2009年2月22日日曜日

説教集B年: 2006年2月19日、年間第7主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 43: 18~19, 21~22, 24b~25.
Ⅱ. コリント後 1: 18~22. Ⅲ. マルコ福音 2: 1~12.

① 本日の第一朗読である第二イザヤ書、すなわちイザヤ40章から55章までの部分は、バビロン捕囚時代になされた預言で、旧約聖書の中でも最も福音的な喜びと慰めのメッセージが多く読まれる預言書です。本日の朗読箇所の少し前にある43章の始めには、「ヤコブよ」「イスラエルよ、あなたを創られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、私はあなたと共にいる。云々」などという、神からの全く特別な愛の表明や、優しい慰め、励ましの言葉が延々と続き、その後半部分に本日の第一朗読の箇所があるのです。本日の朗読箇所にも登場する「ヤコブよ」「イスラエルよ」という呼びかけは、いずれも同じ神の民に対する呼びかけで、このように繰り返すことにより、神は特別な愛を示しておられるのだと思います。
② 「昔のことを思いめぐらすな」とあるのは、昔イスラエルの指導者たちが神信仰から離れて数々の罪を犯し、その結果戦いに負けて、こうして捕囚状態に陥ってしまったことを指していると思います。しかし、神はそれらの罪を全てお赦しになって、今や何か「新しいこと」、すなわちエジプト脱出の出来事にも匹敵するような、新しい救いの業を行おうとしておられることを匂わせながら、「私はあなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする」と明言しておられます。私たち現代人も、今の社会を見渡してみますと、実に頻繁に神に背き、犯した罪によってどれほど神をお悲しませしていることかと絶望的になる程ですが、教会がミサ聖祭中の朗読を通して新たに現代社会に宣べ伝えている、神からのこのような優しい呼びかけや、慰め・励まし・赦しの言葉などを、そのまま素直に受け止め、それを信じて、神への希望と感謝と奉仕の心を新たに致しましょう。幼子のように素直な信頼を言葉と態度で表明するなら、神はその信頼に応えて必ず働いて下さるのですから。しかし、神よりの言葉をただ理知的に頭で受け止めるだけで、心の意志がそのお言葉を喜んで積極的に受け入れ、それに従って新しい希望と信頼のうちに生きようと努めないなら、折角の神のお言葉も、その人の心の中に根を下ろし実を結ぶことはできません。心に自由な積極的信仰がない所には、神の救う力、全く無償の超自然的恵みも働けないのですから。
③ 本日の第二朗読では、神に対する「然り」と「否」という心の態度について教えられています。20節にある「アーメン」という言葉は、「確かに」「本当に」「そうあって欲しい」などという同意を表すヘブライ語ですが、ここでは「然り」と同じ意味で使われていると思います。神の子キリストは、父なる神よりのお言葉にはいつも「然り」と答えて、そのお言葉に積極的に従おうとしておられたので、神の約束はことごとく主キリストにおいて実現し、私たちも主を通してもたらされた救いの恵みに浴しているのではないでしょうか。本日の第二朗読に述べられている通り、神は洗礼によってその主と結ばれた私たちにも聖油を注ぎ、神の子の証印を押して、私たちが神の言葉に従って生きることができるよう、心に神の霊を与えて下さいました。感謝の心で、キリストの「然り」一辺倒の精神で生きる決意を新たに堅めましょう。
④ 本日の福音であるマルコの第一章には、最初の弟子たち四人の召し出しに続いて、様々な奇跡的治癒の話が述べられていますが、それに続く本日の福音に述べられている奇跡は、これまでの治癒の話とは出来事の周辺状況が少し違ってします。すでに主の奇跡的治癒の話が広まって、遠くの地方からも人々が主の御許に来るようになっていたようですし、それに伴って数人の律法学者たちまで御許に来るようになっていますから。民衆の宗教教育を担当していた律法学者たちは、主キリストの「神の国」宣教活動を視察し監視するために、エルサレムから派遣されて来たのかも知れません。もし主が病気の治癒をしているだけでしたら、そのような治癒の霊能者は、それ以前にもその当時にも、他にもいたでしょうから、それは数人の律法学者が視察に来るほどの問題にはされなかったと思われますが、主が新しい教えを宣べ伝えていると聞いて、主に対する厳しい監視が始まったのではないでしょうか。
⑤ 主は、彼らとの最初の対決の場であると思われる本日の話の家で、ご自身が誰であるかを、それとなく彼らにお示しになります。聖書に明記されてはいませんが、カファルナウムのその家は、ペトロの家であったかも知れません。家の中は、主の話を聞こうとする人々で、戸口の辺りまでいっぱいになっていました。そこへ四人の男が中風者を床に寝せたまま運んで来ましたが、家の中には入れないので、家の中心部の屋根をはがして穴を開け、病人の寝ている床をつり下ろしました。礼儀を重んずる人たちからすれば、これは法外の無礼に当たるでしょうが、主はその人たちの心の信仰を見て、この中風者を癒すのが天の御父の御旨であると思われたようです。快く「子よ、あなたの罪は赦された」と、中風者に言われました。すると律法学者たちは、この言葉は神に対する冒涜である、神の他には誰も罪を赦すことはできないから、などと考え始めたようです。神の他に誰も罪を赦すことができないというのは、正しいです。だから、今ここにおられるのは神よりの人かも知れない、と謙虚に考えようとはせずに、神に対する冒涜だと決め付けようとしたのは問題です。新しい教えを説く人を監視するという役目のため、彼らの心は無意識のうちに、先入観に囚われていたのかも知れません。
⑥ 主は彼らの心の思いを見抜き、それに応えて、「あなたの罪は赦された」というのと、「起きて床を担いで歩け」というのと、どちらが易しいか、と彼らに質問なさいました。人の目には罪の赦しは見えないので、それを言う方が易しいと思われるかも知れません。しかし、罪の赦しは神にしかできないことなので、実際には遥かに難しいことなのです。彼らが黙っていたので、主は「人の子が地上で罪を赦す権能を持つことを知らせよう」とおっしゃって、皆の見ている前でその人を即座に癒して見せました。神の力によってしか癒されないような奇跡を目撃して群衆は皆驚き、神を讃美しました。しかし、同じくその奇跡を目撃した律法学者たちは、どう思ったでしょうか。
⑦ 皆さん、隣人の言行について何かの疑念が生じたような時には、何よりもまず自分の中の先入観に警戒して、原則的に相手の言行をなるべく善意に解釈するよう心がけましょう。私たちは裁くためではなく、主キリストのように全ての人の救いに奉仕するために神から派遣されているのですから。神のためまた人のために、何かを相手に厳しく言う必要があると思う時には、神と人に対する愛のうちに適切になすことができるよう、何よりもまず神に眼を向け、神にひたすら祈ることから始めましょう。そして、最高のものは愛の創り主である神とその働きであることも、心に銘記していましょう。
⑧ 以前にプロテスタントの人たちと交際していて、プロテスタントの中には聖書を最高のものとしている人が多いという印象を受けたことがあります。聖書は古代に神の働きを体験したり神の言葉を聞いたりした人たちの作品で、非常に大切な案内書であり、規範書でもありますが、人間の書いたものであって、最高のものではありません。最高のものは、聖書が書かれる以前にある神ご自身とその働きであります。神の働きを体験したり、神から啓示を受けたりした人は、古代に聖書を執筆した人たち以外にも大勢います。ヘブライ書の冒頭にも述べられているように、神は多くの方法、様々なやり方で人類に語っておられるのですから。神の御言葉の受肉によって神からの啓示は完成されたのですが、その完成を2千年前という時点だけに限定して考えてはなりません。その神の子キリストは聖書を執筆なさらずに、ご自身の生活や働きを通して神を啓示し、死後にも復活して神とその働きを啓示し続けておられますし、「私は世の終りまであなた方と共にいる」とおっしゃったのですから。主はまた「ファリサイ派のパン種に警戒しなさい」とも話しておられます。その主が私たちの人間社会に隠れた形で伴っておられることと、今も私たちの間で人類救済のために働いておられ、そっと人々に語りかけておられることとを信ずるなら、ファリサイ派の聖書一辺倒や一種の原理主義に陥ることのないよう、心を神に向けて大きく開き、神の現存・神の働き中心の精神で生きるよう心がけましょう。今迷っている多くの人たちのためにも、神による照らしと恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。