2009年1月1日木曜日

説教集B年: 2006年1月1日、神の母聖マリアの祭日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7.
 Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 皆様、新年おめでとうございます。元日に清さを尊ぶのはわが国の尊い慣習ですが、しかし、神が何よりも望んでおられるのは、私たちの内的聖(きよ)さだと思います。この世の真・善・美という価値観とは違って、それは神の愛に美しく輝いているあの世的聖さを指していると思います。ミサの中で「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を讃えるとき、私たちは神の愛のその美しい輝きと聖さを讃美し、崇め尊ぶのではないでしょうか。私たちの人生も神の恵みによってそのような内的聖さに輝くものとなるよう願いつつ、神に対する希望と信頼のうちに、本日のミサをお捧げ致しましょう。
② 聖母マリアを「神の母」として崇め、その取次ぎや御保護を願って神に祈ることは、古代ローマ帝国によるキリスト者迫害が激しくなった3世紀の末か、遅くとも4世紀初頭のディオクレチアヌス帝による迫害の頃から広まっており、キリスト者たちがその時ギリシャ語やラテン語で唱えていた短い祈りは、その後の教会にも受け継がれていて、カトリック中央協議会編集の『公教会祈祷文』にも入っています。近年はあまり唱えられなくなっているようですが、私が学生であったときにはよく唱えていましたので、皆様もご存じだと思います。文語体の終業の祈です。「天主の聖母の御保護によりすがり奉る。いと尊く祝せられ給う童貞、必要なる時に呼ばわるを軽んじ給わず、かえってすべての危うきより、常にわれらを救い給え。アーメン」と邦訳されています。
③ どれ程多くの人が、この祈りを唱えることによって神による助けを体験したか分かりません。その感謝のためなのか、ローマ中心部のフォーロ・ロマーノの一角に迫害後に建てられた小聖堂の跡地には、昔この祈りが刻まれた石壁も残っていました。しかし、キリスト教迫害が終わって信仰の教理を人間理性で合理的に解説しようとしたアリウス派の人たちが、「マリアは人間イエスの母ではあるが、神の母ではない。神の母と呼んではならない」などと言い出したら、多くの信徒が強く反対し、431年にエフェソの聖母聖堂で開催されたエフェソ公会議により、聖母を「神の母」と宣言する教義が確立されました。マリアは神を産んだのではありませんが、イエスは人間であると同時に神であり、母子関係はパーソン同志の関係なので、「神の母」として崇めることもできるからです。本日の第二朗読で使徒パウロは、神がその御子を女から生まれた者としてお遣わしになったのは、「私たちを神の子となさるためでした。あなた方が (神の) 子であることは、神がアッバ、父よと叫ぶ御子の霊を、私たちの心に送ってくださった事実から分かります」と述べていますが、天の御父が、マリアからお生まれになった神人キリストの霊的いのちに私たちが参与して、神を「父よ」と呼ぶ神の子になることをお望みなのなら、同じ主キリストとの生命的一致のうちに、マリアを私たちの母として崇め尊ぶこともお望みなのではないでしょうか。
④ 事実、そのように受け止めて聖母崇敬に努めてみますと、不思議に神の御保護や助けと思われることを数多く体験するようになります。これは単に今の時代に始まったことではなく、4世紀以来それを証ししている例が歴史上に数多く残っており、聖母に対する感謝の心で建立された聖堂や巡礼所、ならびに聖母の祝日も、古代・中世を通じて現代に至るまで数多く残っています。それで、プロテスタントにも賛同し易いようにと、最初の草案を大きく書き改めた第二ヴァチカン公会議の教会憲章第8章にも、二度も「カトリック」という言葉を「カトリックの諸学派」、「カトリックの教理」という形で使いながら、「真の信仰は神の母の卓越性を認めるように我々を導き、我らの母を子どもとして愛し、母の徳を模倣するように我々を励ますのである」などと、伝統的聖母崇敬が細かく擁護されています。
⑤ 本日の福音は羊飼いたちの幼子イエス礼拝の話ですが、これについては昨年も、また一週間前にも皆様と一緒に黙想しましたので、本日は、第二ヴァチカン公会議後の1968年の新年に教皇パウロ6世が全世界で平和のために祈ることを呼びかけた時以来、カトリック教会で元日が「世界平和の日」とされていることに思いを馳せ、現代世界の平和を脅かしている諸原因のうち、一番深く隠れている基本的精神態度について、ご一緒に考えてみたいと思います。ご存じかも知れませんが、現教皇は昨年の4月に教皇に選出される直前の、まだ枢機卿であられた4月1日にスビアコの聖スコラスティカ修道院で、現代の西洋文化の根底を厳しく批判し、それが危機的状況にあることを指摘した講話をなさいました。一部のイスラム過激派のテロ活動が、その西洋文化の世界的広まりに対する反発である側面も否定できませんし、その文化が今後も世界各地に平和を抑圧する個人主義的、あるいはわが党主義的精神態度を広め、定着させる虞が大きいと思いますので、現代世界は正に危機的状況に揺らいでいると思います。
⑥ その時のラッツィンゲル枢機卿の豊富な話を短く要約するよりも、その一端を世界平和と関連させながら、私の言葉でごく簡単にまた自由に紹介してみましょう。ヨーロッパで始まったものでないキリスト教は、本来「ロゴス」の宗教で、神に向かって開かれている人間の信仰と知性を啓発する特性を豊かに保持するためか、ヨーロッパでは知的文化の発展に大きく貢献し、特別な意味でヨーロッパと一体化しましたが、ルネサンス時代以来、ヨーロッパはそこから科学的合理主義を発達させて、大陸と大陸、文化と文化との出会いをもたらし、やがてその技術文化を全世界に深く浸透させつつ、ある意味で世界を均一化させるようになりました。しかし、こうして世界的に広まった合理主義的西洋文化は、伝統の異なる諸宗教・諸文化をすべて同列に扱って同一の原則で統合し、各々を自由に平和共存させるために、人間の理性と経験を最高基準とする新しい啓蒙主義を普及させ、理性では立証できない神の存在や神信仰を、各人の主観的選択の領域に追いやって、神を信ずる人も信じない人も平等に自由に生活できるよう、実証主義によって合理的に発達させて来た現実の啓蒙主義的法制国家や政治の統制下に置くようになってしまいました。
⑦ 旧来の多種多様の思想・文化・宗教などを皆、一つの新しい共通理念の下に平等に統合し管理しようとすると、当然その啓蒙主義的理念以外の絶対主義は排除され、すべては相対的な価値しか持たなくなります。何ものもそれ自体では善でも悪でもなく、すべては個々の行為から生み出される、あるいは予測される結果によって実証的に善悪評価されるのです。ちょうど薬の善悪を判断するときのように。欧州連合(EU)の欧州憲法の中では、キリスト教会の権利は保証され保護されていますが、キリスト教の信仰や信仰生活は、もはやヨーロッパ人の精神基盤の領域では居場所がなくなっており、神を信じたい人は自由に信じてよいが、その神を信じていない人も一緒にいる学校や社会の場では、他の人たちの自由を妨げないよう言行を慎んで、皆と同様に行動してもらいたいと求められるようになってしまいます。イスラム教徒たちは、自らの絶対主義的神信仰とその信仰実践を冷笑的に扱うこの世俗的啓蒙主義文化が今や欧米人の共通理念となって、すべての人の自由と平等を「人間の権利」として表明しつつ、世界的に普及しつつあることに大きな危機感を抱いていると思います。そのような精神基盤が支配的になっているEUにトルコが加盟した場合、経済的には豊かに発展し始めるでしょうが、精神的にはEU諸国の社会に複雑な対立をかもし出すか、あるいはトルコが一つの世俗国家になって行くことでしょう。
⑧ 正に同じ理由で西洋のキリスト教も、現代技術文化の豊かさの中で、次第に枯れ死んだ根っこのようになって行く虞があります。理知的思考の啓蒙主義哲学は意識的に自らの歴史的宗教的な根源を捨て去り、その根元から湧き出る再生の力に心を閉ざすのですし、神は公的生活や国家の精神基盤から完全に排除されつつあるのですから。しかし、すべての人間を神の愛する被造物、神の似姿と考え、神への畏敬と神と人への奉仕を説く宗教から心の糧を受けなくなるなら、教育は技術的理解や能力の伝授だけと化して、心の欲を制御する各個人の力は極度に衰え、法規は次第に守られなくなって、自由は放縦と化して行くことでしょう。そしてすでに各地で激増しつつあるように、テロや詐欺や暴行などが頻繁に横行するようになり、世界の平和も大きく乱されるに到ることでしょう。
⑨ 蛮族の侵攻で西ローマ帝国が滅んだ後、その瓦礫の中から新しいキリスト教世界を打ち立てる力を再生させた聖ベネディクトのような人を、現代の私たちも新たに必要としているのではないでしょうか。彼は、アブラハムのように多くの国民の精神的父となりました。その会則の最後に述べられている修道士たちへの勧告は、私たちに危機と廃墟を乗り越えて天に至る道の指針を与えています。枢機卿はこう述べた後に、その会則第72章から引用して講話の結びとしています。「人を神から引き離して地獄に導く熱意があると同様に、人を悪徳から引き離して神と永遠の命に導くよき熱意がある。修道士が最も熱烈な愛をもって発揮すべきは、この熱意である。云々」という言葉であります。新しい年の始めに当たり、幼子イエスを胸に抱きつつ、人類救済のための祈りと熱意を心に燃やしておられたと推察される聖母マリアの取次ぎを願いつつ、私たちも同じ愛の熱意に生きる決心を固め、世界の真の平和のために神の祝福と助けを祈り求めましょう。
⑩ 使徒パウロは、神から離れてこの世の楽しみいっぱいの生活を営んでいる人たちの多いローマ社会に住んでいた信徒団に向けて、「あなた方は、この世に見倣ってはなりません。むしろ心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御旨か、何が善で神に喜ばれるかをわきまえるようにしなさい」(ローマ 12:2)と勧めていますが、この勧めは、今の世に生きる私たちにとっても大切だと思います。この世では神の御旨を第一にして、清貧に生活しておられた聖家族の模範に見倣って、私たちも世の救いのため、また世界平和のために、自分の日々の営みや苦しみを献げるように心がけましょう。