2008年4月27日日曜日

説教集A年: 2005年5月1日:2005年復活節第6主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 8: 5~8, 14~17. Ⅱ. ペトロ前 3: 15~18. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 15~21。

① 激動する現代世界の極度に多様化しつつある流れに、大きく心を開いて働く路線を打ち出した第二ヴァチカン公会議が終わって1年半ほど経った1967年の春から、復活節の第6主日は「世界広報の日」とされて、カトリック教会では、新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・映画などをはじめとして、各種の社会的コミュニケーションが世界の情報や文化を正しく伝えて、諸国諸民族間の相互理解と共存共栄に貢献するように祈る日、また主キリストの愛の福音がそれらのメディアを介して一層多くの人の心に光と喜びを齎すよう、祈りや献金などで積極的に支援する日とされています。それで私たちも、本日のミサではこの目的のために、特別に心を合わせて祈りましょう。

② ご存じのように、この春には中国でも韓国でも反日デモやそれに類する動きが高まりました。中国では10年ほど前から愛国主義教育が続けられていますから、この動向は一部の中国国民の間で今後も長く継続されると思われます。かつての文化大革命時代に紅衛兵であったりした世代が、今尚軍事や政治の共産主義的中核勢力となって活躍しているようですから。また先日、私の教え子であった韓国人の若手学者と話していましたら、竹島問題についても、韓国人がその島に来ていた古い記録が幾つも残っているのだそうで、この問題も長く燻り続けると思われます。しかし、どちらの国でも狭い国家主義を乗り越えて、人類全体の福祉のために生きようとしている人々も少なくないのですから、日本人も譲ることのできる所は譲って同じ広い心で生きようとするなら、道は開けて来ると思います。広大な中国のほとんどの田舎町には電話線が引かれていませんが、欧米や日本から導入された便利で安価な携帯電話は、驚くほど早く中国全土に普及しています。そして今やインターネットも普及し、民間の若手中国人たちは世界の人々と自由に情報交換をし始めています。保守的共産主義者たちはそのことで神経を尖らせているようですが、思想の自由化へのこの流れの統制は難しいと思います。これまで抑圧されて来た宗教に対しても、関心を示している人が増えているようです。インターネットが福音宣教の新たな手段として大きな成果を挙げることができるよう、祈りたいと思います。

③ 本日の福音は、18節の「私はあなた方を孤児にはしておかない」を境にして、前半と後半とが対照的に違う色合いを示しています。前半の16,17節では「別の弁護者」「真理の霊」すなわち聖霊が中心であり、後半の18~20節では「私」すなわち主イエスが中心になっています。ここで「別の弁護者」と言われているのは、主イエスも御父の御許で弁護者だからだと思います。ヨハネの第一書簡2章の始めに、「御父の御許に弁護者、義人イエス・キリストがおられます」とありますから。しかし、17節と19節に述べられているように、この世は、聖霊に対しても主イエスに対しても、主の弟子たちとは違って、見ようとも知ろうともしていません。弟子たちが聖霊と主イエスの両弁護者を知っているのは、主のご説明によると、どちらの弁護者も弟子たちと一緒に、弟子たちの中にいるからのようです。主は20節に、「かの日には」と話しておられますが、これは旧約聖書以来の伝統的表現で、神がこの世に決定的に介入し裁きをなされる終末の日を指しています。その日が来るまでは、聖霊の働きも主イエスの働きも信仰の霧に包まれていて、この世に生活している私たち信仰に生きる人たちにも、はっきりとは見ること知ることができないようです。

④ しかし、神の無償の大きな愛に感謝しつつ、私たちも日々そのような愛の実践に生きようと励むなら、天の御父が「永遠にあなた方と一緒にいるようにして下さる」と主のお言葉にある聖霊が、不思議に私たちの生活や仕事に伴っていて下さるのを実践的に体験するようになり、やがてその聖霊の勧めや導きに対する預言者的感覚のようなものが、自分の心の中に次第に育って来るのを実感するようになります。主は弟子たちに、迫害される時「何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。その時 (中略) 話すのはあなた方ではなく、聖霊なのだ」(マルコ 13:10) などと話されましたが、聖霊降臨直後頃の弟子たちは、主のこのお言葉が事実であるのを幾度も体験していたようです。例えば使徒言行録4章には、「ペトロは聖霊に満たされて答えた」だの、「一同は聖霊に満たされて大胆に神の言葉を語っていた」などの言葉が読まれるからです。

⑤ 2世紀から4世紀始めにかけて迫害が断続的に激しさを増し、殉教者が続出するようになると、日頃から迫害に備えて、聖霊の生きている神殿としての生き方に励んでいたキリスト者たちの中には、聖霊の働きで自分の心が日々神へと高められ強められて行くのを実感していた人たちが多かったようで、3世紀の始め202年に殉教したリオンの司教聖エイレナイオスは、2世紀後半の名著『異端反駁』の第四巻に、人間が日々神の霊によって養い育てられ、進歩して神に近い者になっていくことを明記しています。これは、自らの数多くの体験に基づく話だと思われます。当時のキリスト者たちの人間観では、人間は単に霊魂と肉体との二つの構成要素から成り立つというだけではなく、そこにもう一つ神の霊の働きも添えて「人間」というものを考えていたようで、こういう人間観の伝統は、今でもギリシャ正教会に根強く保持されています。テサロニケ前書5:23にも、「平和の神が、(中略) あなた方の霊も心も体も完全に守って下さるように」とありますから、このようなキリスト教的人間観は、使徒時代からの伝統なのかも知れません。私たちも、自分の内にいつも現存し働いていて下さる聖霊に対する信仰感覚を実践的に磨きつつ、日々聖霊に導かれ養われて生活するよう心がけましょう。

⑥ 本日の福音の始めに主は、「あなた方が私を愛しているなら、私の掟を守る」と言い、福音の終わりには「私の掟を受け入れ、それを守る人は、私を愛する者である。云々」と話しておられますが、この言葉は、愛と主の掟との密接な相関関係を示しています。ここで言われている「私の掟」は、人を外から束縛する社会的倫理的義務や、合理的な道徳法などではありません。主が最後の晩餐の席上で与えたばかりの新しい掟、「私があなた方を愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」という、ヨハネ13章に述べられている掟だと思います。それは、神の愛と助けを体験し、感動している心の内に、感謝と喜びと共に自発的に湧き出て来る決意や誓いのようなものでもあります。人間同士の心と心の関係においても、自ら自分に課するこのような感謝と決意の掟、自分の一生をかけた結婚の誓いのようなパーソナルな心のこもった掟があります。人の心は本来そのように生きるよう創られているのだと思いますが、主が私たちから順守を求めておられる愛の掟も、そのような自ら自分に課する「心の掟」なのではないでしょうか。としますと、何か社会的合理的な規則にだけ目を向けていては足りません。何よりも聖霊の神殿としての自分の心と、聖霊の働きの場である自分の日常体験に心の眼を向けていましょう。そして神の霊に導かれ助けられつつ、相互に愛し合うよう努めましょう。主の求めておられるこの新しい愛の生き方が、私たちの心の中に、また多くの人の心の中に益々深く根を下ろすよう、本日のミサ聖祭の中で祈りましょう。