2008年3月16日日曜日

説教集A年: 2005年3月20日:2005年受難の主日(三ケ日)

聖書朗読: 入城の福音: マタイ21: 1~11. Ⅰ. イザヤ 50: 4~7. Ⅱ. フィリピ 2: 6~11. Ⅲ. マタイ福音 27: 11~54.

① 皆様、本日のミサの前には、主が御受難の数日前にメシアとしてエルサレムに入城なさった時の出来事を、ささやかながら記念する行列の入堂式がありましたので、始めにその時読まれた福音について少し考えてみましょう。マタイの福音書には「驢馬が繋いであり、一緒に子驢馬がいるのが見える」とあって、主が雌の驢馬にお乗りになったのか、それともその繋いである雌驢馬と一緒に繋がれていた子驢馬にお乗りになったのか不明ですが、他の三福音書にはいずれも子驢馬となっていますので、主は子驢馬に乗って入城なされたのだと思います。数日後のご死去の後、主はまだ誰も葬られたことのない新しい墓に埋葬されましたから、この時もまだ誰も乗ったことのない子驢馬にお乗りになったのではないでしょうか。

② 主がこの入城行進を、エルサレムのすぐ東隣りのベトファゲに来られてから、突然弟子たちに子驢馬を連れて来るよう指示してお始めになったのは、もしその計画があらかじめファリサイ派に知られていたり、あるいは歓迎する群衆があまりにも多すぎて長引いたりすると、敵対する人たちからローマ軍に騒擾罪の廉で訴えられたり、邪魔されたりする虞があったからだと思われます。ですから主は、メシアがその門を通って都に来ると信じられていた、エルサレム神殿の真東にある黄金の門まで、後2,30分という地点にまで来てから、突然電撃的にその入城行進をお始めになったのだと思います。理知的批判的なファリサイ派の人々が駆けつけて来た時には、主はもう黄金の門を目前にしておられて、やがて神殿の中にお入りになり、主を歓迎した群衆の騒ぎもすぐに収まったのだと思われます。

③ それでも、ヨハネ福音書の記事によると、その短時間で終わったメシアの入城行進に参加したのは、弟子たちとイェリコから主に伴って来た巡礼者たちだけではなく、過越しの祭りのために各地から既にエルサレムに来ていた、それよりも遥かに多くの巡礼者たちが、「ダビデの子にホザンナ」と叫ぶ弟子たちの声を聞いて、続々と都から出て来てメシアを出迎えたようです。それで、そこにやって来たファリサイ派の人々もその光景に驚き、「もう何もかもだめだ。見ろ、世はこぞってあの人についてしまった」などと、互いに言い合ったようです。

④ しかし、巡礼者の大群衆によるこの熱狂的歓迎行事のすぐ後から、メシアを葬り去ろうとする悪魔たちが走り回ったようで、事態はご存じのように、ユダの裏切りで大きく変わります。ユダの裏切りによってキリストの愛の御命が受難死を介してお体の外にまで溢れ出て、その御命が聖体の秘跡の形で私たちにも与えられるなど、メシアによる救いの業が完成したことを思いますと、メシアに対する裏切りはキリスト教の本質の一部で、その意味では、私たちもある意味でユダに感謝しなければならないように思います。主キリストも、それを予見しつつユダを使徒の一人にお選びになったのだと思います。裏切ってメシアを敵に渡すというその非常に難しい悪役を演じてしまったユダの改心を、一番強く望んでおられたのは、主ご自身だったのではないでしょうか。しかし、ユダがペトロとは違って改心しようとせず、逆に絶望してしまったことは、真に残念なことだったと思います。

⑤ でも、メシアを敵に渡したユダは地獄に落ちたなどという想像は、慎まなければならないと思います。自分の現世的夢が破れて裏切りに傾いてしまった人間的弱さの根深いユダではありますが、悪魔のように徹底的にメシアを憎んだのではありませんし、裏切ったことを深く後悔して自殺したのですから、その魂は死後も極度に苦しんだでしょうが、神の憐れみによって救われる時があったのではないでしょうか。私たちも主の聖心を自分の心として、神に背を向ける裏切り者たちを冷たく軽蔑することなく、大きく開いた温かい心でひたすらその改心を祈り、待ち続ける人であるよう努めたいものです。主は何よりも、そういう絶望的に苦しむ罪人を真っ先に招き救うために、救いのみ業を成し遂げられたのですから。

⑥ 本日のマタイ受難記の中では、主はほんの二言しか話しておられません。そこには、例えばルカ福音書にあるようなキレネの人シモンの手伝いも、主のお苦しみを見て泣く女たちも、改心する盗賊も、ヨハネ福音書に登場する十字架のすぐお側で最後まで見ていてくれる聖母や愛する使徒ヨハネやマグダレナのマリアも全て省かれていて、主は全ての人間から、いや天の御父からさえも見放され、全く孤独な絶望的状態でお亡くなりになったかのように描かれています。マタイは、多くの人の罪を背負わせられ、荒れ野に放逐されて死ぬ山羊スケープゴートのような、メシアの死の孤独を強調するため、このような描写の仕方をしたのかも知れません。しかし、主は日ごろ天の御父と深く結ばれて生きておられたのですから、外的に極度の孤独に見舞われたような時には、その弱って死に行く人の心の奥底に宿る神の威厳が一層力強く周辺の自然界に働き出して、観る眼を持つ人の心を動かし、感動を与えたり畏敬の念を抱かせたりしたのではないでしょうか。メシアの死と共に生じた地震やその他の出来事を見て、大きな恐れを覚えた百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったのは、そのことを示していると思います。

⑦ 私たちも過ぎ行くこの世の人間関係の中での孤独を恐れずに、むしろその孤独をバネにして、ひたすら主キリストと内的に深く結ばれて生きるように心がけましょう。そうすれば、主の御力が死に行く私たちの体を介して大きく働いて下さり、周辺の人々にも豊かに救いの恵みを与えて下さると信じます。