2008年2月10日日曜日

説教集A年: 2005年2月13日:2005年四旬節第1主日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 創世記 2: 7~9, 3: 1~7. Ⅱ. ローマ 5: 12~19. Ⅲ. マタイ福音 4: 1~11.

① 本日の第一朗読は、創世記2章と3章に述べられている人間の創造と堕落についての話ですが、この話をそのまま歴史的出来事についての報告と思わないよう気をつけましょう。目撃証人のいない事柄ですし、これは神から聖書記者に夢か幻のうちに啓示された一種の神話物語だと思います。世界各地の諸民族には、世界の創造や人間の創造についての断片的神話が幾つも伝えられていますが、それらに比べて創世記に読まれる神話は遥かに詳しく、また最もよく纏まっていると言うことができましょう。それ故私は、この神話は人間の心が自力で生み出した夢物語のようなものではなく、その心の中に神の霊が働いて生み出された物語だと思っています。人間の心の中に神霊が働いて見聞きした幻示や、それに基づいた語った言葉が、多少形を変えてでも後でその通りに実現したという実例は、聖書の中でも数多く読まれますし、聖人伝の中にも、民間の伝承の中にも枚挙に暇がない程多く存在します。私は歴史家として、そういう実例をたくさん知っていますので、創世記の神話も、神霊が人の心に働いて生み出した話だと信じます。

② ところで、その神話の中で、神が「命の息を吹き入れて生きる者となった」と人間について述べられている言葉は大切だと思います。私が中学生であった頃には、「自己とは何ぞや」という哲学的な問題が、真面目な若者たちの間で盛んに囁かれていました。ちょうど太平洋戦争が負け戦になっていた頃や、終戦直後の絶望的社会事情が社会を暗くしていた時代で、個人ではどうしようもない程自分の人生に明るい希望を持てずにいた時でした。この世の事物現象に執着するから苦しむのであって、心がその執着を全く断ち切った心境に入れば、悩みも苦しみも超越して生きることができるという、釈尊の教えも耳にしていましたし、禅によってその超越的「無」の心境を体得しようとしている人の多いことも知っていました。しかし私は、長く続いた青春期のその悩みを介して仏教からキリスト教へと導かれ、今は神の不思議な導きに感謝しています。そしてキリスト者となった立場から、改めて「自己とは何ぞや」と問い直すこともあります。

③ 洗礼者ヨハネは、ユダヤ教指導者たちから「あなたはどなたですか」と、繰り返して問われた時、「私は荒れ野に叫ぶ者の声」と答えていますが、このような自己認識は、豊かさと便利さの中で、また様々の意見対立の中で生活している現代人にとっても大切なのではないでしょうか。つまり、自分であれこれの事物や意見などを全く所有しようとせず、ただ神の声・救い主の声となって、自分に与えられている今の世を貧しく身軽に渡り歩くなら、心は執着から解放されていますから、悩みも苦しみも超越して生きることができるのではないでしょうか。神からの「命の息」という聖書の言葉に出会った時、私も「ここに私の本当の自己がある」と思いました。ヘブライ語の原文では息は「ルーアッハ」といって、風という意味も持っているそうです。外的には殆ど見ることも掴むこともできない、「無」のように軽い自己に成り切って、春風や秋風のように、人々にそっと奉仕していること、自分では富も名誉も能力も何も自分のものとして所有しようとせずに、全ては神からの委託物として利用させていただいていること、そしてわずか数十年の短い人生を風のように過ぎ去って行くこと、そこにキリスト者としての私の生き方があるのだと悟りました。

④ 神から啓示された創造神話によると、人祖は狡猾な蛇に騙されて神からの戒めを無視し、自分中心に理知的に考え、禁断の木の実を取って食べてしまいました。自分中心に自己をも事物や論理をも所有しようとしたために、神よりの霊的な「命の息」から離れてしまったのではないでしょうか。人間の悩み・苦しみはそこから始まったのであることを、神話は教えているのだと思います。主キリストは「敵を愛せよ」とお命じになりましたが、私は、自分にとって嫌な敵も競争相手も、自分の恩人だと考えます。自分の能力・見解・権利・実績などに固執し、十分に評価してくれない相手にそれを認めさせようとすると、当然その執着から深刻な苦しみも生じて来ます。理知的尺度を最高のものにして「不平等だ」などと怒らずに、自分の受ける苦しみを黙々と喜んで神にお捧げすると、無から創られた自分と神との接点である「無」に近づくことができ、それだけ神の力が内面から自分の内に働くようになります。もし積極的に相手の存在に感謝し、「敵のために祈れ」という主の勧めに従って、日々相手の上に神の恵みを祈るなら、不思議に心が軽くなり、やがて温かい眼で相手を眺め、相手と気軽に話し合うこともできるようになるでしょう。こうなったらしめたものです。その大きく広がった自分の心の中に、運命の糸を握っておられる神がのびのびと働いて下さり、自分に新しい道が開けて来るのですから。これは、小さいながら私の体験して来たことでもあり、人生の秘訣だと思います。

⑤ 本日の福音は、主が公生活の始めに聖霊に導かれて荒れ野に行き、四十日間昼も夜も断食なさった時に、悪魔から受けた誘惑の話であります。極度の空腹を覚えておられた主に、悪魔は「神の子なら、これらの石がパンになるよう命じたらどうだ」といったようですが、主はすぐに「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」という旧約聖書の申命記の聖句を引用して、その誘惑を退けておられます。この世の物質的豊かさに依存して生きているだけの人間では、まだ創造神の意図した人間ではなく、詩篇にも詠われているように、やがて寿命が来て次々と死んで行く野の草や動物たちとあまり違わない存在価値しかありません。そうではなく、神の御前に人間らしい心の輝きを放ちつつ、永遠に価値ある人生を営むには、どうしてもその時その時に神から与えられる言葉に生かされ導かれて生きる必要がある、というのがこの聖句の骨子だと思います。創世記の冒頭にも描かれているように、この世界は全て「光あれ !」などの力強い神の言葉によって創られ、また支えられているのです。全能の神の言葉には、無から事物を創造したり奇跡を行ったりする威力と共に、人の心を神の命へと導く働きもあります。その神の言葉に内面から生かされ導かれて生きるのが、人間本来の生き方なのではないでしょうか。

⑥ 次に悪魔は、主を神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りたらどうだ」などと、聖書の言葉も引用しながら誘惑しますが、主はここでも申命記の言葉を引用して、その誘惑を退けます。「神である主を試す」のは、人間主導の理知的思考を駆使して、神をも聖書をも利用しようとする傲慢不遜の行為だと思います。私たちも気をつけ、神の言葉、聖書の言葉に対しては、ひたすら謙虚に聞き従う僕・婢の態度を心がけましょう。最後に悪魔は、世の全ての国々とその繁栄ぶりとを見せて「もしひれ伏して私を拝むなら、云々」と誘惑しましたが、主はまたも申命記の言葉を引用して、神以外のものを拝ませようとする不遜な試みを、断固として退けます。宇宙万物の創造者であられる神のみを唯一の主として推戴し、聖母のように神の僕・婢としてただ神のみに仕えよう、神のみに従っていようとするのが、感謝を知る人間本来の生き方なのではないでしょうか。四旬節の初めに当たり、自己とは何か、人間本来の生き方はどうあるべきかなどについて、主キリストの生き方やお言葉なども模範にして改めてしっかりと考え、神の働きに一層深く根ざした実り多い人生を営むよう、決意を新たに致しましょう。