2009年1月4日日曜日

説教集B年: 2006年1月8日、主の公現 (三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6.
 Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① イザヤ書の56章から最後の66章までは、エルサレムに帰国した民に向かって語った第三イザヤの預言とされていますが、第二イザヤの預言に励まされ、大きな夢と希望を抱いてバビロンから帰国した神の民は、エルサレムの荒廃のひどさに極度の落胆を覚えたと思われます。それに対して第三イザヤは、本日の第一朗読に読まれるように、「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」と、今は荒廃しているその地に神の民を照らす主の栄光が輝き出ると、多くの国民がエルサレム目指してやって来るようになるという、遠い将来を予見した預言を語り、神の民を励ましています。
② この預言は、2千年前のアウグストゥス皇帝の時代にシルクロード貿易が盛んになると実現しており、ある意味では現代にも現実となっている、と言うことができましょう。預言の言葉は、東方の博士たちの来訪のことだけを念頭に置いて大げさに表現したものではなく、キリスト時代のエルサレムとその神殿の繁栄ぶりを、予告したものではないかと思います。当時は遠いアジア諸国とオリエント諸国との間にらくだの隊商が往復しており、それらの国際的貿易商たちは、ギリシャの天才的建築師ニカノールによって見事に増改築されたエルサレム神殿にも、大勢拝みに来ていたのですから。本日の第一朗読の後で歌われた答唱詩篇には、「タルシスと島々の王は贈り物を、シバとセバの王はみつぎを納める」という、詩篇72番から引用された句がありますが、これはソロモン王の時代のエルサレムの繁栄ぶりを讃えた言葉で、タルシスはその頃フェニキア人の商船がツロの港から往来しいた一番遠い国、今のスペインの南端辺りの国を指しており、シバは「シバの女王」が支配していたアラビア半島南西部の国を指しています。そしてセバは、そのシバの西南、紅海の海峡を挟んで西側にあった国と聞いています。いずれもソロモンの時代に国際貿易によって豊かになっていた国ですが、キリスト時代には、海路によって結ばれていた地中海沿岸諸国の富だけではなく、陸路によって結ばれたインドや西アジア諸国の富までも、国際貿易商を介して流入したのですから、エルサレムとその神殿の繁栄ぶりは見事なものであったと思われます。
③ 本日の第二朗読の中で「秘められた計画」と言われているのは、キリストの受肉・受難死・復活によって成し遂げられた救いの御業全体を指していると思いますが、中でも使徒パウロが書いているように、「異邦人が福音によりキリスト・イエスにおいて、(神から) 約束されたものを私たちと一緒に受け継ぐ者、同じ体に属する者、同じ約束にあずかる者となること」は、それまでの神の民にとっては誰一人想像することもできないほど、驚天動地の驚きと新しさを感じさせる神の御業だったと思われます。神はその救いの御業を、今や聖霊によって使徒たちや預言者たちに啓示し悟らせつつ、実際に全人類の上に広め定着させつつあるのです。現代の私たちも、民族や文化の違いを超えて、すなわちある意味では自分の民族や文化の限界から抜け出て、太祖アブラハムをはじめ多くの預言者たちを介してなされた神からの約束を素直に受け継ぎ、キリストの一つの体、一つの命に参与する細胞となるよう心がけましょう。各人の受け継いでいる相異なる諸民族の血液や諸文化の伝統は、この一つの共同の命の中で互いに一層親密に出会うようになり、切磋琢磨しながら神によって磨かれ、無数の美しい花を咲かせ、神を讃美するようになるのではないでしょうか。
④ 本日の福音の始めには「ヘロデ王の時代に」とありますが、それは大規模な国際的経済発展の中で、それまでの時代の社会的伝統や仕来たりなどが時代遅れの束縛と見做されて、守られなくなっていた一つの大きな過渡期を指しています。ですから、伝統的社会秩序がよく保たれていた通常の平穏な時代でしたら、とてもユダヤ人の王などには成れないイドゥマイヤ人のヘロデが、巧みにローマの権力者たちに取り入って、ローマ軍に征服されたユダヤの国王になったばかりでなく、数々の新しい経済政策によって大いに儲け、エルサレム神殿を美しく増改築したり、各地に大きな施設や宮殿などを建築したりして、ユダヤ人たちからも「大王」と呼ばれたほど、大きな繁栄をユダヤ社会にもたらすことができたのです。
⑤ 私たちの生きている現代世界も、ある意味ではよく似た過渡期の繁栄を謳歌しているのではないでしょうか。科学文明の極度の発達で生活が便利で豊かになったのは結構ですが、能力主義・個人主義の普及でそれまでの各種共同体の連帯精神も統制力も崩壊しつつあるのに、人類が新しい事態に見合った強力な統合精神を生み出せずにいるため、ただ外的に一つの巨大なマンモス家族、グローバル世界になりつつあるだけで、その陰には無数の貧困に苦しむ人たちも産み出されつつあり、家庭も国家も統制力を大きく失って、人間は皆砂漠の砂粒のようにバラバラになって来ているようにも見えます。多くの若者たちは、日々人間たちの造り出す仮想の現実を真の現実と思いこみ、浮き草のようにその流れに疲れた身を委ね勝ちですが、テレビ・ラジオ・新聞などを介して伝えられる情報は皆、今目立っている現実の一面を示しているだけで、多面的な現実そのものではありません。ですから、ちょうど天気予報と異なる気象異変がしばしば発生するように、いつその情報と異なる事態が発生するか分からないという不安を、いつもその中に秘めています。このことを心に銘記し、磐のような神の存在にしっかりと根ざした信仰の内に、主体的に生きるよう努めましょう。砂粒のようにバラバラになっている人々の心にマスコミが日々提供する大量の新しい水が浸透すると、場合によっては長年安定していた人と人との結びつきも流動化し、そこに群発地震のようなものが発生すると、その上に建つ組織はひび割れや倒壊の危険にさらされると思います。このような時代における世渡りには、神との心の結束が何よりも大切ではないでしょうか。
⑥ 本日の福音の中心をなしているのは、ヘロデ王でも東方の博士たちでもなく、この世に来臨した神の子メシアです。このメシアの来臨が、ヘロデ王のようなこの世の富や権力の獲得保持を第一にして生きている人間には、心に深刻な不安を与えるのであり、その支配下にあって何とか旨い汁を吸いながら生きていたユダヤ教の指導者たちは、ヘロデ王の怒りや嫌疑を買うことのないようにと、生まれたばかりのメシアには無関心を装います。しかし、そういうこの世の流れからは自由になって、ひたすら人類の救い主を待望し、メシア中心に生きようとしていた人たちは、東方の博士たちのように、あるいはマリアとヨゼフ、ベトレヘムの羊飼いたちや老シメオンたちのように、幼子のメシアに会って心が大きな喜びに満たされ、恵みから恵みへと導かれ高められて行きます。しかし、この生き方にも不安がないわけではありません。ヘロデ王のような人間は、自分の利害のためには東方の博士たちのような善人をも巧みに利用しようとしたり、あるいは罪のない幼子たちを残酷に殺害することも厭わないからです。でも、神の導きを祈り求めつつその導きに従おうと努めているなら、神はヘロデ王やユダヤ教指導者のような人たちをも使って、神による救いの御業が実現する方へと導いてくださいます。場合によっては、博士たちや聖家族たちが体験したように、夢で知らせを与えて様々な危険から救い出してくださいます。
⑦ 本日の福音に登場しているヘロデ王、ユダヤ教指導者たち、東方の博士たちの三種類の人々のうち、私たちはどのグループに属しているでしょうか。もし第三の博士たちのグループに属しているなら、騒々しい現代世界の中でも人々の心に語りかけて止まない神の神秘な導きを鋭敏に受け止め、それに聞き従うことができるよう、日々信仰と愛のセンスを磨いていましょう。多くの聖人たちの実例から明らかなように、神は信仰のセンスを磨いている人の心には確かに呼びかけ、その人を導いてくださいますから。