留まってしまわずに、主キリストと一致してもっと大きく神の民全体、人類全体のための家族的連帯精神にも成長すべきなのではないでしょうか。すべての家族的精神、家族的愛の源は神にあると思います。日々その神に祈っている私たちは、救い主の全人類的家族愛にも成長するよう心がけましょう。子供の心が悩み苦しめば苦しむほど、その子を愛する親や教師たちは一層愛に燃えると言います。現代の教会、また現代の人類が数々の問題を抱えて悩み苦しめば苦しむほど、私たちも主キリストと一致して、まずは祈りによる献身的愛の奉仕に努めましょう。その恵みを願いつつ、聖家族を崇め記念する本日のミサ聖祭を献げましょう。