2008年3月9日日曜日

説教集A年: 2005年3月13日:2005年四旬節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. エゼキエル 37: 12~14. Ⅱ. ローマ 8: 8~11. Ⅲ. ヨハネ福音 11: 1~45.
① 皆様、温かい陽の光が天地に満ちて生物の命を目覚めさせ成長させて、それぞれの花を咲かせる美しい春の季節になりました。私は、私たちの修道院が建っているこの三ケ日町の風景は神様からの一つの大きなお恵みだと思って、常々神に感謝を捧げています。そして春には、正岡子規の「故郷やどちらを見ても山笑う」の句を少しもじって、「三ケ日やどちらを見ても山笑う」などと口ずさみながら、明るく微笑みつつ散歩したりもしています。春は、生き物である私たちの心も、耐え忍ぶことの多かった長い冬の眠りから新たに目覚めて、意欲的に働き出す時、そして希望と喜びの温かい光を放ちながら輝く時ではないでしょうか。私たちも、神の恵みに対する感謝を新たにし、喜びをもって生活するよう心がけましょう。

② 本日の第一朗読には、「私がお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる」という言葉が、また第二朗読には、「神の霊があなた方の内に宿っている限り、あなた方は肉ではなく、霊の支配下にいます」、「キリストを死者の中から復活させた方は、あなた方の内に宿っているその霊によって、あなた方の死ぬ筈の体をも生かして下さるでしょう」という言葉が読まれます。ここで言われている「霊」は、神の霊、すなわち聖霊を意味しており、「肉」という言葉は、目に見えるこの世の過ぎ行く事物に囚われ、それらを自分中心に保持し利用しよう、そしてこの世で幸せになろうと努めている精神を指していると思います。神は、これまでこういう自力主義の肉の精神に操られ、この世の事物にだけ目を注ぐ肉の支配下に生活し勝ちであった私たちの中に、ご自身の清い愛の霊を吹き込んで、神の霊・神の力によって生かされ、導かれる存在、広い心で神と人を愛し、神の霊の支配下に清く美しく輝く存在にしてあげよう、こうして数々の誤謬と罪悪に充満して行き、やがて徹底的に崩される運命にあるこの世に生活していても、この世の罪に汚染されず、時が来たらそこから救い出される存在にしてあげようと、いま春を迎えて明るい希望の内に強く望んでおられるのではないでしょうか。私たちも、神のそのご期待に積極的に沿うよう心がけましょう。

③ 一週間前の主日と同様に本日の福音も長いですが、洗礼志願者のある教会では、それに加えて一つ特別の典礼もあります。私たちもこのミサ聖祭の中で、それらの教会の洗礼志願者たちのため祈りましょう。本日の福音に述べられているラザロの蘇りは、ヨハネ福音書に述べられている主がなされた七つの奇跡のうち、最後の最も大きな奇跡ですが、既に過越祭のためエルサレムに集まって来ていた群衆の間にこの奇跡の話が広まると、その数日後に行われた主の都入りに、エルサレムの東門から大群衆が迎えに出て、大歓迎行事になりました。ヨハネはその出来事を劇的に描きながら、ラザロの蘇りの奇跡を目撃した人々が、「その目撃したことを証ししたからである」と書いています。そして「ファリサイの人々は、もう何もかもだめだ、見ろ、世はこぞってあの人についてしまった、と互いに言い合った」とも付言しています。しかし、本日の福音の最後に、「イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とある言葉のすぐ後の話を読んでみますと、大祭司やファリサイ派たちはすぐに衆議会を招集して、「あの男は多くのしるしを行っている。このままにしておけば、皆彼を信じるようになる。そしてローマ人が来て、云々」と相談し合い、遂に主の処刑を決議しています。こうしてラザロの蘇りは、主の公生活を締めくくる奇跡となってしまいました。人に命を与えた奇跡が、主に死を齎してしまったのです。

④ 本日の福音には「イエスは心に憤りを覚えて」という言葉が二度も読まれましたが、主はいったい何に対してそんなに激しい怒りを感じられたのでしょうか。察するに、無数の人々に耐え難い程の死の苦しみや悲しみをもたらした悪魔に対してだと思います。その悪魔たちは、今ラザロを蘇らせようとしておられる主に対しても、殺害を企み策動しているのです。主はそれを覚悟の上で、死をも恐れずにこの大きな奇跡をなさったのではないでしょうか。私たちも主のように、自己犠牲を覚悟して人助けに挺身する時、神の霊に生かされて大きく輝き、人を助け救うことができると思います。その時にこそ、自己犠牲的な主の復活の力が、私たちの中で私たちを通して存分に働いて下さるのですから。神の命に内面から生かされ支えられて働くこの大胆な犠牲的生き方が、誤謬と罪悪の充満しつつある今の世における、キリスト教的生き方だと信じます。主のご受難を記念する聖金曜日を間近にして、私たちも神の御旨によって与えられた苦難の時、試練の時に、そのような大胆で美しい自己犠牲的生き方ができるよう、神に恵みと導きを願い求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。