2009年3月1日日曜日

説教集B年: 2006年3月5日、年四旬節第1主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 9: 8~15. Ⅱ. ペトロ後 3: 18~22.
Ⅲ. マルコ福音 1: 12~15.

① 本日の第一朗読は、数千年前の出来事かと思われますが、ノアとその家族が大洪水の後で箱舟を出てから、神が彼らに話されたお言葉であります。以前にも話したように、私は個人的に、数百万年前の原人や数十万年前の旧人たちは二本足歩行の人間ではありますが、優れた知能を発達させてはいてもまだ高等動物の一種で、神から万物の霊長としての使命とそれを達成するための超自然の賜物とを受けてはいなかったと考えています。彼らは他の全ての動植物たちと同様、弱肉強食のこの世の苦しみと死に脅かされながらも、子孫を残そうと逞しく生きていたと思います。神はその後でホモサピエンスと言われる今の人類をお創りになり、人類史上のいつの時点か知りませんが、これに万物の霊長としての使命とそれを達成するための超自然の賜物とをお与えになったのではないでしょうか。この新しい人類は、その超自然の賜物によって苦しみも死も味わうことなく、それまでの自然界全体を神の御旨中心に生きる輝かしい栄光の世に高めて行く使命を受けていたのではないか、などとも勝手に想像しています。しかし、その人祖が悪魔の誘惑に負けて自分に与えられた大きな自由を悪用し、神の御旨に背を向けてしまったので、神からの超自然の賜物を全て喪失し、それ以前の高等動物たちと同様に、自分の自然的能力に頼ってこの苦しみの世に生き、死を味わう身となったのではないでしょうか。でも、神は今の人類にお与えになった万物の霊長としての使命を取り上げることはなさらずに、創世記3章15節にあるように、蛇の姿で現われていた悪魔に、「彼 (すなわち女の子孫、メシア) がお前の頭を砕く」ことを予告なさいました。神は人祖アダムたちの罪を永遠の昔から予知しておられたので、その罪ゆえに、生きとし生けるものは初めから苦しみの世に生活するのを余儀なくされていた、と考えることもできましょう。
② それからどれ程の世代を経たのか分かりませんが、おそらくメソポタミア地方に住んでいたと思われるヨブが、後世のアブラハムのように神からの選びを受け、神の声に従う生活をして、遂に大洪水からも救われるという体験をしました。すると神は、本日の第一朗読にあるように、ノアとその息子たちを介して「箱舟から出た全てのもののみならず、地の全ての動物と契約を立てる」とおっしゃって、洪水が全ての肉を滅ぼすことはもう決してないことを、約束して下さったのです。アブラハムとの契約が、単にアブラハムとその子孫だけに与えられた祝福ではなく、聖書に「地上の諸国民は全て」とあるように、全人類に与えられた祝福でありましたが、ノアとその息子たちに与えられた契約と祝福も同様に、彼らを介して全人類、いや全被造物に与えられたものと考えてよいと思います。神は「地の全ての動物と契約を立てる」と話しておられるのですから。
③ その中で神が「代々とこしえに私が立てる契約のしるし」として「虹」について話しておられることも、注目に価します。虹は自然現象ですから、それ以前の時代にも見られたと思いますが、神はこの時から、その虹を神と全人類ならびに地の全ての生き物との間の「契約のしるし」として眺めることを望んでおられるのだと思います。神ご自身も、雲の中に虹が現われると、「私は、私とあなた達ならびに全ての生き物」「との間に立てた契約を心に留める」とおっしゃっておられるのですから。この物質界の全ての被造物は、人類の一員となられた主キリストの栄光の再臨と、その時に溢れるほど豊かに注がれる超自然の賜物によって実現する新しい世界で、永遠に美しく輝きながら神の創造と救いの御業に感謝し、それを讃えるような生き方をするようになるのではないでしょうか。私は、本日の第一朗読にある神のお言葉から、空に虹を見る時は、それをこのような大きな明るい希望のうちに眺め、神の御約束を思い出しています。
④ 本日の第二朗読によると、使徒ペトロは、受難死の直後に主イエスの御霊魂が陰府の国に囚われていた霊魂たちの所へ降って行って宣教しましたが、その霊魂たちの中には、ノアの時代に神に従わずに大洪水で滅んで行った者たちもいた、と考えていたようです。としますと、この世に生きていた時には神の呼びかけや働きをよく識別できず、それに従わずにいて死んでしまい、あの世で捕囚状態になっていた霊魂たちにも、キリストによる救いの恵みが届けられるのでしょうか。これは、真に喜ばしい福音だと思います。この世でキリストの福音を聞く機会に恵まれなかった無数の乳幼児の霊魂たちや、それよりも遥かに多くの異教徒や罪人の霊魂たちは、あの世で主キリストの福音に出会い、そこで自分の永遠の人生についての基本姿勢を選択決定することができるのかも知れません。以前の使徒信経に「古聖所に降り」とあるその古聖所 (今の使徒信条には陰府と邦訳) とは、そのような死者の霊魂たちに、自分の永遠の人生について決断する機会を提供する所なのかも知れません。あの世はこの世の時間空間を超越している世界ですので、主が古聖所にお降りになったのは、2千年前の受難死直後の時だけではなく、今もなお世の終りまで続いているのではないでしょうか。主はこうして、この世の時間的あとさきを超越して神に従う全ての人の王となり、全人類とその他の全被造物とを神の愛と光り輝く栄光の内に集め、全く一つにして下さるのではないでしょうか。
⑤ ペトロが、ノアと共に箱舟に乗り込み、大洪水の苦難を無事乗り越えて救われた少数の人々を、洗礼の水によって救われる人々のシンボルと考えていることも、注目に値します。ペトロも書いているように、洗礼は肉の外的な汚れを取り除くのではなく、たとえ肉は汚れたままであっても、その中にあって神の御旨、神の働きに忠実に従う正しい心を願い求めつつ生きる力を与える、と考えることも大切です。神のお言葉に従って、各種の生き物たちといっしょに狭い箱舟に乗り込み、その世話に追われながら生活していた8人の人たちは、大洪水の水かさが増すとますます天へと高められ、その水に運ばれて高い所に到着したようですが、ペトロは、神によって選ばれたその人たちを、洗礼によって教会という箱舟に乗り、この世の荒波を乗り越えて次第に天上へと運ばれ、数々の救いの恵みに浴するに到る受洗者たちのシンボル、と考えていたのではないでしょうか。洗礼の水もノアの大洪水の水と同じく天からの水であり、神のお言葉に従わない者たちを滅ぼし、神のお言葉に従って教会という箱舟に乗り込む人たちを、高めて救いに導く水であると思います。その水が私たちからどれ程の従順と忍耐を要求しようとも、神の愛の御旨に信頼しつつ、神の僕・婢として忠実に従っていましょう。私たちの本当の仕合わせは、そこから大きく開けて来るのですから。
⑥ 本日読まれた福音の最初の言葉は、「霊はイエスを荒れ野に送り出した」と邦訳されていますが、この「送り出した」は、ギリシャ語原文ではエクバローという動詞で、マルコ福音書にはこの動詞が16回も登場していますが、うち12回は悪霊を追い出す意味で使われており、残りの4回も、例えば悪い小作人たちが主人からの使者を追い出す時や、主が神殿から商人たちを追い出す時など、いずれも追い出したり追放したりする意味で使われていますので、ここでも「送り出した」よりはもっと強く、誰も行きたがらない荒れ野へと強制的に追い立てた、という意味で使われていると思います。マルコはなぜそんなに強い意味の言葉を、ここで主に使ったのでしょうか。それは、神の計画、神の救いの御業を妨げて止まないサタンとの戦いは、メシアにとって避けて通れない苦しい戦いであり、荒れ野でのその苦しい決戦に雄々しく立ち向かうことは、神の不退転の決意であるからだと思います。現代の私たちは、「日々自分に与えられる十字架を担って私に従え」という主のお言葉を頭ではよく承知していても、いざ寒い朝に起床する時や、何かの難しい困難や煩わしい問題に直面したりした時に、すぐにはその十字架に立ち向かって行けない弱さを心に抱えています。心の眼を自分自身にばかり向けていると、なかなかその弱さに勝てません。もっと神の声に、また主の御模範に、心の眼を向けるように努めたいと思います。
⑦ 野獣たちも少ない獲物を探し回って荒立っている、全てがとげとげしく乾燥している荒れ野に行くよう、人間イエスは神の霊によって駆り出され、極端な孤独と長期の断食のうちに、悪魔からの誘惑や攻撃に耐えなければならなかったのだと思いますが、水気のほとんどないその荒れ野にいるのは、野獣と悪魔だけではありません。目には見えなくても、神の天使たちも信仰に生きる人の側にいて、緊急時には必要な奉仕をしてくれます。私たちも、愛する者たちをこのように厳しく鍛えようとなさる神に、緊急時には行き届いたご配慮のあることを堅く信じ、勇気をもって自分の弱さや悪魔と戦う心を堅持していましょう。
⑧ 本日の福音には、もう一つ注目したい言葉があります。主は「時は満ち神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と話されましたが、この「悔い改めて」というお言葉を頭で理解し、規則に違反しないようにしていれば良いのだとか、神のおられる天を時々見上げていれば良いのだなどと、外的に受け止めないよう気をつけましょう。主がその言葉の直前に言われた「神の国」は神の支配を意味していて、その神の新たな臨在と支配は、目には見えなくても今や私たちの身近な人間関係や日常茶飯事の中にまで、すなわち私たちのすぐ目前にまで来ているのです。主が言われる「悔い改め」は、何事も自分中心に利用しようとする考え方・生き方を完全に捨て去り、自分の身近に臨在する神の新たな支配に全面的に心を開く、これまでの生き方の根本的転換を意味していると思います。四旬節に当たり、その神の支配に徹底的に従う決意を新たに固めつつ、日々神のお求めになる心の「悔い改め」に励みましょう。