2007年12月30日日曜日

説教集A年: 2004年12月26日聖家族の祝日(三ケ日)

聖書朗読: Ⅰ. シラ 3: 2~6, 12~14.  Ⅱ. コロサイ 3: 12~21. Ⅲ. マタイ福音 2: 13~15, 19~23.

① 私たちの信奉している三位一体の神は、家庭的愛の神、共同体の神であります。決して孤独な唯一神ではありません。「家庭的愛」は無償奉仕の献身的愛であります。御父・御子・聖霊の各ペルソナは、それぞれ己を無にして、全体のために奉仕する献身的愛に燃えている方々だと思います。「作品は作者を表す」と申しますが、その三位一体の神がお創りになった被造世界も、大きな規模での全体としてだけではなく、ミクロの世界の隅々に到るまで、相異なるものたち同志が共に助け合い補い合って共存し発展するよう創られていると思います。近年大宇宙や身近な自然界の生物や人体・素粒子等々についての綿密な科学的研究が進んでみましたら、そのことがますます深く痛感させられます。私たちの心は皆、本性的に家庭的な神の愛を体得し実現するように創られており、その本性に背く生き方をするならば、対外的に対立抗争の諸問題を巻き起こすだけではなく、対内的にも、心の奥底に自己矛盾を抱えて、各種の病的症状やストレスを日々知らない内に生み出して行くように思います。

② ですから聖書には、家族的愛と一致の精神が重視されており、幼児の時から父母に対する尊敬と従順の躾を実践的に体得させるための教えが説かれています。本日の第一朗読(シラ書3章)にも、「主は、子に対する権威を父に授け、子が母の判断に従う義務を定めておられる。父を尊べばお前の罪は償われ、母を敬えば富を蓄える」などと教えられています。それは、子供の心が父母の背後に神の権威、神への義務を感じ取りながら、全体のために奉仕する神の献身的愛に成長するためだと思われます。私たちの心を神に似たものにするこの献身的愛は、子供の時だけでも、この世に生活する時だけでもなく、永遠に継続し成長する性質のものですから、当然父母にも強く求められています。ですから使徒パウロは本日の第二朗読の中で「妻たちよ、主を信じる者に相応しく、夫に仕えなさい。夫たちよ、妻を愛しなさい。つらく当たってはならない。云々」「父親たちよ、子供をいら立たせてはならない。いじけるといけないから」などと説いています。各人はそれぞれの置かれている立場で、神の家族的な献身愛に生きるよう求められているのだと思います。

③ 本日お祝いしている聖家族の祝日は、合理主義、啓蒙主義の思潮が広まって、社会が次第に冷たく味気ないものになり始めた17世紀以来、西欧の一部の地方で祝われるようになった祝日で、1893年にレオ13世教皇が任意の祝日として定め、第一次世界大戦後の1921年からは、全世界の教会で祝われるようになった祝日であります。社会の人間関係が冷たい合理主義精神によって毒され、社会の基礎である家庭も家庭的奉仕の精神も崩されつつあるという危機感から、時代の要請に応じて重視されて来た祝日であると思います。この世にお生まれになった救い主は、まずその聖家族の中で、神の献身的な愛の模範を世に啓示なさったと思われるからでもあります。クリスマスの出来事全体の主役は、幼子としてお生まれになって神の子メシアであります。キリスト教的信仰生活は、その神の御子を自分の心の中に迎え入れ、自分の日々の生活、自分の人生の主役になってもらうこと、自分はその脇役の地位に退き、神の僕・婢として仕える生活を意味していると思います。

④ 主の復活後まだ半世紀余りしか経っていない頃、ローマで聖ペトロの三代後の後継者聖クレメンスは、書簡の中で、クリスマスの意味を次のように説明しています。「神はこの方によって私たちの心の眼を開かれ、この方によって私たちの無分別な薄暗い知性が光に向かって開花し、この方を通して私たちが不滅の知恵を味わうことを望まれました」と。そうです。神の子メシアの誕生は、私たちの心の眼をあの世の神の現存や働きに向けて開かせ、新しい生き方をさせるためであったと思います。しかし現実においては、これはそう簡単なことではありません。神の御子を自分の心の中に迎えることは、これまでの生き方を根本的に変革することを意味しますし、私たちの人生に一つの不安を呼び起こします。ですから神の子の誕生前後の出来事ををめぐる福音には、「恐れるな」という呼びかけが何度も登場しています。天使はザカリアに、マリアに、ヨゼフに、またベトレヘムの羊飼いたちにも、このように呼びかけています。その不安に対応する仕方は、人によりいろいろと異なることでしょう。

⑤ ヘロデ王は、自分の支配を不安にし切り崩す虞のあるものは、まだ小さいうちに抹殺し、除去してしまおうとしました。しかし、その野望は神の導きによって空振りに終わり、無残に砕かれてしまいました。名もない貧しいヨゼフは、天使から夢のお告げを受けるとすぐに立ち上がり、先行きの見えない不安な夜の闇の中にあっても、ひたすら全能の神の摂理により頼んで、か弱い神の子とその母とを生命の危機から救い出し、養い育てるという働きを成し遂げたからでした。神の子メシアを心の中に迎え入れる私たちにも、突然何らかの思わぬ不運が襲い掛かって来ることがあるかも知れません。そのような時、私たちはヨゼフのように、ひたすら全能の神の愛と摂理により頼んで生き抜くことができるでしょうか。

⑥ 世の中の多くの人は、ヘロデ王のように神からのものを踏みにじり除去してしまおうとはしませんが、しかし、それを自分から積極的に捜し求めよう、それを受け入れ、それに従って生きようともしていません。2千年前のユダヤ教指導者たちの多くも、そのように行動していました。メシアがベトレヘムに生まれる筈だということは聖書から知っていましたが、自分から捜し求めよう、拝みに行こうなどとはせず、そのメシアが目前に現れて来るまで待ち、もし自分たちにとって利用価値のある存在なら支持し、都合の悪い存在なら暫く様子を見ていようと、自分を中心に据えて構えているような生き方を続けていました。ヘロデ王のように積極的に探し出して殺してしまおうとはしませんが、神を神として自分の生活の中に迎え入れようともしていないその態度は、ある意味で自分のエゴを心の中の神の座に据える態度であり、ヘロデ王と同様に、遅かれ早かれ神の働きの邪魔者と見做され退けられる運命を、既に自分から選び取っていることになると思います。当時のユダヤ社会がその数十年後に、ローマ軍により徹底的に滅ぼされてしまう運命を、彼らは既にこの時から自分で選び取っていたのではないでしょうか。

⑦ 「木に竹を接ぐ」という表現がありますが、自分というものを全く変えずに、そこに異質の神の子の命を接ぎ足しただけのようなキリスト教生活では、神の救う働きや神の愛の命を受けることができません。神の命が自分を内面から養い力づけ変革するのを積極的に受け入れてこそ、私たちはクリスマスの本当の祝福を自分のものとし、聖母やヨゼフのように、インマヌエル(我らと共におられる神)を中心とする聖なる家族を構成して、その時その時の神の導きや助けを体験するのではないでしょうか。不安や危険の多い今の世の潮流を無事渡りきるだけではなく、道を求めて混迷している世の人々にも、神の働きを証して希望の光と力を与えることができるのではないでしょうか。間もなく迎える新しい一年に、私たちの霊的家族共同体がそのように生きる恵みを祈り求めつつ、本日のミサのいけにえを心を込めて捧げましょう。