2009年2月1日日曜日

説教集B年: 2006年1月29日、年間第4主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 申命記 18: 15~20. Ⅱ. コリント前 7: 32~35.
Ⅲ. マルコ福音 1: 21~28.

① 本日の第一朗読は、ヨルダン川を渡って約束の地に入る前に、モーセが神の民に語った話の形をとっていますが、モーセ五書の一つである申命記に書かれていることが皆、モーセの時代からそのままに伝えられている伝承ではなく、その中のかなりの部分は後の時代に付け加えられたものだと思います。礼拝する所はエルサレムだという話があったりしますし、本日の朗読箇所の少し前の17章にも、神の民を治める国王についての細かい規定が述べられていて、それらのことをモーセが民に語ったと考えることはできませんので。
② しかし、少なくとも本日の第一朗読にある話は、モーセが実際にその民に語った遺言の言葉であるかも知れません。それはモーセがシナイで聞いた神の言葉を伝えているからです。ここでホレブとあるのは、海抜2千メートル前後のシナイ連山の一つで、今日アラビア語でジェベル・ムーサ (モーセの山) と呼ばれている山を指すと思われますが、そのホレブの山の麓でモーセは神の声を聞き、神の民は大きな畏れのうちに神を礼拝しました。その礼拝のために集められた神の民は、その時の雷鳴のような恐ろしい威厳に満ちた神の声を聞き、山を覆い隠すほどの大きな火を見て、死ぬのではないかと思ったほど恐れたようで、もう二度と神が民に直接お語り下さらないよう、モーセを介して願ったので、神はその願いを受容し、これからも神の民の中からモーセのような預言者を立てて語ることを約束して下さったのです。モーセは民と別れるに当たって、本日の朗読にあるように、神のこの約束を民に思い出させているのです。
③ 神の啓示である聖書の示す信仰生活は動的なものです。神の民の生活する歴史的状況の変化に応じて、神は次々と新しい啓示や指導をお与えになるからです。神がモーセの生前に語られたお言葉だけに注目し、それに従っていればそれで良い、というようなものではないようです。神はモーセを介して、神の民が入る「約束の地」、カナン人たちの住んでいる土地を「乳と蜜の流れる土地」と語っておられますが、しかし、神の民はそこに行って流れ出る乳と蜜を飲んで楽しく遊んで暮らすことができる、などとは話しておられません。事実神の民が戦いに勝利して実際にその地に住んでみますと、一所懸命に働くなら乳と蜜を豊かに得ることのできる土地ではありますが、しかし、民を誘惑して主なる神から引き離そうとする異教文化の現世的知識や伝統的慣習が満ち溢れており、周辺には神の民を征服して自分たちに従わせようとする強い部族たちもいました。ですから神から与えられた約束の地は、神の民が自分の不純な内心に対しても、また自分を神から引き離そうとする外界からの誘惑に対しても、絶えず戦わなければならない厳しい修練の場でありました。第一朗読の後半に読まれる神のお言葉は、モーセの後にも神が民の中からモーセのような預言者を立てて、ご自身の言葉を授けることの約束であります。神がそこで神の導きに聞き従わない者たちや、神の命じていないことを勝手に神の名によって語る預言者に対して付言しておられる、厳しいお言葉も聞き漏らしてはなりません。
④ 神がモーセに与えられたこの啓示は、現代の私たちに対する神のお言葉でもあると思います。今の私たちも、隠れておられる神の神秘なお導きから眼をそらし勝ちな、自分自身の不信の心に対しても、また自分を神の導きから引き離そうとする様々の誘惑に対しても、絶えず戦わなければならない厳しい修練の場に、この世にいる限り置かれていると思います。神の民に対する聖書の啓示は、最高の啓示者であられる主キリストの来臨によって完全なものとなりましたが、その主は、「私は世の終りまでいつもあなた方とともにいる」とおっしゃって、今もご自身の霊、すなわち聖霊によって事ある毎に私たちの心に呼びかけ、私たちを守り導き助けようとしておられます。私たちのキリスト教信仰生活は、主によるその呼びかけや導きに対する心のセンスを祈りのうちに磨きつつ、絶えずそれに聞き従うことに成り立っていると思います。
⑤ ですから主キリストをこの世の人という次元でだけ受け止め、神の啓示は2千年前のキリストの時代で完結したのだから、その時までに書かれている現存の聖書だけを研究し、それに従おうとしていれば良いというのは、人間の側で構築した枠を神の啓示に押し付け、その狭い枠内でだけ神の啓示を眺め解釈しようとする不遜な試みとして、神から退けられるのではないでしょうか。信仰に生きる無数の聖人・賢者たちの体験からも明らかなように、神は実際に今も私たち信仰者の平凡な日常生活に伴っておられ、事ある毎に声なき声でそっと語りかけ、導いておられるのですから。私は自分の長年にわたる体験からも、このことを確信しています。マタイ16章とルカ17章によると、主は「自分の命を救おうとする者はそれを失うが、私のために命を失う者は、それを得る」と話しておられますが、何でも人間中心に自力で考え決めようとする心に死んで、もっと自分自身を徹底的に「無」にし、神の神秘な導きに聞き従おうと努めてこそ、私たちはいっそう深い次元で、神の啓示やその救いの御業を悟るに至るのではないでしょうか。
⑥ 本日の第二朗読は一週間前の朗読箇所の続きで、結婚生活のマイナス面について教えていますが、先日も話したように、私はむしろ結婚生活のプラス面により多く眼を向けていますので、信仰に生きる夫婦は、もし二人で助け合って祈りのうちに神の導きに対する心のセンスを磨くなら、独身者に劣らず成聖の道に進むことができると信じています。ですから、パウロがここで述べている言葉は一つの大切な警告と勧めですが、あまりそれに囚われる必要はないと思います。
⑦ 本日の福音も一週間前の福音の続きですが、最初の四人の弟子をお召しになった時とは、場面も内容も全く違っています。律法すなわち聖書の権威を独占的に利用しているファリサイ派に属しておられない主が、カファルナウムの会堂に入って教え始められたのです。察するに、これが主が会堂内で教えを説かれた最初だったのではないでしょうか。会堂内にいた「人々はその教えに非常に驚いた」とありますが、何に驚いたのでしょうか。聖書の言葉を引用しながらそれを解説し、掟の厳守を強調していたファリサイ派・律法学者たちとは違って、先日の福音にもあったように、神の国の現存と、それを受け入れ、それに従おうとする心の内的変革とを強調なされたからではないでしょうか。神ご自身が主導権をとって私たちの生活の中で働いて下さる、新しい時代が到来したのです。
⑧ 律法学者たちの話したことのない、神の間近な存在を神の権威をもって力説なされた時、その場にいた悪魔憑きの男が、「ナザレのイエスよ、お前と俺たちとどんな関係があるのか。俺たちを滅ぼしに来たのか。お前が何者か知っているぞ。神の聖者だ」と叫びました。初対面のその男は、イエスについてはまだ何も知らなかったでしょうが、これは、その男に取り憑いている悪魔の言葉だと思います。その言葉には誤りがありません。悪魔は真実を表明したのです。でも、そこには神に対する愛と従順の心が込められていませんから、主はすぐに「口をつぐめ。この人から出て行け」とお叱りになり、悪霊は大声をあげて出て行きました。悪霊たちは、ナザレのイエスについてもキリスト教会の説く教えについても、この世にいる私たちキリスト者より多くのことを正確に知っていることでしょう。しかし、神に対する愛と従順の精神が込められていないそのような信仰は「悪魔の信仰」などと言われており、神から忌み嫌われます。私たちも気をつけましょう。信仰の真理を正確に知っているだけではまだ足りません。ミサの「みことばの祭儀」の最後に信仰宣言をなす時も、外的習慣的にならないよう気をつけ、その宣言に神に対する感謝と愛の心を込めるように心がけましょう。神は、私たちの祈りや宣言の言葉に込められている心に、何よりも多く注目しておられるでしょうから。
⑨ 毎年1月の最後の日曜日は「カトリック児童福祉の日」とされていますから、多くの教会の信徒たちと心を合わせて、私たちも成長過程の子供たちのため、特に今苦しんでいる、今助けを必要としている子供たちのために、ミサ聖祭の中で祈りましょう。しかし、このミサ聖祭自体は、私たちが昨年の4月以来毎月一回捧げているように、私たちの隣国である中国・北朝鮮・韓国の人たちのためにお献げしたいと思います。私たち極東の諸国民が心を大きく開いて、互いに愛し合い、理解し合い、赦し合って平和に仲良く生きる恵みを、神に願い求めつつ。皆様のご協力をお願い致します。