2009年3月1日日曜日

説教集B年: 2006年2月26日、年間第8主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. ホセア 2: 16b, 17b, 21~22. Ⅱ. コリント後 3: 1b~6. Ⅲ. マルコ福音 2: 18~22.

① 本日の第一朗読であるホセア書は、現世的豊かさを求めて神から離れて行った北イスラエルを神へと呼び戻すためになされた紀元前8世紀中葉の預言書ですが、ホセア2章の前半には、ホセアの妻ゴメルが姦通によって親しくなった愛人たちの後を追って、ホセアの許を去って行ったことが述べられています。しかし、自分に豊かな富と楽しみを与えてくれたその愛人たちを尋ね求めても見出せず、彼女はついに「初めの夫の許に帰ろう。あの時は今よりも幸せだった」と後悔するに到りました。神は背信の罪を犯した民イスラエルに神の大きな愛を示して、真の神信仰へと呼び戻すために、ホセア預言者に姦通したその妻に対する大きな愛を実証させ、それをイスラエルに対する神の愛の証しとさせたのが、この預言書だと思います。
② 本日の朗読箇所には削除されていますが、ホセア2章の17節aには、「アコルの谷を希望の門として与える」という神の言葉が読まれます。このアコルの谷はヨシュア7章に出てくる地名で、神の民は約束の地に侵入した当初、アイという名の部族と戦って惨敗しましたが、神は契約の箱の前でひれ伏して祈るヨシュアに、その原因は、神が滅ぼし尽くすようにと命じた異教徒の富を、アカンの一族がひそかに棲家である天幕の中および地下に隠して保持していたためであることを啓示なさいました。それでヨシュアはアカンを詰問した後に、全イスラエルを率いてアカンが神の命令に背いて集めた富を谷間に運び出し、アカン一族と共に滅ぼし尽くしました。神の民はこうして神の怒りを和らげ、アイの部族に勝つことができましたが、この時から神に背くもの一切を滅ぼし尽くした谷は、「アコルの谷」と呼ばれるようになった、と聖書にあります。ホセアの妻ゴメルも、荒れ野にあるその谷に連れて行かれて罪のほだしから清められ、乙女であった時の忠実心をとり戻したのではないでしょうか。本日の第一朗読の後半で、神は悔い改めたその彼女に見立てたイスラエルの民を、もう「彼女」とは呼ばずに「あなた」と呼んで、その民と「とこしえの契り」を結ぶこと、そして民は主を知るようになることを預言しています。この短い預言の言葉の中で「契りを結ぶ」という言葉が三回も繰り返されているのは、それが結婚の契りのように、特別な愛の契約を指しているからだと思われます。
③ 本日の第二朗読の始めにある「推薦状」という言葉は、キリストを信じて洗礼を受けても、割礼を受けて律法を守らなければ救われない、と主張するユダヤ教キリスト者たちからの非難を排除するために、パウロとバルナバがエルサレム教会に行って、神が割礼からの自由を説く自分たちの宣教活動を祝福し、非常に多くの異邦人を真の信仰に導いて下さったことを説明して、使徒たちと長老たちの会議によって与えられた、その宣教方法公認の推薦状を連想させます。しかし、パウロはここで、そんな信徒団向けの文字で書かれた推薦状や信徒団からの推薦状よりも、神の霊によって私たち各人の心に書かれている推薦状を重視しています。そして多くの異邦人が神の恵みを受け、神の働きによって次々と信仰の花を咲かせ実を結ぶことが、神からの生きている推薦状なのだと主張しているようです。「あなた方」、すなわちコリントにいる大勢の信徒たち自身が、「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に書きつけられた手紙です」と書いているからです。エルサレムの使徒会議も、パウロたちの宣教活動の内に、信ずる人々の心に神の霊によって書かれた推薦状を確認したから、全会一致で彼らの宣教方法を承認し、立派な羊皮紙に書かれた推薦状を与えたのだと思います。
④ それでパウロたちは、第二朗読の後半に述べられているように、「神は私たちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えて下さった」のだと確信し、「文字は殺しますが、霊は生かします」という、意味深長な言葉も書き添えています。そこに述べられている「独りで何かできるなどと思う資格」というのは、この世の社会的に公認された資格、例えば文字で書かれている免許証などの資格を指していると思われますが、パウロたちはここで、神から「新しい契約に仕える資格」を与えられて宣教する人たちは、そういう文字で書かれた社会的公認の資格よりも、現実の人々の心の中での神の霊の働きや導きに注目し、その霊が自分たちの奉仕を通して実際に実を結ばせて下さっていることを重視しているのではないでしょうか。社会的に公認された資格を持っていても、その祈りや働きがさっぱり実を結ばないようであるなら、神の霊に仕えるという命の火のような資格が心の中に消えていないかについて、謙虚に検証してみる必要があると思います。
⑤ 主は本日の福音の中で、インマヌエルの神が世に来臨し、人の子らと共にいる「今の時」の新しさと喜ばしさを強調しています。断食は、生身の弱さを心に留めているこの世の信仰者にとって大切な務めですが、花婿がいっしょにいる結婚のお祝い時にはしてはなりません。花婿を迎えている新しい喜びに深く参与し、新しい命の力を吸収することの方が優先されるからです。しかし、やがてその花婿が奪い取られ、その再臨を長く待たされる時が来ますから、その時には婚礼に招かれた神の民も断食するようになる、というのが主のお返事だと思います。古い伝統を忠実に順守している洗礼者ヨハネの弟子たちやファリサイ派とは違って、この時点の主の弟子たちは、神の御独り子と神の民との新しい婚礼を祝うという大事な時を迎えているというのが、主のお考えなのではないでしょうか。
⑥ 主がそれに続けて、「誰も新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。云々」と話しておられることも、注目に値します。新しいぶどう酒は美味しいですが、まだ静かに発酵を続けているのか、現代のようにガラス瓶などに入れるのではなく、古代人が常用していた古い革袋に入れたりすると、その革袋を破ってしまうのだと思います。新しいぶどう酒の旺盛な変革力に耐えるには、新しい革袋が必要だったようです。
⑦ 余談になりますが、聖書のこの話を読む時、私がいつも懐かしく思い出すことがあります。それは、1960年の5月初めに、私の所属していたローマのグレゴリアナ大学教会史学部修士課程の学生たち30人余りといっしょに、イエズス会員の著名なキリスト教考古学者の案内する、ナポリ近郊のキリスト教遺跡探訪の三日間のバス旅行に参加した時、一人のスペイン人の学生神父が持参した、真に古びた大きな革袋に入っている古い美味しいぶどう酒を、一口飲ませてもらったことです。一口と言っても、口を大きく開けてその袋から注がれるぶどう酒を飲めるだけ飲めというのですから、ある程度の量は飲みましたが、その美味しさは長く忘れられませんでした。この旅行中の5月最初の日曜日の朝9時に、私は、305年 (?) にナポリで殉教した聖ヤヌアリウス司教の乾いて石のようになっている血潮が、保管されているガラス瓶の中で、祈りの後に祝別されて点されたローソクを近づけた瞬間、私のすぐ目の前1m程の所で黒ずんだ赤い液体に変化する奇跡を目撃しました。この奇跡のことは、すでに名古屋で神学生時代に聞いており、19世紀と20世紀にあらゆる科学的検証が試みられても、科学では説明不可能な奇跡的現象であると立証されていることは聞いていましたが、こうして目撃したことから、私は神の働きによる奇跡のあることを堅く信ずるようになりました。聖ヤヌアリウスの血潮は、その奇跡的液状化の後に2週間ほどで元の固体に戻るそうですが、9月19日の殉教記念日と、私の失念したもう一つの記念日にも、毎年合計3回同様にして奇跡的に液状化する現象が続いていると聞いています。
⑧ ついでながらもう一つ余談を申しますと、つい二、三日前の典礼にその殉教を記念した、使徒ヨハネの直弟子聖ポリカルポ司教が、小アジアのスミルナで155年頃に火刑によって殉教した後、信徒がその遺骨の前で神に何かを祈り求めると、その祈りが非常によく聞き届けられるというので、「その御遺骨は私たちにとってどんな宝石よりも貴重です」と、スミルナ教会が諸教会に宛てた書簡で知らせると、各地の教会でも殉教者崇敬が盛んになり、それが後世の聖人崇敬に発展しましたが、私は自分の数多くの個人的体験からも、神は今も聖母マリアをはじめ、信仰に生きた聖人たちの取次ぎを介して捧げる願い事を、度々本当によく聞き届けて下さることを確信しています。主キリストが、目には見えなくとも今なお実際に私たちの間に現存しておられるのだと、心で実感することもあります。
⑨ 話が横道にそれてしまいましたが、主は本日の福音にある革袋の譬え話で、神の国が現存し、神が新しい形で私たちの現実生活の中で働いておられる新約時代には、目に見える理知的画一的な在来の法規や社会的慣習中心の信仰生活ではなく、今現に身近に隠れて私たちを見ておられる神に対する信仰と愛と感謝を中心とした信仰生活を優先しなければならないことを、説いておられるのではないでしょうか。教会という集団も私たちの心も、ある意味で器のようなもので、そこにお入り下さった主は御自ら主導権を取って静かに発酵を続けておられ、そのお働きに柔軟に対応し従って行こうとはせずに、人間中心の古い法規や慣習にだけ従っていようとする古い器は、容赦なく内面から破ってそこから流れ出ようとなさる方なのではないでしょうか。私たちを神へと導く法や慣習が不要だ、と言うのではありません。その法や慣習の中で新しく発酵し、新しく働いておられる神の働きに従って行こうとする信仰実践が大切だと思うのです。その実践が革袋を若返らせ、柔軟不抜のものに変えて行くのですから。神のその現存と働きに心の眼を向け、愛と感謝の心で従って行く決意を新たにしながら、本日の感謝の祭儀を献げましょう。