2008年2月24日日曜日

説教集A年: 2005年2月27日:2005年四旬節第3主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 出エジプト 17: 3~7. Ⅱ. ローマ 5: 1~2, 5~8. Ⅲ. ヨハネ福音 4: 5~42.

① 本日の第一朗読に読まれる「マサ」や「メリバ」という地名は、私たちが日々唱えている詩篇の祈りにも、「今日神の声を聞くなら、メリバのあの日のように、マッサの荒れ野の時のように、神に心を閉じてはならない」という形で登場していますが、本日の朗読箇所の中でモーセが主に、「彼らは今にも、私を石で打ち殺そうとしています」と叫んでいることや、主の命令に従ってイスラエルの長老たち数名をいわば護衛のようにして伴いながら、民衆に近づいていることから察しますと、荒れ野での民衆の不満は非常に激しく、神との調停者であるモーセは死を覚悟しなければならなかった程、その場の雰囲気は一時的に険悪になっていたと察せられます。太陽が容赦なく照りつける砂漠で、水が全く得られない時の苦しみは、それ程深刻で絶望的に覚えるのだと思われます。しかし、私たちの信奉している神は、そのような極度に絶望的事態をも簡単に解消することがおできになる程、全能の神です。私たちはそういう力強い神に伴われ、導かれ、守られているのですから、目前の困難がどれ程大きくとも不満を言わずに、ひたすら黙々と神に従おうとすべきことを、本日の第一朗読は教えているのだと思います。

② シナイ地方に多い石灰岩には、今日でも水を豊かに内に蓄えている岩のあることが、第一次世界大戦の後にこの地方を支配していた英国軍によって確認されています。空気に触れている石灰岩の表面は固くなっていますが、空気に接触していない部分の石灰岩は幾分柔らかいので、その岩が山の麓などにあって、そこに遠い高い山からの地下水が流れ込んでいるような時には、その岩の表面を固いもので打ち壊して穴を開けると、水が豊かに流れ出ることがあるのだそうです。神は3千4百年も前に、そのことをイスラエルの民に実証的に示し、くよくよ心配せずに全てを神に委ねて従って来るよう、お求めになったのだと思います。私たちも、目前の過ぎ去る困難に心を振り回されずに、私たちを愛しておられる全知全能の神への信頼に生きるよう、日々決意を新たにして歩み続けましょう。

③ 本日の第二朗読には、「信仰によって」という言葉と「希望」という言葉が、それぞれ二回ずつ読まれます。以前にも話しましたように、ギリシャ語のpistis (信仰)という言葉は、信頼という意味の言葉ですから、神の働きや導きに絶対的に信頼し続けることによって数々の苦境を乗り越えて来た体験を持つ使徒パウロはここで、たとえどんなに絶望的状態に陥ることがあろうとも、諦めてしまうことなく、あくまでも神に信頼し希望し続けているよう勧めているのだと思います。神は、苦しみの中で実践的に表明されたそのような信頼や希望には、必ず応えて下さるからです。私がここで「実践的に」と申しましたのは、単に口先で「信頼しています。希望しています」と申し上げているだけでは、その祈りは頭の信仰の段階に留まっているだけで、奥底の心はまだ十分に目覚めず、そっぽ向いているかも知れないと思うからです。意識界の「頭」が「心」に呼びかけつつ実践に励むと、無意識界の「心」が度重なるその実践に促されて目覚めて来るのだと思います。頭の働きは自己中心的ですが、心が神に頼り神中心に生きようと目覚めて来ると、そこに神の力が働き出すのです。奥底の心が目覚めて真剣に祈る時は、それは態度や顔や行動にまで現れます。苦しくとも神に眼を向けてその苦しみを喜んで捧げる時、神は感謝と信頼の心が籠ったその微笑みをお喜びになり、特別に眼をかけて下さるのではないでしょうか。四旬節に当たり、使徒パウロの模範に倣って、私たちも自分の受ける苦しみを十字架上の主と一致して耐え忍び、多くの人の救いのために天の御父にお捧げするよう心がけましょう。

④ 本日の福音には、旅に疲れてヤコブの井戸の側に休んでおられる主と、サマリアの女との話が載っています。ちょうど正午頃で、弟子たちは皆食べ物を買うために町に行っていた、とあります。水汲みは朝夕の涼しいときになすのが普通なのに、誰も井戸に来ない正午頃に、女が一人で町外れの井戸に来たのは、社会的に恥ずかしい罪があって、なるべく人目を避けていたからかも知れません。主はその女に「水を飲ませて下さい」と願うことから、話しかけます。ユダヤ人はサマリア人と対立していて、サマリア人に自分から挨拶の言葉をかけるようなことはなく、まして男が女に話しかけるようなことはないので、その女ははじめ、この型破りの人に驚きますが、しかし、その人の謎めいた言葉や態度から、間もなくこの人は神よりの人、預言者ではないかと思います。そして暑い日中にもう水汲みに来なくてもいいように、主の話された「決して渇くことのない水」を、自分に与えてくれるよう願います。女は、自分の人生や今の社会に嫌気がさし、救いを渇き求めてもいたのだと思います。主は正にそのような苦しんでいる人生の脱落者をも救おうとして、ここで巧みに話しかけられたのだと思います。主と暫く話している内に、女の心には、町に戻って人々に自分が今出会った人のことを語ろうとする望みも勇気も生じて来たようで、この女の語る言葉から、サマリア伝道の道も開かれるに到ったようです。

⑤ 現代にも、救いを切に渇き求めている人生の脱落者は少なくありません。もしも神の御摂理によってそのような人に巡り会うようなことがありましたら、私たちもその人に何かを願ったり、その人の話に耳を傾けたりして、巧みにその人に神信仰の恵みを伝えることができるよう、日ごろから全ての人、特に今苦しんでいる人、今助けを必要としている人のため、心を開いて自分の祈りや苦しみなどを神に捧げることにも心がけていましょう。

⑥ 最後 に、主が女に語られた「真の礼拝者たちが、霊と真理のうちに父を礼拝する時が来る。今がその時である」というお言葉も、忘れないようにしましょう。旧約時代には、礼拝する所は云々などという細かい外的規制がたくさんあって、各民族はそれぞれその民族特有の宗教形態を細かく順守しながら神を崇めていましたが、救い主が来臨して全人類救済のいけにえを神に捧げ、神信仰の新しい道を全ての人に向けて開かれ、新しい宗教の時代が始まったのです。宗教には何らかの美しい外的形というものも大切ですが、しかし古い時代から受け継いだ一つの固定化した形にあまりこだわり過ぎずに、何よりも心の底から神を礼拝し、神に感謝し信頼して生きること、すなわちそのような心の信仰、心のあり方を新しく自由に表明することの方が、神に喜ばれる時代になっているのではないでしょうか。私たちが主キリストの望んでおられる「真の礼拝者」となって、心から自由に神信仰に生きることができるよう、恵みを祈り求めつつ、本日のミサ聖祭を捧げましょう。