2008年3月2日日曜日

説教集A年: 2005年3月6日:2005年四旬節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. サムエル上 16: 1b, 6~7, 10~13a. Ⅱ. エフェソ 5: 8~14. Ⅲ. ヨハネ福音 9: 1~41.

① 本日の第一朗読には、神の命令によりサムエル預言者がダビデを神の民の王とするために注油したら、主の霊が激しく彼の上に降ったと述べられていますが、ユダヤ人の古い伝えによると、このダビデは父エッサイの不義の子、いわば私生児だったようです。ラビ・アハは次のように述べています。「聖人君子でも悪の誘い、性欲に振り回されることがある。たとえばエッサイは義人として尊敬されていたが、彼の不義の子として生まれたのが、後に名君となったダビデ王である。だからダビデは詩篇51に『母は私を罪の内に身ごもった』と述べ、詩篇27には『父母は私を見捨てた。しかし、あなた(神)は私を拾ってくれた』と言っている」と。この第二の引用は、私たちの唱えている詩篇では、「父母に見放されても、あなたは私を迎えて下さる」という日本語訳になっていますが、とにかくダビデは子供の頃、父エッサイには相応しくない女の産んだ子として、兄弟たちの中でも少し差別扱いを受けていたようです。それが、本日の第一朗読にも反映しています。子供たちを全部集めるようにと預言者から願われても、ダビデだけは除け者とされていたようですから。

② しかし、何よりも弱い者・小さい者の味方であられる神は、正にその除け者とされている人、この世の社会の価値観では存在価値がないとされている人の祈りを顧み、その人を介して多くの苦しんでいる人たちに豊かな救いの恵みを与えようとなさる神なのです。出エジプト記20章に記されているいわゆる神の十戒は、自由主義的文化圏では、とかく神に対する個人的倫理の立場から解説され勝ちですが、神がその冒頭に、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と話しておられる言葉と関連させて読み直しますと、それは強い者勝ちのこの世の価値観に抑圧され、苦しんで来た者たちが互いに兄弟姉妹として助け合い、自由に愛し合って生きる社会を創り上げるための原則であり、古代の支配者たちが自分たちの支配権を正当化し保護する神々を次々と造り出して崇めさせ、国民の正義感や価値観を自分たちに有利になるよう牛耳っていたその集団的利己主義を、一神教は神の名によって全て排除し、愛の神中心の新しい正義感や価値観の内に、新しい大きな家族共同体を産み出すための宗教だったようです。

③ そこでは、この世の氏・育ち・家柄・能力などは重視されず、ただ神と人の愛に生きることだけが重んじられるのです。ダビデは王になっても、神の僕としてこの愛に忠実に生きようとしていました。しかし、その後で王位についた人々の中には、神の愛に生きようとはせず、古代の支配者たちのような価値観で弱い者・小さな者たちを抑圧する人たちが少なくありませんでした。それで神は、次々と預言者たちを神の民に送り込んで、初心に立ち帰るよう強い言葉で促し続けられたのです。この世の社会で苦しんでいる弱い者・小さい者たちを、抑圧から解放しようとなさる神の愛の御旨と働きは、新約時代に入っても変わりません。主は山上の説教の中で「私は律法と預言者を廃止するためにではなく、完成するために来た」と話されましたが、律法も預言者も皆、この世の支配者たちや強い者勝ちのこの世的価値観の下に抑圧され搾取されている人々を、その奴隷状態から解放し、全ての人が神の子らとして神の愛の内に、互いに自由に助け合って平等に仕合わせに生きるようにするもの、そして神の民の美しい社会を築くものであったことを、心に銘記していましょう。私たちの信仰生活は、主キリストにおいてその伝統を受け継ぐものなのですから。また豊かさと便利さの溢れる現代の資本主義社会においても、その陰にはまだ非常に多くの人が貧困ゆえに自由を奪われ、昔の奴隷たちのように働いているのですから。

④ 本日の第二朗読には、「あなた方は以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。光の子として歩みなさい」とありますが、ここで言われている光は、この世の物質的な光ではありません。現代の都会では、部屋の中を夜昼人工的な電気の光で明るく照らし、屋外の夜の道路も明るく照らし出して、外的闇を全く無くしていますが、そういう明るさ一辺倒の中で生活していますと、次第に光明の美しさも有り難さも分からなくなり、昔の人たちのように夜空に輝く天の川や、無数の星々の壮大な美しさを味わうこともできなくなってしまいます。それは言わば、夜も人工的光で明るくされているビニール・ハウスの中で生きている家畜や植物のように、不自然な生き方を続けていることであり、次第に人間本来の心の能力を鈍化させたり、ばい菌に対する体の抵抗力を退化させたりして行くのではないでしょうか。そして知らない内に、心に神秘な内的闇が蓄積され広がって来るのではないでしょうか。神がお創りになった大自然の闇を厭わず、その闇の背後でも呼びかけておられる神の現存を信じてこそ、月や星の美しさに感動したり、太陽の光の美しさに喜びを覚えたりするようになると思います。これが、主に結ばれて主と共に、「光の子として歩む」生き方だと思います。

⑤ 本日の福音は、昔から洗礼志願者を闇から光へ導き入れる時に朗読されて来た福音で、聖アウグスティヌスは、シロアムの水で目を洗った盲人を洗礼志願者になぞらえた説教を残しています。シロアムは、「遣わされた者」(すなわちメシア)という意味の言葉です。主は唾で土をこねてその盲人の目に塗ったとありますが、人間の唾には殺菌力がありますし、昔のユダヤ人の所では眼病を癒す力があると信じられていたそうです。私たちの受けた洗礼は、もう過去のものとなってしまったのではなく、その洗礼の水は「生ける水」すなわち泉となって、今も私たちの魂の奥に働いています。そのメシアの泉で心の眼を洗い、光と闇の力とを正しく見分ける視力を回復させながら、救い主メシアにあくまでも忠実に従うよう努めましょう。

⑥ 本日の福音であるヨハネ9章25節から31節には、「知る」という動詞が6回も使われています。盲目を癒された人の言葉に4回、ファリサイ派の言葉に2回です。聖書についての理知的な頭の知識を豊かに持っていたファリサイ派は、自分の頭の中にあるその知識を中心にして、全てを判断し裁こうとします。「我々は神がモーセに語られたことを知っている。しかし、その人がどこから来たかは知らない」と、安息日に主が神の力によってなされた奇跡的治癒を頭から無視し、安息日に癒す人を罪人として排斥する厳しい態度で話しています。主がなされた奇跡的な神の業から、新しく謙虚に学ぼうとはしていません。それに対して目を癒された人は、神の力でしかなし得ない奇跡的治癒の体験に基づいて猛然と反発します。それで、遂に神殿の境内から追い出されてしまいました。しかし、彼が追放されたことをお聞きになった主が、再び彼の所に来て下さり、彼に神よりの人メシアを信ずる恵みを与えて下さいました。

⑦ 間もなく復活祭に受洗する今年の洗礼志願者たちも、主を信奉していない世の人々の考えに迷わされることなく、神よりの導きと救いの恵みとを正しく見分け、隠れて現存しておられる主と内的に出会って、恵みから恵みへと逞しく進むことができるよう、このミサ聖祭の中で主の助けと導きとを祈り求めましょう。同時に私たち自身も、自分の頭の知識に固執することなく、世の終わりまで人類社会の中に現存して、絶えず働いておられる主からの突然の示しや導きにも、神の僕・婢としてすぐに柔軟に従って行く決心を新たに致しましょう。