2009年3月22日日曜日

説教集B年: 2006年3月26日、年四旬節第4主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 歴代誌下 36: 14~16, 19~23. Ⅱ. エフェソ 2: 4~10.
   Ⅲ. ヨハネ福音 3: 14~21.
① 本日の第一朗読である歴代誌は、サムエル記上下と列王記上下の記述を補足するような形で、まず人祖以来の主な系図を略述した後、サウル王の戦死から始まって、ダビデとソロモンの統治について詳述し、続いて分裂王国時代のユダ王国の歴史について、バビロン捕囚に到るまで略述しているものですが、本日の朗読箇所は、その最後の章から引用されています。神の民とされたイスラエル民族は、ダビデ王とソロモン王の時代には神の恵みを豊かに受けて繁栄していましたが、国王たちが神に対する畏れと敬虔・従順の精神を失って、自分の望みや自分の考え中心に民を支配するようになったら神の恵みと保護を失い、煩わしいこの世の争い事などに呻吟するようになりました。新約時代の神の民に属する私たちも、神の僕・婢として神の導きに従って生きようとする預言者的精神を失うことのないよう、気をつけましょう。さもないと、神は新約の神の民にも突然大きな試練の嵐を遣わされるかも知れません。もしそのような事態に陥ったら、バビロン捕囚の時の敬虔なユダヤ人たちのように、悔い改めて神中心の預言者精神に生きるよう、希望をもって励みましょう。そうすれば、神は私たちにも本日の第一朗読の最後に読まれるような、大きな希望に生きる道を開いて下さることでしょう。神は私たちを愛しておられ、ただ時折、愛する者たちの怠りや不熱心の精神を矯め直そうとなされるだけなのですから。
② 本日のミサは、イザヤ66章に読まれる「喜べ、神の民よ、云々」の言葉で入祭唱が始まるので、昔から「Laetare (喜べ) のミサ」と呼ばれて来ました。すでに断食・苦行の時期、四旬節が半分を過ぎ、復活祭の喜びが遠くないという明るい希望のうちに、教会は四旬節の務めに勤しむ信徒たちを励ましていたのだと思います。そのせいか、第二朗読のエフェソ書には私たち罪人に対する神の大きな愛のご計画が啓示されています。このエフェソ書はまず2章3節に、私たちが肉の欲望のため「神の怒りの子」として生まれついていると述べていますが、現実の人間の心が生来自分の命の源であられる神を無視し、目先の事物に対する利己的欲望に駆られ易いことを考えますと、私たちの心の奥底には、そういう忘恩の自己中心的罪の毒素が根を深く張りめぐらせているように思われます。神に背を向けているそんな心では、永遠に続く自分の本当の人生のため何一つ美味豊かな献身的愛の実を結ぶことができません。それで本日朗読された2章5節は、その状態を「罪のために死んでいた」と表現しているのだと思います。欲望のままに生きる人生は、いわば儚く過ぎ行くこの世の人生の終わり、すなわち死を空しく待っているだけの人生で、そこからは永遠の仕合わせへの期待も待望も生じ得ないからです。
③ しかし、憐れみ深い父なる神は、そのような内的死の状態、罪の状態に生活していた私たちをこの上なく愛して下さり、その愛のうちに御独り子をこの世に派遣して人間となし、その御独り子の新しい命によって私たちが罪の命に死に、御独り子と共に神の命に復活する道、そして神の御許で永遠に仕合わせに生きる道を開いて下さったのです。神の限りなく豊かな恵みにより、神への信仰と信頼一筋に生きることよって救われる道を提供し啓示して下さった、神のこの大きな慈しみを堅く信じ、希望と喜びのうちに立ち上がりましょう。本来神は私たち人間を、この暗い苦しみの世にわずか50年か100年間生存させて、空しく死んで行くために、お創りになったのではありません。創世記の神話を通しても啓示されているように、私たち人間は神に特別に似せて創られ、神の下に神と共に全被造物を支配するという使命を神から戴いているのです。創世記にある「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。……全ての生き物を支配せよ」という神のご命令は、そのことを示していると思います。
④ 真に残念至極なことですが、その使命を授けられた人祖が神の恩愛に背き、悪魔の誘惑に従って神のようになろうとしたために、人間は時間空間の制約に堅く閉ざされたこの暗い神秘な苦しみの世に追放されたのですが、私たち人間の本当の人生は、この万物流転の世にあるのではありません。メシアが譬え話にしてお語りになったあの放蕩息子のように、この世の絶望的不安と苦しみと限界を体験して奥底の心が目覚め、悔い改めて神に立ち帰る生き方へと転向するために、この世に追放されているのです。人間が自力でどれ程科学的研究を発達させても、神のおられる永遠の栄光と至福の世に入ることはできませんが、神のお遣わしになった御独り子と内的に一致し、その命に生かされつつ共に苦しみ、共にこの世の命に死ぬならば、やがてあの世の命に復活し、復活なされた主イエスと同様に、時間空間の一切の制約を超えた永遠の世で、神と共に全ての被造物を永遠に支配し、主キリストと共に永遠に幸福な人生を営むに至るのです。使徒パウロはローマ書8章で、「被造物は (皆、今は) 空しさに服従させられていますが、神の子らの (そのような) 現われを切なる思いで待ち焦がれているのです」と書いています。この大きな希望の将来像を啓示して下さった神に感謝しながら、主と共に日々喜んで十字架を担い、神に立ち帰る生き方に心がけましょう。
⑤ 本日の福音には、「信じる」という動詞が5回、「裁く」という動詞あるいは「裁き」という名詞が合わせて4回登場しています。主イエスがニコデモに語られた話の一部ですが、主はそこで、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。云々」と話しておられます。このお言葉から察しますと、天の父なる神は、その御独り子を与えて下さるほど、罪の中にいる全人類を深く愛し、恐ろしい十字架刑の死を甘受して、ご自身を神へのいけにえとなされたその御独り子の功徳により、その御独り子が提供する神の永遠の命を信仰をもって受け入れ、その命に参与する人を断罪せずに救って下さる、と主はニコデモに説かれたようです。
⑥ 主がその話の中で「信じない者は既に裁かれている」と話しておられることは、注目に値します。光の本源であられる神の御子が大きな愛をもってこの世に来られたのに、悪を好み悪行をなす者たちは、その行いが明るみに出されるのを恐れて光を憎み、光の方に来ようとしません。それが、主の言われる「信じない」ということのようです。としますと、その人たちは自分で神の光を避け、その光を憎むという生き方を選び取っていることになります。従って、それは自分で神の光を裁き退けていることになり、神の側からみれば、「既に裁かれている」ことになるのだと思います。私たち人間の心には、自分で自分の救いの道を頑固に排除し閉ざしてしまうという、真に痛ましい危険な自由の可能性も残されています。そのような固い石地の心には、せっかく神の命の種が蒔かれても、根を下ろして実を結ぶことはできません。
⑦ 石地の心ではなく、自分の心を細かく砕き耕すことに心がけ、神の命の種が根を張り実を結び易いような肥沃な畑地の心にするよう努めましょう。聖母は神の御子受肉のお告げを受けた時、「私は主の婢です。お言葉通りにこの身になりますように」とお答えになりましたが、私たちも徹底的従順に生きる僕・婢の精神で、自分の怠りや欠点などを容赦なく明るみに出す神の光や働きなどを恐れずに受け入れ、それに従うよう努めましょう。それが心を浄化して、主キリストと深く一致する栄光へと高め導く救いの道なのですから。
⑧ 私たちは数年前から、三ヶ月に1回、浜松市から豊橋市にいたるまでの地元住民のためにミサ聖祭を献げて、神の豊かな祝福とご保護を特別に願い求めていますが、本日のミサ聖祭はこの目的のためにお献げしたいと思います。ご一緒に心を合わせて祈りましょう。