2008年4月20日日曜日

説教集A年: 2005年4月24日:2005年復活節第5主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 使徒 6: 1~7. Ⅱ. ペトロ前 2: 4~9. Ⅲ. ヨハネ福音 14: 1~12.

① ヨハネ福音書の14章から17章までは、最後の晩餐の席で主が語られた、告別の説教と祈りであると思います。本日の福音は、その長い説教の最初の部分で、途中にちょっとトマスの質問とフィリッポの願いの言葉が入りますが、それ程長くないパラグラフなのに、その中には「父」という言葉が何と14回も登場しています。ヨハネはこの話の少し前で、裏切り者の「ユダはそのパンを食べると、すぐに出て行った。時は夜であった」と書いていますが、夜の闇が主と弟子たちの小さな光の集いを覆い、ユダが外の闇の中へ消えて行ってから、主はご自身の魂の内奥に脈打っていた一番大切な掟や教えや願いなどを、次々と弟子たちの前に披露なされたのではないでしょうか。その最初が、13章後半に述べられている新しい愛の掟ですが、続く14章で主は、父なる神について、愛する者たちに父から派遣される聖霊について、また愛する者たちの心に住んで下さる神について語っておられます。

② 本日の福音の始めに、主は「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい」と話しておられますが、それは、「私は光として世に来た」(ヨハネ12:46)と公言なされた神の子の光をも呑み込む程、大きな黒い闇の勢力が攻撃のすさまじさを増して周辺に迫り、暗い不安が海の潮のように、エルサレムの町中に満ちて来ていたからだと思われます。現代世界の状況も、ある意味で当時のユダヤ社会に似ているかも知れません。当時のエルサレムには、明るい建築ブームが続いていました。国際化が急速に進展して、多くの貿易商や観光客、巡礼団などが来訪していたからでした。しかし内的には、政治も宗教もこのあまりにも急激で大きな国際化と多様化の流れにどう対応したらよいかに戸惑い、富の流れに巻き込まれたり、昨日と異なる思想を全て拒絶したりして、形骸化した事なかれ主義に終始していたようです。それで、商工業優先の新しい国際的流れの中で続々と産み出されて来る無数の貧者や苦しむ者たちを救う活力を失っていました。外的経済的には社会は明るく大きく発展し続けていたのですが、内的には心の教育も、家庭の絆も、信仰生活も、内面から崩壊しつつあったようです。このことは、福音書に登場する譬え話や出来事にも反映しています。日本を含め、現代のアジア諸国、いや世界のほとんど全ての国で、今同様の危機的状況が急速に進行しつつあるのではないでしょうか。主は本日の福音の中で、そのような状況の下で生活している現代人にも、父なる神に信仰の眼を向け、信頼と明るい希望をもって生きるよう勧めておられるのだと思います。

③ 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして私をも信じなさい。云々」というお言葉で、主は、私たちが永遠に仕合せに生活する場所が神ご自身によって用意され、主が私たちをそこへ連れて行って下さることを確約なさいました。崩壊しつつある古い社会の激流に押し流されて、浮き草や流れ藻のように神から遠く離れた所へ運び去られ、実を結べない不幸な存在とならないように、父なる神が人類に提供なされた足場、深く根を下ろすための地盤は、神の真理であり、魂に活力を与える神のいのちであり、信ずる者が日々神に近づくのを可能にする道であります。そしてその神の真理・いのち・道は、神から派遣されて人となり、死後は霊的いのちに復活して今も私たちの近くに共にいて下さるメシア、神のロゴス、神の御言葉なのです。主ご自身が本日の福音の中でそうおっしゃっておられるのです。主のこの宣言を堅く信じましょう。主がここで私たちから求めておられるのは、単にそれは本当だと思うだけ、納得するだけの、理知的な頭の信仰ではありません。主のお言葉に日々新たにしっかりと掴まって生きようとする心の実践的信仰、意志的信仰であります。この信仰のある所に神の救う力が働くのです。神の働きに内的に結ばれ支えられて生きようとしない、単なる「頭の信仰」だけの人の中では、神の力が働けません。それは、ある意味で悪魔の信仰のようなものだからです。神の力強さをいつも痛感させられている悪魔も、全知全能の神の存在を信じています。しかし、その心は神に従おうとはせず、神に結ばれて生きようとはしていません。私たちの信仰も、神に対する愛に欠ける冷たいもの、実践の伴わない口先だけの「頭の信仰」にならないよう気をつけましょう。

④ 目に見えるこの世の過ぎ行く事物現象に囚われて、自分の人生をこの世だけの、間もなく朝露のように消え行くものと考えないよう気をつけましょう。洗礼によって神の子のいのちに参与している私たちは死後も、私たちを限りなく愛しておられる天の御父の下で、霊化されたいのちに復活なされた主のお体のように一切の労苦や病苦から自由になって、神の栄光の内に永遠にのびのびと生きるよう召されているのです。復活なされた主の神秘なお体の、言わば無数の細胞の一つとなって父なる神を讃えつつ、仕合せに生き続けるよう召されているのです。あの世のその自由と栄光に満ちた人生の側から眺めると、今の世は何か知らない暗い夢のような世界、あの世に生まれ出るまでの胎児の世界、しかも、原罪による誤謬・誤解・労苦・害悪などが無数に蔓延しているような、狭苦しい世界なのではないでしょうか。それらの誤りや罪悪の毒素によって心が蝕まれたり歪められたりし、出来損ないの人間となってあの世に生まれ出ることのないよう、神の子キリストのいのちに結ばれ、生かされて生きるよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音の中で、主は「私は道であり、真理であり、いのちである」と話しておられますが、ここで言われている道について、人間がその上を足で踏んで行くような地上のこの世的道を連想しないよう気をつけましょう。それは、私たちの魂を着物のように四方から包み込んで、神へと運び導いてくれる精神的パイプ、柔軟なホースのようなトンネル通路に似ている道なのではないでしょうか。使徒パウロが「キリストを着る」(ガラ3:27)と表現しているのも、このことだと思います。私たちの魂は、キリストという通路を通ってあの世に生まれ出るのだと思います。ですから、使徒トマスが心配したように、どこへ行くのか目指す行き先やその道筋を、この世においては見通すことができなくても、見ないで信じていて良いのではないでしょうか。主がここでおっしゃった真理についても同様に、この世の人間が持って生まれた自然理性で理解し、自力で利用できるようなこの世的真理ではなく、私たちの心の眼を内面から照らし目覚めさせて、神の啓示や働きを洞察させ確信させるような、生きている信仰の真理なのではないでしょうか。人間イエスや聖母マリアが身をもって示された神の僕・婢としての生き方に倣い、私たちも神の僕・婢として、神の言葉や導きに全く信頼しながら、私たちを愛しておられる父なる神へと進んで行きましょう。

⑥ 本日の第二朗読の中で、使徒ペトロは「石」という言葉を七回も使いながら、「(主は)神によって選ばれた、尊い生きた石なのです。あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。云々」と書いています。石は、自分主導に神を利用して何かをなそうと積極的に動く存在ではなく、むしろ神のお望み通りに取り上げられるのをじーっと待ち、自分の置かれた持ち場で神の家を下から支える存在だと思います。「隅の親石」となられたキリストに見習って、私たちも神のお望みに徹底的に従う石となるよう努めましょう。