2008年3月23日日曜日

説教集A年: 2005年3月27日:2005年復活の主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 10: 34a, 37~43. Ⅱ. コロサイ 3: 1~4. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 1~9.

① 40年程前に閉会した第二ヴァチカン公会議が、プロテスタント諸派の人々に大きく心を開いて、共に現代世界の救いのために働こうとする路線を打ち出すと、ちょうどその頃にプロテスタントの若手学者たちの間で持て囃され、広まり始めた聖書学者ルドルフ・ブルトマン(1884~1976) の流行思想が、カトリックの若手聖書学者たちの間でも持て囃され、日本のカトリック界でも、学生紛争が盛んであった1969年、70年頃に、無学なガリラヤ出身の弟子たちが、キリストの埋葬された墓が空になっているのを見て驚き、感激して、やがてキリストは復活したのだと言い出し、それを一般民衆の間に言い広めたのだ、などと言う勝手な解釈や見解が、カトリック出版物などに盛んに書かれたことがありました。しかし、幸いすぐに年輩の聖書学者たちから厳しく批判され、そんな流行思想は70年代前半に消えて行きました。

② ルカ福音書24章によりますと、ガリラヤ出身の弟子たちは主の受難死にあまりにも大きなショックを心に受けていたのか、復活の朝に墓地に行って主のご遺体が墓にないのを見つけた婦人たちが、二人の天使から、主が予言通りに復活なされたのだと知らされて、そのことの次第を残らず弟子たちに報告しても、婦人たちのその話をたわごとのように思って、なかなか信じようとはしなかったようです。後で主が実際に彼らの真ん中にご出現になって挨拶なされても、彼らは始めのうちは驚きおののいて、幽霊を見ているのだと思っていたようです。それで主は、「なぜ怯えているのか。なぜ心に疑いを抱くのか。私の手や足を見なさい。まさしく私自身だ。手を触れて確かめなさい。幽霊には肉も骨もないが、あなた方が見るように、私にはそれがある」などとおっしゃって、彼らの持っていた焼き魚一切れを食べて見せたりしておられます。復活の主は、その後も幾度も彼らにご出現になって、彼らが数多くの体験により、あの世の霊的体への主の復活を堅く信ずるに到るよう、懇切に導いておられます。従って、主キリストの復活に対する信仰は、無学な弟子たちが単に空になっている墓を見てすぐに興奮し、その熱狂的になった心で主の幻を見たりしながら言い広めたものではありません。

③ 本日の福音は、弟子たちが見たその一番最初の出来事、すなわち主が復活なされた朝に、マグダラのマリアから知らせを受けて、主のご遺体が葬られた墓が空になっているのを、ペトロと一緒に走って見に行き、確認した使徒ヨハネの報告です。ヨハネは二日前の夕刻、その墓に主のご遺体を埋葬した人たちの一人だったのですから、そのご遺体が墓にないということは、ヨハネにとっては大きな驚きであったでしょうが、しかし彼は、その墓で見届けたことを冷静に細かく報告しています。キリスト時代のユダヤ人の間では遺体を石棺に入れる慣習はなく、遺体は横壁に掘られた窪みに寝せて置かれるのが普通でした。主のご遺体も、おそらくそのようにして寝せて置かれ、墓の外の入口が大きな石で閉じられていたのだと思われます。その埋葬に立ち会ったヨハネは、ご遺体が大きな亜麻布(オト二ア)に包まれて結ばれてあったように書いています。この結んだ(エデサン)という言葉を「巻いた」と誤訳して、包帯で包まれていたかのように翻訳しているプロテスタントの聖書もあったそうですが、権威ある聖書学者たちは、それは違うと退けています。4世紀末のパレスチナで聖書の研究をしていた聖ヒエロニモも、オトニアをラテン語で linteamina (大きな亜麻布) と正しく翻訳しています。

④ さて、犯罪人として処刑された人の遺体は、衣服は脱がされていますので、そのまま洗わずに亜麻布に包んで葬られました。ユダヤ教の規定では、死後に出た血はそのまま遺体と一緒に葬らなければならない、と定められていましたから。主のご遺体も、日没までの限られた時間内に急いで埋葬されたのですから、全身血で覆われたまま、大きな亜麻布に包んで置かれたのだと思われます。その血痕を留めているトリノの聖骸布は、そこに付着していたパレスチナ地方にしかない花の花粉などからも、実際に主のご遺骸を包んだ本物の亜麻布だと思います。聖骸布には、表の顔と裏の後頭部との間に25センチほどの空白がありますが、これが死人の口を塞ぐために、顎の下から頭の上にかけて巻いて縛った手ぬぐいの跡です。本日の福音では、それが「頭を包んでいた覆い」と邦訳されていますが、頭をすっぽり包んでいた「ほほ被りのような布」ではありません。誤解しないように致しましょう。

⑤ 主から特別に愛されていた使徒ヨハネは、亜麻布が抜け殻のように平らになっているのを見て、主のご遺体は誰かに盗まれたのではなく、婦人たちが天使から聞いた通りに、やはり復活したのではないかと考えたと思います。しかし、まだ旧約聖書の預言のことはよく知らずにいましたので、その考えは信仰にまでは至っていなかったのだと思います。先に墓に入ったペトロは、同じものを見ても唯いぶかるだけだったと思われますが、その後で墓に入ったヨハネは、主の復活を漠然とながらも既に信じ始めたのではないでしょうか。ですから、「見て信じた」と書いたのではないでしょうか。それは理知的に検証する頭の良さの問題ではなく、隠れている謎を発見する心の感覚、心のセンスの問題だと思います。ヨハネは主の愛を全身で受け止め、最後の晩餐の時にも、特別に心を込めて聖体拝領し、心の愛のセンスを磨いていたのではないかと想像されます。私たちも、使徒ヨハネの模範に学んで、主に対する心の愛のセンスを日頃から磨くよう心がけましょう。それが、主の復活をいち早く確信し、その信仰から大きな希望と喜びの恵みを受ける道だと思います。