2008年4月13日日曜日

説教集A年: 2005年4月17日:2005年復活節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 2: 14a, 36~41. Ⅱ. ペトロ前 2: 20b~25. Ⅱ. ヨハネ福音 10: 1~10.

① 本日の第一朗読は、五旬祭すなわちペンテコステの祝日に聖霊の恵みに満たされてから、ペトロが他の使徒たちと共に立ち上がって語った、最初の長い説教からの最後の部分の引用ですが、ペトロはこの説教の中で、ナザレのイエスこそ神から遣わされたメシアであると、いろいろと言葉を変えて幾度も強調しています。その最初の所でペトロは預言者ヨエルの書3章から引用して、「神は言われる。終りの日に私の霊を全ての人に注ぐ。するとあなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」などと話しています。

② 神は預言者の口を通してなぜ幻だの夢だのという話をなさったのでしょうか。またペトロは、エルサレムでの祭りに集まっていた大勢の民衆に向かっての自分の最初の説教の冒頭に、その言葉を引用したのでしょうか。それは、彼らが今エルサレムで見聞きしている、  ラザロの蘇り、イエスの受難死と復活、それに聖霊降臨などの出来事は、神が数百年前から預言者の口を介して予告しておられた夢・幻のように不可解で神秘な現実であり、そこには神が臨在しておられて、私たちから信仰と従順の心を求めておられるということを、示すためであったと思われます。この世の人間的、自然的な出来事であるならば、人間が持って生まれた理性で考究し理解することもできるでしょうが、そういう地上世界を遥かに超える神秘な真理そのものであられる偉大な神が臨在してお示しになる、夢・幻のように不可解な現実に対しては、まずこの世の人間中心の態度や能力は引っ込め、慎んで謙虚に自分の罪深さを反省し悔い改めることが大切だと思います。この観点から本日の第一朗読を見直してみますと、ペトロも集まって来た民衆に、「悔い改めなさい。めいめいイエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。云々」と勧めています。

③ 神から聖霊の賜物を受けるなら、夢・幻のように不可解な現実も神のお望み通りに正しく知解できると思います。ペトロの言葉を受け入れて、その日のうちに3千人ほどの人が洗礼を受け、使徒たちの仲間に加わったように述べられていますが、その人たちのほとんどは祭りのためにエルサレムに来ていた人たちで、祭りが終わればいなくなるので、エルサレムに残った信徒の数は、多くても2,3百人ほどだったのではないかと推察されます。私見では、受洗した3千人ほどの民衆の多くは、当時ユダヤとその周辺の荒れ野で預言者的精神で貧しく共同生活を営んでいたエッセネ派の人たちだったと思います。第二次世界大戦後に発見されたクムラン文書から、彼らの生活や思想もある程度明らかになっていますが、キリスト時代のその数は4千人ほどに達していたと思われます。メシアを待望していた彼らは、祭りの時に上京してナザレのイエスに会うと、慎重に考えながらもイエスをメシアとして信ずる方に傾いていたと思われます。彼らは福音書では「民衆」と書かれていますが、大祭司たちも預言者的精神で敬虔に厳しい生活を営んでいたエッセネ派には一目置いていたので、イエスを捕えたくても、祭りの時にはその「民衆」の反抗を恐れて手を出せずにいたことが幾度もありました。使徒言行録4:4によると、聖霊降臨後間もないある日、生まれながらの足の不自由な男を癒したペトロとヨハネが大祭司たちに捕えられた頃には、キリストに従う人の数は「五千人ほど」と記されていますが、これもエッセネ派が聖霊降臨後に続々と受洗した結果であると思われます。旧約時代の預言者たちのように、神の霊の働きに対する心の感覚を日頃から実践的に磨いていること、それが主の恵みを早くまた豊かに受ける最良の準備だと思います。

④ 本日の第二朗読の中で使徒ペトロは、「キリストはあなた方のために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたのです」。だから、「善を行って苦しみを耐え忍ぶのが、神の御心に適うことです」と強調しています。聖書のどこにも、教会に来てお祈りしていればそれで救われる、などとは書かれていません。2千年前のファリサイ派はそのように考え、競うようにして沢山の祈りをしていたかも知れませんが、人間側の努力にだけ眼を向けていて、神の働きに対する心のセンスは磨いていなかったのか、メシアを死に追いやってしまいました。何よりも父なる神よりのものに心の眼を向けつつ生活し、神から与えられた苦しみも喜んでお受けし、耐え忍ぶこと、これが主キリストが私たちに残された模範であり、神の御心に適う生き方なのではないでしょうか。

⑤ 主は模範ばかりでなく、私たちがそのように生きるための力も残し与えて下さいました。すなわちキリストを信じて受洗し、主が最後の晩餐の時にお定めになったミサ聖祭の中で与えられる主の御肉を食べ、主の御血を飲んで御受難の主と霊的に一つ体になるならば、主の復活の立ち上がる力が私たちの魂の中にも働いて、私たちは小さいながらも主と同様に生きるようになれると信じます。ペトロも本日の第二朗読の中で、「私たちが罪に死んで義に生きるようになるために」、また「魂の牧者の所へ戻って来るために」、キリストは「十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さった」と説いています。信仰は決断です。信仰のない所、決断のない所には神の力も働かず、救いもありません。主キリストと内的に一致して日々自分に与えられる十字架の苦しみを担い、多くの人の救いのために主と共に苦しみを耐え忍び、その苦しみを神にお捧げしようとの決意を新たに致しましょう。この決意に欠けている心には、この世に死んで復活なされた主の救う力も働かない、と信じるからです。

⑥ 本日の福音の中で、主は「門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。云々」と話して、「門」と「羊飼い」という二つのテーマを持ち出しておられますが、11節以降に読まれる羊飼いについての話は本日の福音から外されていますので、ここでは、「私は門である。私を通して入る者は救われる。云々」と、主がご自身を「門」と見立てておられる譬えについてだけ考えてみましょう。主は別の箇所ではご自身を「道」と称されていますが、ここで「門」とあるのは、救いに到る真の門である精神、すなわち何よりも神の御旨中心に生きようとする神の子の奉仕的愛、キリストの自己犠牲的精神を指しているのではないでしょうか。

⑦ この愛や精神なしに羊たちの世話をしよう、羊たちを教え導こうとする教師や宗教者たちに対して、主は「盗人であり、強盗である」と、二度も厳しい非難の言葉を浴びせておられます。自分のこの世的地位や知識・能力などを利用して、助けを必要としている羊たちを食い物にする、そのような教師や宗教者たちに、私たちも気をつけましょう。たとえその人たちの話がどれ程面白く、心を和らげ楽しませるものであろうとも、その人たちの心がキリストの自己犠牲的奉仕愛の精神に生かされていないようでしたら、警戒しましょう。18世紀から19世紀にかけてのフランス革命時代に、ウィーンで数多くの若者や知識人たちを伝統的カトリック信仰に復帰させることに成功した聖クレメンス・マリア・ホーフバウエルは、無数の間違った聖書解釈や危険思想の乱れ飛ぶ過渡期には、カトリック者は信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別しなければならないと説いています。現代も、そのような危険が溢れているような過渡期ではないでしょうか。私たちも信仰の鼻の嗅覚を鋭くして、真偽を正しく識別するよう心がけましょう。二千年前のエッセネ派の人々も、同様の預言者的鼻の嗅覚で真偽を確かめていたのだと思います。

⑧ 本日の福音のすぐ前のヨハネ福音書9章には、生まれながらの盲目を癒された人が、ファリサイ派の人たちから何を言われても、それに従わず、自分の心が真に従うべきメシアをひたすらにたずね求めて、遂にそのメシアにめぐり会い、「主よ、私は信じます」と告白して、主を拝むに到った話が感動的に語られています。主はそういう人たちを示唆しているかのように、羊は門から入る羊飼いの声を聞き分け、その声を知っているので、先頭に立って行く羊飼いにはついて行くが、外の者にはついて行かない、などと話しておられます。しかし、ついて行く行かないは羊の心の問題ですので、やはり日頃から信仰の嗅覚を鋭く磨きつつ、真の牧者の声を正しく識別し、あくまでもその牧者に付き従って行く決意を固めていましょう。

⑨ 最近、韓国や中国で反日感情や反日運動が高まっていますが、この動向はこれからもまだ長く続くと思われます。中国では数年前から愛国主義教育が施行され盛んになっているようですから、その教育を受けて全てを中国中心に評価する偏狭な価値観や世界観で生きる若者たちが非常に多くなっていると思われるからです。しかし、同じ中国には、何よりも人類全体の平和共存を願う国際主義的価値観や民主主義にも温かい理解と好意を抱いている人も少なくありません。中国・北朝鮮・韓国で万事に平和共存を優先する温厚な人々の見解が重んじられて、不要な対立や戦争の危機が解消されるよう、また神の聖霊が隣国の人々の心を明るく照らし守り導いて下さるよう、この四月からは毎月一回、日曜日にミサを捧げてご一緒に祈りたいと思います。本日のミサ聖祭はそのために捧げられますが、ご協力をお願い致します。