2009年3月3日火曜日

説教集B年: 2006年3月3日、日比野浩平氏と野田由紀子さんの結婚式 (神言神学院聖堂)

朗読聖書: コリント前 13: 1~7.
① 日比野浩平さん、野田由紀子さん、神の御前で結婚の誓約を交わすに当たり、まずご両親をはじめ、これまでお世話になった数多くの方々に対する感謝の念を新たにして下さい。受けた御恩を有り難く思い、その御恩に報いよう、そのご期待に応えようと努める、人間としての相応しい心がなければ、神の御前に進み出ても、その御祝福・御加護を受けることができないからです。近年は不当な弱者抑圧を止めさせるため、しきりに「人権」という言葉が叫ばれており、それはある意味で真に結構なことですが、しかし、自分には生まれながらに何人たりとも侵すことのできない権利があるなどと、錯覚してはなりません。究極の原点にまで立ち返って考えるならば、私たちは皆、本来全くの無であり、この存在も持ち物も、全て万物の創造者であられる神からいただいているのです。神は、私たち被造物に対する無限の愛とその全能の力によって、私たちを無から存在へと言わば押し出すようにして、絶えず与え支え続けておられるのです。目に見えないながらも、神は今もそのようにして私たちの中に内在し現存して働いておられる、私たちの最大の恩師であり、すべての生きとし生けるものの命の本源なのです。したがって、今結婚によって新しい生き方を始めるに当たり、万物の本源、命の本源であられる神に感謝することも、忘れてはなりません。
② ところで、神はいったい何のために私たちこんなに雑多な被造物をお創りになったのでしょうか。聖書の教えに基づいて考えると、それは私たちが日々ますます大きく心を開いて、これらの全てが神からの命に生かされていることを悟り、感謝のうちに神を愛し、その愛によって堅く神と結ばれ、神の幸せに参与するためであると思われます。神に似せて創られ、神からこの世の万物を支配する使命を与えられている人間は、宇宙万物の命の流れを神に対する感謝へと導く、大きな使命を自覚していなければならないと思います。
③ 神は、人間が自分と異なる他者に心を開いて、愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶように、聖書によると人間を男と女にお創りになりました。また全ての生きとし生けるものをも、同様に雄と雌二つのものから成り立つようにお創りになりました。男と女があるのは、単に結婚して子を産み育て、子孫を残すため増やすためだけではありません。立派な子孫を残すということは、確かに結婚の一つの目的ではありますが、しかし、その前に自分と異なる他者に心を開いて、愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶことも、結婚の大切な目的であります。教会は聖書に基づいて昔からこの立場を堅持していますが、第一次世界大戦後に個人主義精神や享楽的自由主義結婚観が広まったりすると、夫婦の相互愛という結婚目的を強調しました。40数年前に開催された第二ヴァチカン公会議も、この結婚目的を強く説いています。私たち人間の結婚は、身近な一人の他者を愛することから始まって、やがて自分と性格も考えも異なる親戚や一族子孫、さらに社会全体、生きとし生けるもの全てをも心を開いて受け入れ、愛のうちに共に生きる道を実践的に見出すようになるため、そして究極的には私たちを無限に超越しておられる神にも、心を大きく開いて感謝するようになるためにあるのだと思います。神からの超自然の恵みに支えられつつ、その存在もお考えも知り得ない絶対の他者であられる神秘な神とも、愛と感謝のうちに共に生きるようになるためなのです。したがって、結婚生活には、自分と異なる他者のため、その他者に心を開いて愛のうちに共に生きることを実践的に学ぶ道場としての使命が、神から付与されていると思います。たとえ二人の間に子供が生まれないとしても、他者への広い忠実な愛に成長するという結婚の目的は、立派に達成することができます。これが、カトリック教会の教えです。
④ ところで、戦後のベビー・ブームに生まれた圧倒的に大勢の若者たちが、1970年代に入って都市での結婚式場の不足に困窮し、カトリック教会に依頼した時から、日本の教会では、キリスト信者でなくても、結婚講座を受けて二人が宇宙の創り主である神の御前にまじめに夫婦の誓いをなし、結婚生活を営む意志を抱いていることが確認できればという条件で、このようにカトリックの聖堂で結婚式を挙げることを受け入れることにしました。浩平さんも由紀子さんも、私の下でその結婚講座を受け、真摯な結婚意志が確認できましたので、本日めでたい式を迎えている訳ですが、結婚生活はある意味で二人三脚のようなもので、二人三脚においては互いに内側の脚をしっかりと結び、相互の愛と思いやりのシンボルであるその一つに結ばれた脚を優先して、その脚から踏み出すこと、その脚の歩幅とリズムに合わせて、互いに外側の自由な脚を踏み出すことが肝心だと思います。しっかりと肩を組んでこのように心がけると、程なく意気投合と言われるものを体験し、身につけるようになります。しかし、束縛を嫌う現代人の中には、内側の脚をなるべくゆるく縛り、外側の自由な脚を優先し勝ちな人たちも少なくないようです。運動会の時に一度そのようにして走ってごらんなさい。意気投合どころか、お互いにストレスが溜まって転んでしまったり、立ち止まってしまったりしてしますます。そして互いに相手に向かって文句を言ったり、責任を転嫁したりし勝ちです。お互いにしっかりと肩を組んで仕合わせな意気投合を体験している夫婦は、自分を束縛する横の方に心を向けるよりも、もっと多く前方の目標、二人の共同の目的の方に心の眼を向けながら話し合っています。今日結婚するお二人も、このような仕合わせな結婚生活を営むよう希望して止みません。お二人には前にも話したことですが、私たちの人生はこの世だけで終わるのではなく、神の啓示した教えによると、私たちは死後にも新たな形で永遠に生き続けるのであり、ますます神のように自由で仕合わせな神の子になって行くのです。この仮の世の生活は、私たちのその本当の人生のために各々自分の心を準備し、磨き鍛える、いわば修練期間のようなものなのです。
⑤ 仕合わせという言葉は、太平洋戦争後に新しい学校制度が施行された50数年前から、短く幸福の「幸」という字一つで書く表記が定着するようになりましたが、昔の辞書には、仕え合うという時の「仕える」という字と「合う」という字を結んで、「仕合わせ」書かれており、私も学生時代にはそのように書いていました。私たちの本当の仕合わせは、互いに仕え合う心とその実践から生まれるのではないでしょうか。そのように心がけていた昔の日本人の智恵からも、謙虚に学んで欲しいと思います。浩平さん、由紀子さん、愛のうちに他者と共に生きる実践的訓練を施してくれる結婚生活が、幸福な自己完成への一つの道であることをしっかりと心に銘記し、これから出会う各種の困難や誤解などに対しては二人でよく話し合い、いっしょに弁護し助け合って乗り越えて行こうとの決心を新たにして、神の助けとご保護を願い求めて下さい。ご列席の皆様も、新しい人生の門出をなすお二人の上に、神の祝福が豊かにありますようお祈り下さい。皆で、お二人が仕合わせな結婚生活を営むよう、神の恵みを願い求めましょう。