2008年5月11日日曜日

説教集A年: 2005年5月15日:2005年聖霊降臨の主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. 使徒言行録 2: 1~11. Ⅱ. コリント 12: 3b~7, 12~13. Ⅲ. ヨハネ福音 20: 19~23.

① 本日の第一朗読の始めに「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると」とある言葉は、大切だと思います。弟子たちは、主がご昇天の直前にエルサレムを離れないようにと命じて、「数日のうちに聖霊によって洗礼をうけるから」(使徒 1:5) とおっしゃったお言葉に従ってエルサレムに留まり、聖母マリアや婦人たち、「およびイエズスの兄弟たちと共に心を合わせてひたすら祈っていた」(使徒 1:14) のだと思います。神が計画しておられる五旬祭の日が来なければ、一同が心を合わせてどんなに熱心に祈り続けても、聖霊は降臨しなかったでしょうし、五旬祭の日が来ても、その時主のお言葉に従ってエルサレムに一緒にいなかった人には、聖霊は降臨しなかったと思われます。従って、今でもあの時のように心を一つにして熱心に祈れば聖霊は降臨する筈だ、などと考えることはできません。

② 私の学生時代に、ある説教者がそのように説いて、信徒たちの熱心を奮起させようと熱弁を振るっている説教を聞いたことがありますが、私は少し冷めた心でその話を聞き流していました。神の御旨の時でなければ、どんなに熱心に祈っても聖霊は降臨しないと思っていたからでした。神のご計画とそれに従う私たち人間の準備や努力とは、このような関係にあると思います。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」という主の呼びかけについても、同様に考えてよいと思います。主が呼びかけておられるその時に、そのお言葉に従って新しい生き方に転向する人は、神の恵みを豊かに受けますが、その時怠っていて好機を逸してしまう人は、後でそのことに気づいて自力でどんなに努力しても、その時失った恵みの豊かさには達し得ないと思います。ですから、常日ごろ何よりも神の働きや導きに心の眼を向け、神のお望みの時にすぐにそれに従うことができるよう、祈りつつ準備していることが大切だと思います。自分の計画や自分の都合よりも、神からの指示や神のお望みに、何をさて置いても従おうとしているのが、主の僕・婢としての心構えであり、神よりの恵みを人々の上に豊かに呼び下す生き方であると信じます。主イエスや聖母マリアが実践しておられたそのような生き方を、現代の私たちも日々実践するよう努めましょう。

③ この東海地方では今年も春の好天に恵まれる日が多いようですが、私は都合がつく時には、そのような日によく数キロ乃至十数キロの散歩や遠足を致しています。3年前の5月3日にも、好天に恵まれて関が原近くの垂井町周辺の姫街道や東海自然歩道を十数キロ歩き、久しぶりに中天にさいずる雲雀の姿や、広々と何町歩も続く蓮華草の花畑を眺めて来ました。しかし、大型連休中なのに、農家の人たちは田植えやその他の仕事で、子供も総出で忙しく働いていました。祝日・連休というくつろぎたい人間側の都合よりも、自然界のリズムによって例年より少し早く訪れた温かい好天の日々を利用して働いていたのだと思います。自然界の草木も虫や鳥たちも、年毎に違う天候自然の動きに何よりも注目しながら、あるいは雨の降るのを忍耐強く待ち、あるいは例年よりも早く芽を出し卵を産むなどの営みをしているのではないでしょうか。私たちもそれに学んで、風のように目には見えない神の働きや導きに対する心の感覚を鋭くし、すぐに従おうとしている忠実な僕や婢の心を堅持していましょう。実際聖霊の導きや働きは、自然界の風のようにいつどちらから吹いて来るのか予測し難く、また突然変わることもあるので、その変化を見逃さないよう絶えず目覚め、気をつけていましょう。

④ 神の国へと召されている私たちキリスト者にとって、決定的なのは人間側の努力ではなく、神の働きであります。大洋を渡るヨットを想像してみて下さい。人間は自分の漕ぐ力によっではなく、自然の風や海流を利用して進んでいます。もちろん人間も目覚めて働いています。特に風の強い時や変わり易い時には、一瞬も休まず油断せずに、その風の動きに従っていると思います。本日の第二朗読の中で使徒パウロは、賜物にも務めにも働きにもいろいろあるが、それらをお与えになるのも働かれるのも神である、と説いています。私たち一人一人は、神の働きの器、神の使者・協力者として造られ、召されていると思います。これが、キリスト教的人間観だと思います。杯やお椀などの中心は空の部分ですが、主のお言葉にもありますように、外側はどんなに綺麗に洗ってあっても、内側に汚れた欲望や利己的計画などがいっぱいに入っているなら、神の器としては使い物にならず、神から捨てられてしまうことでしょう。私たちも、神の器・聖霊の神殿として、何よりも自分の魂の内にいらっしゃる聖霊の現存を信じ、そこからの聖霊の風に心を向けながら、生活するよう心がけましょう。

⑤ 本日の福音によりますと、聖霊が五旬祭の日に劇的に降臨する以前にも、復活の主は、既にその復活当日の夕刻に、弟子たちに息吹きかけて聖霊を与えておられます。そして聖霊を与えることと、弟子たちの派遣とを一つに結んで話しておられます。このことは、現代の私たちにとっても大切だと思います。聖霊の霊的な火を心に受けるということは、神から一つの新しい使命を受けることなのです。すなわちその火を自分一人のものとして心の奥にしまい込んだり覆い隠して置いたりしないで、積極的に自分の周囲の人たちの心を照らし温めることに努める、という使命を受けることなのです。

⑥ 人間性の罪と言われる、魂の奥底に宿る原罪に由来する心の弱さや悩みを抱えて苦しんでいる人はたくさんいますが、その人たちの魂をその原罪から解放し、罪を赦して下さるのも聖霊の火だと思います。罪は赦しの秘跡の時に告白すれば、聴罪司祭の赦しの言葉によって皆赦されるなどと、あまりにも外的法律的に考えないよう気をつけましょう。神が問題にしておられるのは、そんな外的法律的な違反行為ではなく、何よりも私たちの心の奥底に隠れ潜む罪の毒素であり、その罪から魂を浄化するのは、神の愛・聖霊の火であります。たとい聴罪司祭から赦しの言葉を戴いても、その赦しの恵みに相応しい心で神の愛に生きるよう努めなければ、その赦しの恵みは魂の中にまでは浸透できず、心はいつまでも元の木阿弥だと思います。私たちが日々の営みの中で、いつも聖霊の火を心の奥に燃やしつつ、出会う人々の心に神による赦しと平和の恵みを、また希望と喜びの光を伝えることができますように、聖霊による照らしと謙虚に仕える心とを願いつつ、本日の御ミサを捧げましょう。

⑦ 皆様もお聞きになったでしょうか、先週のラジオ深夜便に元東大教授で6年前に亡くなられた玉城康四郎氏の、「人類の教師たち」と題する7年前にも放送された話が、再放送されていました。玉城氏によると、古来人類の教師として崇敬されている釈尊もイエスもソクラテスも孔子も、その教えの内容を原典に遡って探求し吟味してみると、表面では宗教・哲学・道徳などと担当領域も、使う言葉や表現も異なってはいますが、結局は皆同じ大きな超越的霊の働きに目覚め生かされて語っています。それで玉城氏は、全人類諸民族が相互にますます密接に関係しつつある現代社会の諸問題を解決するため、これらの偉大な教師たちが等しく強調している生き方を新たに体得し広めることが緊急に必要になっていると、説いていました。私はその話を聞きながら、聖書に述べられている聖霊の働きのことを考えていました。聖霊はキリスト教会の中だけではなく、広く全人類の諸民族・諸文化の中でも旺盛に働いていると信じます。釈尊もソクラテスも孔子も、皆その聖霊の働きに生かされ導かれてその教えを残されたのではないでしょうか。玉城氏の踏み込んだ研究と提案に感謝しながら、私たちも小さいながら、争い悩む現代の諸国・諸民族の救いのために聖霊の導き・働きに一層心を込めて従うよう励み、またその恵みを全人類の上に願い求めましょう。