2008年1月1日火曜日

説教集A年: 2005年1月1日神の母聖マリアの祝日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. 民数記 6: 22~27. Ⅱ. ガラテヤ 4: 4~7. Ⅲ. ルカ福音 2: 16~21.

① 年の始めの聖書朗読は、古くから神の民イスラエルに伝わっている祝福の言葉で始まります。それは神から命じられたもので、祭司が民を荘厳に祝福して唱える言葉であります。神は新しい神の民である私たちをも守り、私たちにも恵みと平安を与えて下さいます。もし私たちが神を自分の存在の本源、自分の人生の最終目標として崇め尊び、ひたすらその導きと助けに縋って生きようとしているならば。 新しい年の初めに当たり、神の民としてのこの心構えを新たにして、神からの祝福を豊かに戴くように致しましょう。

② 第二朗読の「時満ちて」という言葉を神学生時代に読んだ時から、私の心にはいつも一つの想像が去来するようになりました。それは、海岸の砂浜に造られたさまざまな砂の模様や家や城などが、潮が満ちて来ると一様に崩されてしまう情景であります。私は既に幾度も講演・講話・説教の中などで話して来ましたので、あるいは皆様にも話したことがあるかも知れませんが、数百年来の伝統的価値観や家族組織・社会組織などが次々と流動化して拘束力を失い、内面から崩壊しつつある現代の世相も、それに似た情景を露呈しているのではないでしょうか。2千年前のオリエント諸国の世相も、同様の情景を示していたと思われます。国際的なシルクロード貿易と商工業の急速な発展と、人口の流動化や生活の豊かさなどによって、人々の価値観が極度に多様化し、親子の間でも意思の疎通を欠くようになると、自分中心に考えたり行動したりする人間が増え、家庭での躾や心の教育も投げ遣りにされて、社会には詐欺や盗みや横領などが横行していたのではないでしょうか。どれ程多くの小さい者たち、弱い者たちがその犠牲となって嘆き悲しんでいたか知れません。

③ 外的には豊かになったオリエント社会が、このようにして内的に弱体化し、人の力ではもう施す手がない程に精神的に崩壊し始めていた時、その社会の最下層に救い主がお生まれになって、神中心に生きる新しい生き方を身をもって啓示し、そのように生きるための神の命もお与えになったのではないでしょうか。現代の人類社会も同様の様相を呈し始めていることから察すると、救い主がお示しになった神中心の新しい生き方の内に、このような満潮時代に生きる人々への神からの大きな祝福と私たちの本当の生き甲斐も隠されているのではないかと思われます。新しい年の始めに当たり、神の母聖マリアの執り成しを願いつつ、救い主がお示し下さった生き方を正しく深く洞察する照らしと恵みを祈り求めましょう。

④ 本日の福音は、クリスマスの夜半のミサに朗読された福音の続きで、羊飼いたちが天使から告げられた通りに乳飲み子の救い主を見出し、天使から告げられたことを人々にも知らせ、神を崇め賛美しながら帰って行った話ですが、ここに「人々に知らせた。聞いた者は皆、……不思議に思った」とある、この「人々」は誰を指しているのでしょうか。当然その乳飲み子と共にいた聖母マリアと聖ヨゼフを指してはいますが、このお二人だけでしょうか。としますと、「そこにいた二人は」でなく、「聞いた者は皆」という書き方は少し不自然に思われます。私は勝手ながら、クリスマスの説教にも申しましたように、救い主のお生まれになった家畜置き場が、真夜中の羊飼いたちの来訪によって少し騒がしくなったので、その上のカタリマで眠っていたダビデ家の一部の人たちが、階段を下りて様子を見に来たのではないかと想像しています。その人たちが、マリアの生んだ幼子が神の子だとその時すぐに信じたとは思いませんが、羊飼いたちの語った不思議な話から、この子が神から特別に眼をかけられている恵みの子なのだと考えたのではないでしょうか。ヨゼフが、住民登録のために一時的に本家の家に来泊した他の親戚たちと違って、その後もナザレに戻らずに、ベトレヘムで一月半も滞在し得たのは、本家の人たちの格別の厚意によるのではないか、と思われます。

⑤ 本日の福音でもう一つ注目したいのは、「マリアはこれらの出来事を全て心に納めて、思い巡らせていた」という言葉です。出来事と邦訳されているギリシャ語の原語は、「語る」を意味する動詞から派生したレーマという名詞ですが、レーマは第一に「語られた言葉」を意味しており、そこから転じて「出来事」をも意味するようになったと聞いています。私はこのことから、全能の神の語られる言葉には、単に何かの心情や意味を伝える手段でしかない私たち人間の言葉とは違って、この歴史的現実世界に実際に形をとって出現したり、歴史的現象に絶対的影響を与えて、その成り行きや運命を変えることもできる程の大きな生命力が込められているのではないかと想像しています。聖書に読まれる「み言葉は肉となられた」だの、「私があなた方に話した言葉は霊であり命である」などの言葉も、これと関連して理解してよいと思います。聖母は神からの言葉のこのような神秘な働きを、この後も全て心に納めて思い巡らせておられたのではないでしょうか。年の始めに神の母を記念する私たちも、神からの言葉に対する同様の信仰を新たにしながら、聖書の言葉を心に納めて日々思いめぐらせつつ、ますます深く洞察して行く恵みを祈り求めましょう。全ての人の運命を統括しておられる神は、そのように生活する人の人生を、実り豊かにして下さると信じます。