2009年2月15日日曜日

説教集B年: 2006年2月12日、年間第6主日 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 創世記 3: 16~19. Ⅱ. コリント前 10: 31~ 11: 1.
Ⅲ. マルコ福音 1: 40~45.

① 本日の第一朗読は創造神話の一場面で、歴史的出来事を目撃者が描写したものではなく、信仰のセンスを深めた預言者的人物が、神から夢幻のようにして与えられた幻示を、見たままに伝えたものであると思われます。しかしそこには、神が現代の私たちにも伝えようとしておられる、神が望んでおられる本来の人間像と、現実の人生苦の由来や意味などが謎のように隠されており、聖母マリアのようにいつも心に留めて考え合わせつつ、学ぶべきことが多いと思います。創世記1章によると、神は私たち人間が生存するに必要なものすべてを豊かに創造し、程よい状態に生成発展させた後に、最後にご自身に似せて人間を創造し、祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上をはう生き物をすべて支配せよ」と言われたのです。この神話によると、この段階ではまだ人生苦は全くなく、「神はお創りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と述べられています。
② また創世記2章7節によると、神は土 (アダマ) で人 (アダム) を造り、その鼻に命の息を吹き入れられると、人は生きるものとなったとありますが、ここで言われている「土」は、数多くの進化論的発見が注目されている現代では、非常に広い意味で理解すべきものなのではないでしょうか。私は勝手ながら、近年続々と発掘されている数十万年前の骨格などから、現代人に酷似していると思われる高等動物は、たとえチンパンジーなどとは比較できないほど理知的能力や心の感受性などを発達させていても、まだ聖書のいう「神の息を吹き入れられた」人間、神とともに永遠に生きる霊魂を具備した人間ではないと考えています。聖書はそのような二本足で歩く発達した動物をも、「土」と呼んでいるのではないでしょうか。神はある時点で、そのような「土」を素材としてご自身に似せた人間を創造し、これに万物を支配する使命をお与えになったのだと思います。その時点では、全てはまだ神のご計画通りだったのではないでしょうか。しかし、神の似像であるその人間が、神から授けられた愛の霊と超自然の能力をも利用して万物を支配し、万物を神の栄誉を表すものに高めて行くべきだったのに、その最初の時点で神に背を向け、神の愛も超自然の賜物も失ったために、この世は自然界だけの苦しみの世に留まってしまったのではないでしょうか。それが現存するホモサピエンスと言われる人類の歴史上、いつの段階の出来事であったのかは全く知りません。
③ 私がこんな考えを抱くようになったのは、40年ほど前のある体験からでした。当時カトリック教会では古生物学者ティヤール・ド・シャルダンの進化論的神学思想が話題になっていましたが、壮大な宇宙全体の発展過程を一つの魅力的理論で説明しようとしているこの思想と、原罪やキリストによる救いについてのカトリックの伝統的神学との間には大きな隔たりがあるため、教皇パウロ6世が1966年の6月下旬から7月にかけての頃に、当時の一流神学者たち15人にこの問題にについて審議し答申する秘密の委員会を開かせました。委員会はローマの避暑地ネミの丘上にあった神言会修道院で一週間にわたって開催されましたが、参集した神学者の中ではカール・ラーナーやコンガールたちはまだ若手で、年配者も少なくないので、イタリア語しか話さない台所の修道女たちからの要請で、私とフランス語もドイツ語も話すブラジル人ヴァッレ神父の二人が、その神学者たちと同じ食堂で、小さな別テーブルで食事をしながら奉仕することになりました。ある日の食事中にネアンデルタールのことが話題になったことから、その時の話の結論がどうなったのかは知りませんが、私は後でネアンデルタールを、神が自然界の支配者、万物の霊長とするために神の息吹と超自然の賜物を授与した最終的人間が登場する以前の存在、と考えることもできるのではないかと思った次第です。
④ この人間の創造と関連して、神が2度話しておられる「支配する」という動詞 (ヘブライ語で「ラーダー」) は、列王記などでは国王の統治に用いられていますが、搾取や自由勝手な利用などの意味はなく、むしろ管理する、世話するなどの意味に近く、国王は自分の支配する民の繁栄に責任を負うことも意味しています。創世記2章15節によると、神は人をエデンの園に住まわせ、そこを耕し守るようになされたのですから、人間は楽しく遊び暮らすためにではなく、働くため、自然界に仕え、自然界を一層実り豊かな美しいものに発展させるために創られたのだと思います。「耕す」「働く」などの言葉を聞くと、労苦を伴う仕事を想像するかも知れませんが、超自然の賜物に支えられていた時の人間にとっては、それは喜びと楽しみ以外のものではなく、彼らは苦しむことも死ぬこともなく永遠の幸福へと上げられるよう、予定されていたと考えてもよいのではないでしょうか。こう考えると、人間は自然界の動物たちとは違って、根本的に神と共に、(また女性創造の話からも分かるように) 他の人または人間共同体と共に、更に自然界と共に、感謝と奉仕の精神で生きるよう創られたのだと思われます。もし人間が罪を犯さなかったなら、人間はその超自然の能力を自然界に投資しながら、この自然界を神と共に生きるよう栄光化し、死ぬことなくあの世の栄光の永遠界で、神に感謝しつつ永遠に幸福に生きていたことでしょう。
⑤ それが、悪霊の誘惑に負けてはっきりと神の掟に背き、神に背を向けて超自然の恵みを全て失ったので、人祖は本日の第一朗読にあるような宣告を受けたのだと思います。すなわち女は苦しんで子を産むだけではなく、男を求めながらも男に支配される苦しみに耐えなければならないし、男は罪の穢れを受けた自然界が人間の思い通りにならないために、苦労して食物を得なければならず、死んで土に帰る苦しみも忍ばなければならなくなりました。彼らがもし、神の言葉に従って善悪の知識の木の実に警戒し、同じく園の中央に植えられていた命の木の実を愛好して、神からの命の力に養われ強くなろうと心がけていたなら、悪霊の誘いに負けることもなかったであろうになどと思うと、神話ではありますが、残念でなりません。
⑥ ところで、その悪霊は現代に生きる私たちにも、日々あり余るほどの情報や知識を提供しながら、それとなく私たちの心を神から引き離そうとしているのではないでしょうか。その誘惑に自力で、すなわち自分の人間的理性で受け答えをしたり、抵抗したりすることもできますが、ある所まで行くと、それによって自分の心が知らないうちに神の働きから遠ざかって来ているのに気づく時もあると思います。それよりも、そのような巨大な知識の木には少し距離を置いて、まずは命の木の実や祈りによって自分の内的生命や意志力を強化し、日々神の働きにしっかりと結ばれて生活することが大切だと思います。そうすれば、現代の知識や情報が氾濫し渦巻いている中にあっても、それらに流されず煩わされずに、それらを主体的に利用しながら、神のために豊かな実を結ぶことができるでしょう。人祖についての神話から、このような教訓を学びたいと思います。
⑦ 本日の福音に描かれている治癒は、一つの大きな奇跡だと思います。社会から追放されていた当時のハンセン病者は、その病気を他の人に移さないため、村里に近づくことも正常者に話しかけることも厳禁されており、万一道で正常者に出遭ったような場合は、「穢れ者、穢れ者」と言いながらその人から逃げるよう命じられていたのに、察するにハンセン病者たちはその寂しさに耐え切れず、夜には密かに村里に近づき、人々の間で話題になっていた主イエスによる奇跡的癒しのことを耳にしていたのではないでしょうか。とにかく本日の福音に登場するハンセン病者は、大胆に規則に背いてイエスに近づき、ひざまずいて、ギリシャ語原文によると「お望みなら、私を清くすることがおできになります」と、婉曲にお願いしています。規則を忠実に守っているだけでは、いつまでも救われないからだと思います。その大胆な信仰を喜ばれたのか、イエスも規則に背いてその人に触れながら、彼が使った「望む」と「清くする」という二つの動詞だけをそのまま使い、「望む。清くなれ」と言って、直ちにその人の病を癒されました。
⑧ しかし、日本語で「イエスが深く憐れんで」と訳されている箇所について、聖書学者たちは、より信用のおける古い写本にそこが「イエスが怒って」となっているのを重視しています。もしこの写本の方が正しいとしますと、イエスはここで何に対してお怒りになったのでしょうか。察するに、このようなむごたらしい病気で、神から愛されている人間を極度の孤独に追いやり、いじめ苦しめている悪霊に対して、聖なる怒りの眼を向けられたのではないでしょうか。怒りは全て罪である、などと考えないようにしましょう。聖トマス・アクィナスは、聖なる怒りは一つの聖徳であると教えています。罪のない多くの人を無差別に殺傷するテロ行為をなす人々や、現代の対人地雷などを想像を絶するほど大量に搬入したり、ばら撒いたりする人々に対しても、主は聖なる怒りの眼を向けておられると思います。その背後には、悪魔が暗躍しているのでしょうから。
⑨ 本日の福音にはもう一つ、イエスが癒された人に「誰にも言わないように」と、厳しく沈黙をお命じなっていることも、熟考に値します。ハンセン病者がユダヤ社会に復帰するには、祭司に癒された体を見せて、規定の捧げ物をしなければなりませんから、この社会復帰に関与する人たちには話さなければなりませんが、それ以外の人たちには話さないようにと、イエスはなぜ厳しくお命じになったのでしょうか。善意からではあっても、奇跡的癒しの話が積極的に言い広められますと、信仰のない人たちまで単なる好奇心や現世的欲望から、そういう奇跡だけを求めて大勢参集するようになり、メシアの生活や宣教活動を妨害したり、敵対勢力の結束やメシアの受難死を早めたりして、生まれ出ようとしている新約時代の神の民にも大きな被害を及ぼし兼ねないからではないでしょうか。
⑩ 私たちも、神から何か特別な恵みを受けたりしたら、必要でない限り、そのことを関係のない人々にはなるべく言い広めないよう心がけましょう。聖母マリアのように、自分に与えられた神からの恵みを沈黙のうちに静かに思い巡らし、すべての出来事や体験を考え合わせるように努めましょう。そうすれば、私たちの心は神の働きのうちに一層深く根を張り、豊かな実を結ぶに到ると思います。