2009年1月25日日曜日

説教集B年: 2006年1月22日、年間第3主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ヨナ 3: 1~5, 10. Ⅱ. コリント前 7: 29~31.
Ⅲ. マルコ福音 1: 14~20.
① 本日の第一朗読であるヨナの預言書については、そこに描かれている話は歴史的事実ではなく、単なる作り話ではないのか、と考える人が多いと思います。当然だと思います。大きな魚の腹に三日間入れられてから吐き出されただの、ニネベは非常に大きな都で、一回りするのに三日かかっただの、国王が人にも家畜にも食べること飲むことを禁じた、などの事実とは思われないことが幾つも書かれているのですから。しかし、主イエスはマタイ12章やルカ11章などに、「ヨナのしるしの他には、しるしは与えられない」だの、「ここに、ヨナに勝るものがある」などと、ヨナの話が単なる作り話ではないかのように話しておられますし、カトリック教会の伝統も主のこのお言葉を重視しているようですので、聖書の他の箇所にも幾つかのとんでもない誇張や誤りがあるように、ヨナ書にもそのような人間的不完全があることを容認した上で、ここではヨナが大きな魚の腹に三日間入っていた奇跡を含めて、ヨナが実際にニネベで説教し、ニネベの人たちが改心して天罰を免れたことを、一応事実として信じる立場で、聖書を受け止めたいと思います。
② 私たちが神の大いなる御業や御威光に触れる道は、二つあると思います。一つは神の怒りにおいて、もう一つは神の救いにおいてです。神の恐ろしい怒りを体験したヨナの心は、神による全く奇跡的救いを体験して、どんな困難や迫害も恐れずにニネベで説教する気になったのではないでしょうか。ニネベの都では神の言葉に従って大胆に、「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる」と叫び続けました。人々がそれを信じても信じなくても、それは彼にとって問題ではなかったと思います。ただ神の語られた言葉を、そのまま住民に伝えようとしていたのではないでしょうか。私たちはよく結果を問題にし、こんなことを話したら、人々からどう思われるだろうかなどと心配し勝ちですが、一番大切なことは神の言葉に従う実践であって、その行為の結果ではないと思います。神がその行為の結果について責任を負って下さるのですから。ヨナの説教を聞いたニネベの人たちは、国王をはじめとして皆改心に励み、ヨナの告げた天罰を回避することができたようですが、その時ヨナはすでにニネベにはおらず、人々から感謝されることも、あるいは逆に「お前はでたらめを言いふらしたのではないか」などと、疑われることもなかったと思われます。
③ 本日の第二朗読の出典であるコリント前書7章は、新約聖書の中で最も詳しく結婚問題について扱っていますが、パウロはその中で、信仰に生きる人たちの結婚不解消については主の命令として強調しています。しかし、信仰をもっていない配偶者が信者との離婚を望むなら、離れて行くままにさせなさいと勧め、これは「主ではなく、私が言います」と、このような場合の離婚を認めています。また結婚者は「結婚のきずなによって奴隷として縛られているのではありません」と書き、信仰者は主によって代価を払って買い取られたキリストの奴隷ですから、「人間の奴隷となってはいけません」などとも書いて、結婚したい人は結婚してよいですが、結婚のきずなをキリストとの一致のきずな以上のものに絶対化しないよう警告しています。パウロはその後で、ただ今ここで朗読された言葉を書いているのです。これらの言葉から察すると、独身者であるパウロは、結婚生活の価値をあまり高く評価していないような印象を受けます。
④ しかし私は、結婚生活は確かにこの世に生きている間だけの過ぎ去る生活形態ですが、利己的に生まれついている人間の心に献身的奉仕の愛を目覚めさせ、逞しく成熟させる一つの真に貴重な手段であると思い、結婚生活を高く評価しています。主キリストもご自身を「花婿」と称して、私たち救いの恵みに浴している人類から「花嫁」としての献身的愛を期待しておられるのではないでしょうか。独身の生き方を選んでいる私たち修道者も、日々の茶飯事の中で主キリストに対する細やかな愛と配慮を表明することに、結婚者に負けないよう励みましょう。申命記6章には、「あなたは心をこめ、魂をこめ、力を尽くしてあなたの神を愛せよ」「家にいる時も、道を歩く時も、寝る時も、起きている時もこれについて語れ」という神の命令が読まれます。神は私たちから、そのような絶えざる愛の表明を求めておられるのではないでしょうか。使徒パウロもエフェソ5章では、「教会がキリストに仕えるように、妻も夫に仕えるべきです」などと、キリストと教会との関係を夫婦の関係になぞらえて、夫も自分の体のように妻を愛すべきことを強調していますが、パウロもやはり、夫婦の愛の関係を、主に対する愛の観点から高く評価しているのだと思います。
⑤ 本日の福音は、ガリラヤでの主の神の国宣教と最初の弟子4人の召し出しについての話ですが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉は、主の宣教内容を最も短く要約していると思います。以前にも皆さんに話したことですが、「時は満ち」という言葉は、単に神があらかじめ予定しておられた時が来たという意味だけではなく、この世の人類社会も満ち潮の時の砂浜海岸のように流動化して、人々がそれまで定着していた伝統的価値観や上下関係などから自由になって、新しく考え、新しく生き始めることができるようになっていることも意味していると思います。また「悔い改める」という言葉は、何か自分が人々に対してなした悪い行為、あるいは自分の欠点などを反省して改めようとすることではなく、もっと根本的に自分の心構えや生き方を変革すること、特に神の国が近づいたという神による新しい事態に適切に対応するよう、自分の心を準備し整えることを意味していると思います。人類社会の流動化は、今日では2千年前のキリスト時代に比べて遥かに大規模に進行しており、各種の社会的伝統もその拘束力を失って、内面から崩壊しつつあります。「時は満ちた。悔い改めて福音を信じなさい」という主の呼びかけを、現代の私たちは2千年前の人たち以上に真摯に受け止め、神の国に対する自分の命をかけた受け入れ態勢の実践的確立に努めるべきなのではないでしょうか。
⑥ シモン・ペトロとその弟アンデレ、ならびに彼らの漁師仲間ヤコブとヨハネの兄弟は、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」という主の招きを受けると、すぐに主の御後について行きました。ペトロとアンデレについては、「網を捨てて従った」と邦訳されていますが、網を放棄してしまったのではなく、のちにもその網を使って漁をしていますから、「網をそこに置いて」とか「そこに残して」と訳すべき言葉だと思います。原文では同じ動詞なのに、ヤコブとヨハネの場合には「舟に残して」と訳し変えています。この後者の訳の方が適切だと思います。現代の私たちに対しても、主は思わぬ時全く唐突に、困っている人や苦しんでいる人を介して何かをお求めになることがあります。そのような時、私たちは自分の今なしている仕事をそこに置いて、すぐに主のお求めに従うことができるでしょうか。何をなす時も、内的にはいつも主の御前に、時々主の方に心を向けながらなすように心がけましょう。自分の夫を深く愛している妻は、いつもそのような心で家事にいそしんでいると思います。私たちも、それに負けないよう努めましょう。なお、毎年1月18日から25日までは「キリスト教一致祈祷週間」とされています。全世界の教会はキリスト者の一致のために祈りを捧げており、私たちもこの一週間、毎日そのために祈っていますが、本日のミサは、例年のようにすべてのキリスト者の一致のため、神に照らしと導きの恵みを祈りつつお捧げしたいと思います。一緒に祈りましょう。ご協力をお願い致します。