2008年4月6日日曜日

説教集A年: 2005年4月10日:2005年復活節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14, 22~33. Ⅱ. ペトロ前 1: 17~21. Ⅲ. ルカ福音 24: 13~35.

① 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「あなた方は、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、父と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と教えています。天の父なる神は、深い大きな愛をもって、罪深い私たちの救いのために真剣になっておられるのです。罪や穢れの全くない最愛の御独り子の尊い御血によって私たちを贖い、永遠の栄光への道を開いて下さったのです。私たちが死後永遠に仕合せになれるか否かは、ひとえにこの神の愛を信じて日々その神に感謝しつつ、神と共に生きようと努めるか否かにかかっている、と言ってもよいと思います。終末の時に神がお裁きになるのは、この神の愛を無視して神に背を向ける行為と、背を向けなくても自分の欲や考えや計画などを優先して、神に従って生きようとしない怠りの行為だけである、と思います。神に感謝することを知らない、そんな冷たい心で日々戴いている神よりの恵みを無駄遣いすることのないよう、神の裁きを恐れることに心がけましょう。厳しい裁きの時は、私たちにも遠からずやって来るのですから。

② とかく目前の人間関係や利害関係のことに眼を奪われ、自分中心の煩悩の霧にこもって生活し勝ちな私たちでしたが、この世のそういう霧や雲の上から、私たちに大きな愛と期待の眼差しを注いでおられる父なる神、目には見えなくても温かい春の太陽のように万物を養い育てておられる献身的奉仕愛の神に、感謝と信仰の眼を向けながら祈り、働き、生活するように努めましょう。私たちがそのように生きる時、復活の主キリストの新しい命が私たちの心の内に生き生きと働くようになり、私たちは復活なされた主キリストが、今も目に見えないながら実際に私たちと共におられ、そっと私たちを助け導いておられることを、数多くの小さな体験から次第に確信するようになります。現代は情報も価値観も刻々と急激に変貌し多様化しつつある、ある意味では非常に不安な落ち着きのない時代であり、未だ嘗てなかった程の恐ろしい詐欺やテロや自然災害の危険も高まっている時代ですが、こういう時にこそ、心の奥底に伴っていて下さる復活の主と日々内的に堅く結ばれて生活することは、非常に大切であり、また有り難いことだと思います。神が望んでおられるこの信仰の生き方を体得し、世の人々にも伝えるよう努めましょう。

③ 本日の福音は、24節までの前半部分と、それ以後の後半部分とに分けて考えることができますが、前半と後半には、それぞれ「エルサレム」「互いに」「彼らの目が」「認める」「預言者」などの共通する言葉が幾つも登場していて、ある意味では対照的に対応しています。しかし、前半では主の受難死に深刻な落胆を覚えて立ち上がれずにいる二人の弟子たちが中心になっており、エマオへの途上に出会った見知らぬ旅人に、ナザレのイエスをめぐる最近の出来事について語り聞かせます。彼らは、業にも言葉にも力ある預言者であったイエスに大きな期待を抱いていたのに、そのイエスが十字架刑で死んでしまい、もうこの世にはいないので、暗い顔をしています。その日の早朝、仲間の婦人たちが墓にご遺体がなくなっているのを発見し、天使たちから「イエスは生きておられる」と告げられたことも、仲間の弟子たちがその墓に行って、婦人たちの言う通りご遺体がなくなっているのを確認したことも知っていました。しかし二人は、この世の目に見える出来事にだけ心を向け、ご遺体は誰かに盗み去られたのかも知れないなどと考えたのか、いつまでも落胆から立ち直れずにいました。まだまだ聖書の預言や教えのことを知らず、人間理性中心の立場で全ての出来事や情報を解釈する、この世的生き方にこだわっていたからだと思います。

④ 後半部分では、見知らぬ旅人の姿で出現なされた復活の主が中心です。主はモーセと全ての預言者たちの言葉を解説しながら、メシアはこういう苦しみを受けて栄光に入るのが神の御旨であったことを、聖書全体から説明なさいました。一行が目指す村に到着すると、二人は「一緒にお泊り下さい。そろそろ夕方ですから」と、主を強いて引き止め、宿の家に入って一緒に食事の席に着きました。すると復活の主がパンを取って賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人にお渡しになりました。主が食卓の主人であるかのように振舞われたのです。この動作は、最後の晩餐などの時の主の日ごろの所作に似ていたと思われます。二人がそのパンを戴くと、心の眼が開けてその旅人が復活の主であることに気づきましたが、その瞬間にそのお姿は見えなくなりました。

⑤ 主が主導権を取っておられるこの後半部分では、二人の心は聖書の教えに眼を向けるようになってだんだんと立ち直り、やがて全く新しい希望の火に燃え立ち、メシアの復活を信じるようになりました。そして見知らぬ旅人が復活の主であったことに気づくとすぐ、急いでエルサレムに立ち帰り、見聞きした出来事を他の弟子たちに報告しています。この後半部分は、復活の主との出会いの場がどこにあるかを、現代の私たちにも教えているのではないでしょうか。それは、自分中心の理知的立場で主の復活について幾ら考察しても、復活の主に出会うことはできず、むしろ自分から抜け出て見知らぬ人にも親切を尽くそうとする行為のうちに、また聖書から神のお考えを学びそれに従おうとする心のうちに、そして特にミサ中の聖体拝領の時に、心を大きく開いて神の御旨に徹底的に従って生きようとする意思を実践的に表明するなら、復活の主は、私たちにも心の奥で主に出会う恵みを与えて下さるのではないでしょうか。希望をもって日々復活の主と出会い、現代社会の不安に耐えて生き抜く力を戴くように努めましょう。