2008年3月30日日曜日

説教集A年: 2005年4月3日:2005年復活節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 42~47. Ⅱ. ペトロ前 1: 3~9. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~31.

① 主の復活後に生まれ、多くの入信者を獲得しつつあった一番最初の教会について述べている本日の第一朗読には、「すべての人に恐れが生じた」という注目に値する言葉が読まれます。初期のキリスト教入信者たちは、単に新しい運動に対する憧れや人間的な助け合い精神などに引かれて集まって来たのではなく、同時に何か共同の大きな恐れの念をもって互いに寄り添い、助け合っていたのではないでしょうか。いったい何を恐れていたのでしょうか。主は世の終わりについての預言の最後に、「あなた方によく言っておく。これらの事が全て起こるまでは、今の時代は過ぎ去らない。天地は過ぎ去るが、私の言葉は過ぎ去ることがない」(ルカ21:22~23)とおっしゃったことが、マタイ、マルコ、ルカのどの福音書にも書かれていますが、このお言葉とその他幾つかの主のお言葉から、メシアが再臨なさる終末の時は近いのだという緊迫感が、初期のキリスト者たちの間に強かったと、聖書学者たちは考えています。

② 本日の第一朗読に、「信者たちは皆一つになって、全ての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて皆それを分け合った」だの、「毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」などとあるのも、間もなく終末の大災害がノアの洪水の時のように突然に訪れて、罪に穢れたこの世の富も権力もすべて崩壊させる時が来るのだ、ただ信仰に生きる人たちだけが救われるのだという、緊迫した恐れの雰囲気が皆の心を捉えていたからではないでしょうか。旧約聖書には「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7, 9:10) だの、「主を畏れることは宝である」(イザヤ33:6)など、神に対する畏れの大切さを説く言葉が少なくありませんが、各人が緊迫した畏れの心を一つにして真剣に祈る共同的祈りのある所に、神の霊も生き生きと働き、使徒たちによって多くの不思議な業と徴が行われていたのではないでしょうか。

③ 私たちの信仰生活にそのような不思議がほとんど伴っていないのは、まだ緊迫した畏れの心を一つにして真剣に祈っていないからではないでしょうか。豊かさと便利さが溢れる程にある今の生活事情の中で、私たちの奥底の心はまだ半分眠っているのかも知れません。しかし、強いて人為的に神への畏れの心を煽り立てないよう気をつけましょう。いずれ時が来れば神の霊が働いて下さり、信仰に忠実な人々の心が不穏な事態の切迫を鋭敏に感知し、互いに心を一つにして祈り始める時が来ると思います。その時、神の導きに従って適切に行動できるよう、初代教会の模範を心に銘記しながら、いつも神と共に生きる生き方を今からしっかりと身に付け、危機の到来に備えていましょう。

④ ミサ中の朗読聖書は三年の周期で、朗読箇所がA・B・Cといろいろに変化していますが、今年はA年で復活節主日の第二朗読はペトロの第一書簡から朗読され、来年のB年にはヨハネの第一書簡から、再来年のC年には黙示録から朗読されることになっています。教会史学者たちの見解によると、本日の第二朗読であるペトロの第一書簡は、ローマでキリスト者を火刑にするなどの残酷な迫害を始めたネロ皇帝のギリシャ歴訪が公になった段階で、ギリシャ、小アジア地方の教会に宛てて書かれた書簡とされています。ペトロはキリスト者人口の多いギリシャでも迫害が始まるかも知れないと恐れて、この書簡を書き送ったのだと思われます。従ってその書簡には、ローマでの迫害を連想させる表現が幾つか読まれますが、これについてはいつかまた別の機会の説教で説明致しましょう。

⑤ 本日の朗読箇所にも、「あなた方の信仰は、その試練によって本物とされ、火で精錬されながらも、云々」と、ネロが迫害に使った「火」という言葉が登場しています。ペトロは火のように容赦しないネロの迫害を終末が近い徴と考えたようで、この書簡の4章には「万物の終わりが近づいています。心を確かにし、身を慎んでよく祈りなさい。云々」と勧めていますし、本日の朗読箇所にも、「あなた方は終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により信仰によって守られています」という言葉が読まれます。ペトロとパウロの殉教後、68年6月に、ガリヤにいた正規軍の叛乱に呼応してローマにいた近衛兵たちも叛旗を翻したため、ネロは自殺し、迫害はすぐに終わって世の終わりにはなりませんでしたが、しかし、初期のキリスト者たちが主キリストの再臨する終末の時、大災害到来の時は近いと信じつつ、大きな恐れの内に過ぎ去る事物に対する執着を断ち切り、ひたすら神の方に眼を向けながら、一つ心になって祈ったその熱心は、高い評価に値すると思います。神もその祈りに応えて、数々の奇跡や徴をお示しになったようです。

⑥ 現代の私たちは、その熱心を失っているのではないでしょうか。頭では世の終わりが来ることを信じ、近い将来に東南海大地震が発生すると予告されていることも知ってはいますが、心の眼を神の方に向けて熱心に祈り信頼心を深めるよりも、この世の社会や他の人々の動きの方にだけ目を向けて、その時になれば皆諸共だなどと、ノアの時代に滅んで行った神信仰に不熱心な人々のように考えたり、生活したりしているのではないでしょうか。恐怖を煽り立てることは慎まなければなりませんが、しかし、神に対する信頼と復活信仰の熱心を新たにしながら、終末の時のためにこれまでの生き方に死に、ひたすら神中心に生きるよう心を整え、準備していましょう。この観点から読み直す時、ペトロの第一書簡は私たちの信仰生活に多くの示唆を与えており、それは古来、洗礼式の説教にも引用されることの多かった書簡でもあります。キリスト教信仰生活は、自分中心の古い命に死んで主キリストの新しい命に生かされることを特徴としていますが、その恵みは特に洗礼の秘跡によって豊かに与えられるからだと思います。

⑦ 本日の福音は、23節までの前半と、それ以降の後半部分に読まれる二つの出来事から構成されていますが、この両者は三つの点で共通しています。どちらも「週の初めの日」すなわち日曜日の出来事で、復活なされた主は戸に鍵をかけて閉めてあるのに、そこを通り抜けて弟子たちのいる部屋の真ん中にお立ちになります。そして「あなた方にシャローム(平和) があるように」という言葉で挨拶しておられます。主はなぜ、ユダヤ人たちが伝統的に最も大切にしていた週末の安息日にではなく、「週の初めの日」すなわち日曜日に復活なされ、弟子たちにもいつも日曜日に出現なされたり、彼らに聖霊を日曜日に注いだりなされたのでしょうか。察するに、神によって新しく生まれた神の民が日曜日を最も大切な日とするように、しかし、ユダヤ人たちのように戸を閉めて家の中にいることの多い安息日としてよりは、むしろその日を主の復活を記念し感謝する日として特別に大切にし、その恵みを世の人々にも積極的に宣べ伝える日とさせるためなのではないでしょうか。そうだとすると、日曜日には積極的に自分の小さな殻から抜け出て、神と人々への無償奉仕のために祈ること、何かの善業に努めることが大切だと思います。

⑧ 戸を通り抜けて弟子たちの前に出現なされた主は、もはや死ぬことのないあの世の霊的体に復活さなれたことを示しています。何事もこの世での自分の経験に基づいて考え勝ちな人間理性にとっては、夢のような現実ですが、主は「見なくとも信じる人は幸い」と言明なさいます。そのお言葉に従って、頭で理解できなくても、心の意志で信じましょう。そしてその信仰を神に、自分の態度や言葉で表明するように心がけましょう。すると不思議な程、神が私たちのその実践的信仰に応えて働いて下さるのを体験するようになります。そして主が実際に復活なされたことを確信するようになります。本日の福音の最後に、使徒ヨハネは「あなた方が、イエスは神の子であると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである」と書いていますが、私たちを主の復活の命とその喜びに参与させるものは、そのような心の信仰実践であって、理知的な頭の信仰に留まっていては絶対に足りないということを、忘れないように致しましょう。