2009年3月15日日曜日

説教集B年: 2006年3月19日、年四旬節第3主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 20: 1~17.  Ⅱ. コリント前 1: 22~25.
   Ⅲ. マルコ福音 9: 2~10.

① 本日の第一朗読は、モーセを通して旧約の神の民に与えられたいわゆる「十戒」であります。聖書には「十戒」という言葉はありません。しかし、ユダヤ教の教師たちはその神のお言葉を覚え易くするためなのか、十の戒めに分けて教えています。1節から17節までのお言葉のうち、始めの11節は神と人間との関係についてであり、残りの6節が人間相互の関係についてですが、ユダヤ教では始めの11節に読まれる長いお言葉を四つの戒めにまとめ、残りの6節に読まれるお言葉を、そのまま六つの戒めにして教えています。
② しかし、古代教父の聖アウグスティヌスは、3や7などの聖なる数に対するこだわりから、神と人との関係のお言葉を三つにまとめ、残りを七つにして教えました。この区分法を継承したカトリック協会も、例えば「あなたの父母を敬え」を第四戒、「殺してはならない」を第五戒とし、最後の17節にある「隣人の妻を欲してはならない」を第九戒、その他「隣人のものを欲してはならない」を第十戒としていました。しかし、プロテスタントきユダヤ教の区分を導入したために、長年カトリックとプロテスタントとの区分が違っていて、例えばフランスのカトリック作家の本に読まれる「第六戒に反する罪」などを、教外者には一々説明しなければならないという不便がありました。それで公会議後に一部のカトリック者たちは、プロテスタントと同じ区分法で教えるようになり、私もそのように教えていましたが、1992年に教皇庁から公表された カテキズムは、相変わらず伝統的区分法を取っており、日本語の『カトリック教会の教え』もそれに従っています。それで、私たちもそれに従いましょう。
③ 神はこの十戒を授けるに当たり、まず「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と、イスラエルの民を特別に選び、深く愛して奴隷状態から救い出した神であることを思い出させています。神のこの格別な愛と働きとを心に銘記して、これから述べる神の戒めを守るよう求めておられるのです。その第一の戒めは、民を救い出したこの「私」だけを神として信奉し、他のいかなるものをも神として崇めたり、その像を作ったりしていならない、という戒めです。ここでいう「像」は、後年預言者たちの伝えた神のお言葉を参照しますと、目に見える物質的な彫像よりも、むしろ目に見えない心の像、例えば富・自分の名誉・地位・権力等々を指していると思われます。この世のそんな過ぎ去る事物や手段・栄誉などを最高のものとして崇め尊び、それに仕えよう、そのために自分の人生を捧げようとするなら、あなたを選び、特別に深く愛している、あなたの主である神に背を向け、神を無視する罪を犯すことになるのです。神は「私は熱情の神」、すなわち妬みの神であるともおっしゃって、神との愛の契約や、神への感謝と愛を忘れる裏切りの罪を厳しく戒めています。人間を遥かに超越しておられる神が人間に対して、「私」と「あなた」という、心と心の特別な愛の関係に立って話しておられることも、注目に値します。
④ 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第二戒は、自分のこの世の目的のために神をも利用しようとする、自分中心の心を厳しく戒めていると思います。また「安息日を心に留め、これを聖とせよ」という第三戒は、七日ごとという生命のリズムを生活のリズムとし、その内の一日を、神に心を向けて神に捧げる、感謝と安息の日とすることを命じているのだと思います。察するに、その日は主である神も、愛する民と共にくつろいで過ごすことを望んでおられる神の安息日で、いわば私たち人の子らとの一種の「デートの日」と言ってもよいのではないでしょうか。このような有り難い神の愛の聖心に応えるよう、私たちもその日には、なるべく自分の仕事を後回しにし、神と共に過ごすよう心がけましょう。
⑤ この第三戒までは神と民との愛の関係についての戒めですが、それに続く七つの戒めはごく簡潔に表現されているために、社会道徳の禁令を並べてあるだけ、という印象を与えるかも知れません。しかし、温かい親心で見守っておられる神よりの戒めであることを考えると、単に社会生活を乱す行為を禁ずる道徳律とは違って、何よりも私たちの心が神の愛に成長するのを妨げる言行や欲情を禁じている戒めなのではないでしょうか。例えば「あなたの父母を敬え」という戒めにある「敬う」という動詞は、ヘブライ語ではその語源を考え合わせると、栄光を見るという意味合いの動詞だと聞いたことがあります。もしそうであるなら、父母の背後に神の栄光と臨在を感知しようとする心がけや、神に仕える心で父母を大切にする心がけなどを命じているのではないでしょうか。また第九戒と第十戒は、普通の社会道徳では取り上げていない、心の中の隠れている欲情までも禁じています。神が、私たちの心の愛の成長と清さとを第一にしておられるからだと思います。私たちも、こういう心の愛の観点から、神の十戒を受け止め守るように努めましょう。
⑥ 本日の第二朗読には、「ユダヤ人はしるしを求める」とありますが、なぜしるしを求めるのでしょうか。何事も自分中心に理知的に考え、利用しようとしている自我を捨てきれず、我なしの神の大らかな愛に全く身を委ね、神の僕・婢として、神の奉仕愛に生かされて生きようとしないからだと思います。自力で智恵を探していると言われているギリシャ人たちも、自分中心の理知的自我の立場に立つ限りでは、人間に神による救いの恵みをもたらすため十字架の死を甘受なされたキリストの生き方や、献身的な心の愛を理解できず、数多くの誤解や不安や矛盾が渦巻くこの現し世の深い霧の中に、いつまでも留まり続けると思います。自我が造ったそのような殻の中に閉じ込められている私たちの奥底の心を目覚めさせるため、神は時として大きな失敗・病苦・災害などを遣わされますが、その時はすぐに、神に心の眼を向け、神の僕・婢として神中心に神のために生きよう、神のお導きに従い神の力に生かされて生きようと努めましょう。すると私たちの奥底の心がしっかりと立ち上がり、自我の築いた殻や壁を打ち破ってのびのびと自由に生き始めます。心の中に神の力、神の賢さが働いて下さるからだと思います。使徒パウロはそのことを自分でも度々体験し、その体験に基づき本日の朗読聖書の中で、私たちにも説いているのではないでしょうか。
⑦ 本日の福音に登場する「神殿の境内」という言葉は、ヘロデ大王が紀元前20年から、ソロモン王が残した広いハーレム (後宮) の廃墟跡を整地し、ギリシャの天才的建築家ニカノールの指導の下に、矩形になって広がっているその跡地の周辺を、四列の大円柱で屋根を支える綺麗な回廊で飾った境内を指しています。その回廊は「ソロモンの回廊」と呼ばれていました。その境内の中心部にはユダヤ人のための拝殿があり、そこにソロモン時代からの神殿も至聖所も、新たに美しく増改築されて建っていましたが、これらの建物外の境内地は「異邦人の庭」と呼ばれていました。この庭に神殿への大きな献金箱が13も置かれており、異邦人たちも献金して祈っていました。大勢の巡礼者や異邦人たちが祈るこの神域の東南隅には、ユダヤ人たちがいけにえとして神殿に捧げる羊や牛や鳩などを売る商人たちがいて、その売り買いで少し騒々しくにぎわっていたと思われます。またローマ皇帝の肖像や銘などが刻まれた異国の通貨は、神殿への献金に使うことが禁じられていましたので、それらの通貨を聖句が刻まれたユダヤ貨幣に両替する商人たちもいました。いずれも多数の巡礼者たちの便宜のため、神殿当局の認可を得てなしている商売であり、献金といけにえからの収益に支えられている神殿礼拝の宗教には、不可避といってよい程の合理的制度ですが、主イエスが縄で鞭のようなものを作り、その商人や動物たちを神殿の境内から追い出されたのは、なぜでしょうか。
⑧ 同じヨハネ福音書によると、この出来事の少し前に、主がカナの婚宴で聖母に「私の時はまだ来ていません」とお答えになりながらも、大量の水を上等のぶどう酒に変える奇跡をなし、新しいメシア時代の幕開けを明示なされたことを考え合わせますと、「私の父の家を商売の家とするな」という主のお言葉は、何よりも神殿礼拝の終末と、新たな形で神を礼拝する時代の到来とを示しているのではないでしょうか。この出来事の少し後にも、主はサマリアの女に、「あなた方が、この山でもエルサレムでもない所で父を礼拝する時が来る」「真の礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する時が来る。今がその時である」と話しておられます。これらのお言葉から察しますと、主はすでに公生活の前半に、人々が神殿でのいけにえによる礼拝時代から、全世界到る所で霊と真理における真の礼拝を天の御父に捧げる時代へと移行する時が来ていることを、世に示そうとしておられたように思われます。
⑨ 本日の福音の後半で、主は商人追放に抗議する神殿当局のユダヤ人たちに、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」と、おそらくご自身の体を指差しながらおっしゃっていますが、ユダヤ人たちが「この神殿は建てるのに46年もかかっているのに、云々」と話していることから察しますと、この出来事は、ヘロデ大王がエルサレム神殿の大増築を紀元前20年に始めてから46年余り後の、紀元27年の過越祭直前頃のことであったと思われます。主がその時に「三日で建て直してみせる」と言われた新しい神殿とは、死後三日で復活なされた主を頭とする、新しい信仰共同体の教会を指していると思います。そこではもう牛も羊もいけにえとされず、ただご自身を天父への永遠のいけにえとなして十字架上で捧げられた主が、この世の時間空間を超越して全世界のミサ聖祭に臨在し、その同じ一つの永遠のいけにえをパンとぶどう酒の形で天の御父にお捧げすることにより、そのミサが挙行される時代の人類に豊かな祝福を与えて下さるのです。同時に、そのミサに参与する私たちの日々の労苦と祈りも喜びも悲しみも、その永遠のいけにえと共に天の御父に捧げられるのです。四旬節に当たり、主が制定なされたこの新しい形の普遍的礼拝について一層深く悟るように心がけ、その礼拝に心を込めて参加するよう努めましょう。