2008年12月21日日曜日

説教集B年: 2005年12月18日、年待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書:Ⅰ.サムエル下 7: 1~5, 8b~12, 14a, 16. Ⅱ. ローマ 16: 25~27.
Ⅲ. ルカ福音 1: 26~38.

① 本日の第一朗読は、神の助けにより周辺の敵をすべて退けて、平安のうちに王宮に住むようになったダビデ王が、神の臨在する契約の箱が昔ながらの素朴な天幕の中に置かれたままなのを心配し、預言者ナタンに相談した話から始まっています。自分の住む王宮よりも立派な神殿を建立すべきではないのか、と考えたようです。ナタンも同様に考えたのか、王に「心にあることは何でも実行なさるとよいでしょう。主はあなたと共におられます」と答えました。するとその夜、ナタンに臨んだ神の言葉が、本日の朗読の後半部分です。神はそこでダビデを「私の僕」と呼び、ダビデとその子孫、ならびにその王国のため、遠大な祝福の約束を披露なさいました。ダビデが死んでもその身から出る「子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。私は彼の父となり、彼は私の子となる」というお言葉は、将来ダビデの家系から世に出ることになるメシアのことを予告していると思います。
② 本日の第一朗読に続く箇所を読んでみますと、ナタンはこれらのお言葉をすべてそのままダビデ王に告げましたが、それを聞いた王は神の御前に進み出て、幾度も神を「主なる神よ」と呼び、自分自身を「僕」と称しながら、長い感謝の祈りを捧げています。そこではもう、神のために神殿を建立しましょうなどという、人間が主導権をとって神のために何かをなそうとするような言葉はなく、ひたすら神の御計画に感謝し、神の御旨に従って従順に生きようとする僕の心だけが輝き出ています。「ダビデはこの上、何を申し上げることができましょう。主なる神よ、あなたは僕を認めてくださいました。御言葉のゆえに、御心のままに、このように大きな御業をことごとく行い、僕に知らせてくださいました。主なる神よ、」「御言葉のとおりになさってください」など、このダビデの祈りに読まれる言葉に接していますと、神を「主」と崇め、自分をその「僕」あるいは「婢」として、万事において主の御旨を尋ね求めつつ、ひたすら主に従って生活しようとするのが、神に最も喜ばれる信仰の生き方であるように思われてきます。聖母マリアも救い主も皆、この生き方の秘訣を心得て、その模範を身を持って世に示しておられます。
③ ついでながら申しますと、西洋的キリスト教はそのままでは日本の人々に適合していないという理由で、日本の精神的風土や文化的特徴などを細かく研究し、現実のキリスト教をもっとその風土や特徴に適合したものに変えることができないものかと、さまざまの理論的試案を出している人たちがいますが、現実のキリスト教の形態がかなり西洋化していることと、それが日本人の精神的文化的傾向と大きく違っていることとは認めますが、しかし、人間が主導権を取って日本的キリスト教の形態を産み出そうとする試みには、私は賛成し兼ねます。まず、今ある現実のキリスト教の中で主キリストと徹底的に一致しようと努め、聖霊の導きに対する心のセンスを磨くことに努めましょう。そうすれば、聖霊が私たち日本人の心の中で働いてくださり、ごく自然に日本的な信仰生活・信心思想がそこから形成されるようになります。そういう日本人の数が増えるなら、それに応じて現実のキリスト教の形態も次第に日本人の精神的文化的特徴に適合したものになって行き、しかもそれは、他国の精神的文化的特徴ともバランスよく共存して、人類全体・神の民全体の一致共存にも大きく貢献するようなものになると信じます。これが、「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ 17: 21)と祈られた、主の聖心に適う信仰生活であると思いますが、いかがでしょうか。
④ 本日の第二朗読の中で使徒パウロは、「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。その計画は今や」「信仰による従順に導くため、すべての異邦人に知られるようになりました」と書いていますが、「信仰による従順に導くため」という言葉に注目したいと思います。それは人間たちには知り得ない、神の内に深く隠されている御計画を、神がその僕・婢となって生きようとしている人たちに次々と逐一啓示しながら、今や全人類を救いに導きつつあることを指しており、救いに招かれている人たちには、神よりの恵みを自主的に利用しながら生きようとする生き方を脱皮し、むしろ神の僕・婢となって信仰による従順に生きるよう導いていることを意味していると思います。
⑤ パウロはその書簡の挨拶文を通常祈りの形で書いており、また度々送り先の信徒団のために祈っていることを伝えていますが、テサロニケ第一書簡の末尾には、珍しく「兄弟の皆さん、私たちのためにも祈ってください」と願っています。信仰に生きている人たちに祈ってもらう必要性を痛感していた時に書いた書簡だったのかも知れませんが、しかし、神の僕・婢として生きている人たちは、口には出さなくても、自分の人間的弱さを痛感させられて不安になり、自分でも一心に祈りますが、同時に他の人たちにも祈りを願いたい気持ちになることが少なくないのではないでしょうか。ゲッセマネで弟子たちに祈るようお命じになった時の主の御心境も、同様だったかも知れません。すべてを自分で計画し、自分にできる範囲で神のために働こうとしている人は、予想外の事態にでも直面しないかぎり、不安を痛感するようなことは少ないでしょうが、神の僕・婢として生きようとしている人は、自分でまだ全容を知らない神の御計画に従って生きよう、働こうとしているのですし、悪魔の攻撃に悩まされることもあるようですから、多くの不安や自分の心の弱さと戦いながら、ひたすら神の御力に頼って生き抜くことを、覚悟していなければならないように思います。しかし、神は多くの人の救いのために、そのような器の人、信仰の不安の中に逞しく生きる人を切に求めておられるのではないでしょうか。そういう人の中でこそ、神は豊かな実を結ばせることがおできになるのでしょうから。
⑥ 本日の福音に登場するヨゼフの婚約者マリアは、察するに全く一人で自分の部屋で祈っていた時に、突然どこからともなく入って来た男の姿の天使から挨拶され、非常に驚いたと思います。しかし、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活することを身につけておられたのか、マリアは驚くほど冷静に対応しておられます。本日ここで朗読された邦訳聖書では、「どうしてそのようなことがあり得ましょうか。私は男の人を知りませんのに」と天使に答えていますが、この言い方では、天使を介して伝えられた神の子出産という素晴らしい神の御計画に対して少し距離を置き、神の御計画に多少の戸惑いを感じているような印象を与えます。英訳も同様の印象を与えますが、そのせいか、私が神学生時代に読んだある著書の中でアメリカの神学者フルトン・シーン神父は、マリアのこの質問から、マリアは終生処女として生きようと決心していたのではないかと推察していました。しかし、ギリシャ語原文では「どのようにしてそうなるのでしょうか。私は男を知りません」となっていて、これは神の子を産む精子をどこから受けるのでしょうか、と質問した意味になっています。これが正しい訳ではないでしょうか。天使はその質問に答えて、「聖霊があなたの上に来て、いと高き方の力があなたをおおうでしょう」と説明していますから。
⑦ 全く思いもよらない大きな神秘を啓示されて、マリアの心はすぐにはその全体像を理解できなかっでしょうが、しかし理解できなくても、それが神の御計画、神の御旨と確信したので、すぐに「私は主の婢です。お言葉どおり、この身に成りますように」と承諾したのだと思います。日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けて生活しておられたから、冷静にまたごく自然に、この承諾の言葉を話すことができたのではないでしょうか。私たちも、ファリサイ派の人たちのように自力で神のために何かを成そうとするのではなく、聖母マリアの模範に倣って、日ごろ何事にも神の導き、神の働きに心の眼を向けながら生活するよう心がけましょう。この実践に努めていますと、神の霊の導きに対する心のセンスも次第に磨かれてきます。その恵みを願いながら、本日のミサ聖祭を献げましょう。