2007年12月24日月曜日

説教集A年: 2004年12月25日降誕祭夜中のミサ(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 9: 1~3, 5~6. Ⅱ. テトス 2: 11~14. Ⅲ. ルカ福音 2: 1~14.

① 今宵の福音の記者ルカは、ローマ皇帝アウグストゥスが施行した住民登録令という世界史的出来事と関連させて、全人類の救い主の誕生を書き始めています。それによって、当時の最強最大のこの世的平和の樹立者と、神から派遣されたあの世的平和の樹立者とを対比させているのです。アウグストゥスが紀元前27年に内乱を制して地中海・オリエント世界の独裁的支配権を確立し、この後200年間も続く平和時代を、”Pax Romana”(ローマの平和)というモットーを掲げ、ローマ市内に美しい平和の祭壇を建立して推進したり、東方諸国とのいわゆるシルクロード貿易と文化交流を積極的に盛んにしたりすると、この大きな国際的平和交流のうちに、ギリシャ・ローマ・オリエント各地の商工業は急速に発達し、富める商工業者たちはますます豊かになって、アウグストゥスを世界のSoter(救い主)として崇めたりしました。彼の援助を受けてユダヤの支配者となったヘロデ大王が、大きな港町カイザリアをはじめ、各地にギリシャ風の町や城や宮殿を建設したり、紀元前20年からはギリシャの天才的建築技師ニカノールを招聘して、エルサレム神殿を大きく増改築したりしたのも、このような国際的商工業の発達を巧みに利用し、宣伝と間接税によって富を蓄積したからでした。ルカは、その「ローマの平和」に対比するかのように、アウグストゥスの勅令によりナザレトからベトレヘムに移動させられて、人知れず貧しく生まれた「あの世の平和の王」の誕生を描いているのです。

② 道路や海上の便船が整備され商工業が発達すると、人口移動が激しくなったので、税金や徴兵の公平さを期し、各地の国力の変化などをできるだけ正しく把握するため、皇帝は紀元前8年に属国をも含め帝国全体で住民登録をさせ、その後も14年毎に住民登録をさせると布告しましたが、識字率の低い住民の多い所では、役人が調査する時に、その地の住民は各自の出身地に集合させられ、本家の人々と顔を見比べるようにして登録させられたので、住民側からの反対が強く、軍隊を出動させて強行しなければなりませんでした。それでユダヤでは第一回目が1年ほど遅れ、シリアからクィリニウス総督の率いるローマ軍の来るのを待って紀元前7年に施行され、紀元前8年から14年後の紀元6年の第二回住民登録の時には、ガリラヤでチゥダが400人もの暴徒と共に叛乱を起こし、弾圧された程でした。紀元14年にアウグストゥスが死ぬと、反対の多いこのような大規模の住民登録は、もう行われなくなりました。救い主の生まれたのは、この2回の世界史的住民登録のうち「最初の住民登録」の時であった、とルカは書いています。ということは、主が紀元前7年に生まれたことになります。ルカはこのようにして、救い主イエスの名が、単にユダヤ人の系図の中に記されただけではなく、人類の住民登録簿の中にも人類の一員として記されたことに、私たちの注意を喚起しているのだと思います。

③ ところでメシアは、多くの人が考えているように、果たして町外れの洞窟や家畜小屋に生まれたのでしょうか。古代教会の人々は、そのようには考えていません。町外れの家畜小屋に生まれたなどという想像は、聖地がイスラム教徒に支配されて聖地巡礼ができなくなった中世期にイタリア辺りで生み出され、ルネサンス画家たちの絵によって世界中に広められた話です。皆様の折角の美しい詩的夢を壊すようで心苦しいですが、初代のキリスト者たちがどのように考えていたかについて、福音書に基づいて考えてみましょう。「マリアが生まれた子を飼い葉桶に寝かせた」とあるのを読むと、聖地巡礼をしていないヨーロッパ文化圏の人々は、馬小屋や牛小屋を想像したかも知れませんが、2千年前のユダヤでは馬は支配者や軍人の乗り物で官庁や兵舎に飼われており、牛は町の中ではなく、町の外の裕福な農家に飼われていました。しかし、もっと庶民的で安い驢馬で旅行する商人や庶民も少なくなかったので、町の中でも、宿屋や一族の本家などの大きな家では、驢馬を繋いで置くガレージのような場所を備えていました。そして驢馬を繋ぐ場所から階段を上って、ギリシャ語でカタリマと言われる居室に入るのですが、このカタリマは「宿泊所」という意味に使われることもあるので、この第二の意味でラテン語をはじめ多くの言語に翻訳されると、文化圏の異なる国の人々が、ヨゼフとマリアは宿屋に宿泊するのを断られて、町の外の家畜置き場に泊まったのだと誤解したようです。同じカタリマという言葉は、マルコ福音14章14節でも最後の晩餐の広間を指すのに使われていますが、誰もそれを「宿屋」とは訳していません。天使は羊飼いたちに「今日ダビデの町の中で、あなた方のために救い主が生まれた」と告げていますから、やはり町の外に生まれたのではありません。

④ 紀元320年代の後半、コンスタンティヌス大帝の母へレナ皇后は、現地のキリスト者たちの伝えを精査した上で、ベトレヘムの中心部に近い家を救い主の生誕地と特定し、そこに記念聖堂を建てました。今日その聖堂を訪れる人の中には、聖堂の地下室のような所が生誕の場所とされていることに驚く人がいます。幾度も戦場となったベトレヘムの2千年前の道路が、今の道路の下3mか4mほどの所になっているためですが、昔はその道路から入った所に驢馬を繋ぎ、階段を上ってカタリマに入っていたのだと思います。住民登録のため各地から参集した一族の人で雑魚寝状態になっている広間では出産できないので、マリアたちは驢馬を繋ぐ所に泊まったのでしょう。そこには、横の壁から太い紐で吊るした細長いまぐさ入れもありますので、出産した幼児はそのまぐさ入れの中に寝かせたのではないでしょうか。多く見積もっても精々2千人程の人口でしかなかった当時のベトレヘムの、どこにそのような家畜置き場を備えた大きな家々があるかは、羊飼いたちも心得ていたと思われます。ですから、「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」という印を与えられただけで、暗い夜中であっても、その場所を探し当てることは難しくなかったと思われます。しかし、「急いで」探しに行ったと書かれていることから察すると、寝ていた羊たちまで連れて行ったと考えることはできません。やはり羊の群れはそのまま寝せて置き、交代で群れの番をしながら、拝みに行ったのではないでしょうか。

⑤ 彼らに与えられた「乳飲み子」という印は、同時に神ご自身、救い主ご自身でもありました。羊の群れという生きている財産の世話をしているために安息日毎の会堂礼拝に参加できず、ファリサイ派からは大罪人として社会的に軽蔑されて来た貧乏人の彼らは、その軽蔑に耐えて一心に神に憐れみを願い求めていたと思われますが、メシアを真っ先に拝む栄誉に浴したことをどれ程喜んだか知れません。神から特別に愛されている徴を得たことで感謝と喜びに満たされ、神を賛美しながら帰って行きました。出産は妊婦にとって、神の働きや生命の神秘について心を目覚めさせる大きな意味を持つ出来事だと思いますが、聖母マリアも人類の救い主を産んだ最初のクリスマスの夜は、特別に深い感動と感謝の内に人類の救いのために祈りつつ過ごしておられたと思われます。その聖母の祈りに心を合せて、私たちも今宵のミサの中で、一人でも多くの人が、神の子メシアの救いの恵みに浴することができるよう祈りましょう。