2007年12月9日日曜日

説教集A年: 2004年12月5日待降節第2主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ: イザヤ 11: 1~10. Ⅱ. ローマ 15: 4~9. Ⅲ. マタイ福音 3: 1~12.

① 本日の第一朗読の始めに「エッサイ」とあるのは、ダビデ王のお父さんの名前で、旧約時代にはダビデ家とその子孫を指すのに、この「エッサイ」という名も使っていました。またここで「株」とあるのは、木の切り株のことを意味しますが、ダビデの後を継いだダビデ王朝の王たちが神の力により頼まず、自分の人間的な力を過信したり、隣の国の力に頼ったりしたために、遂に神の助けを受けなくなって滅ぼされてしまったことを、大木が切り倒されたのに譬えて、その廃墟に生き残っている子孫のことを「切り株」と称しているのです。イザヤ預言者は、その切り株から一つの若枝が育つと、その上に神の霊が留まり、弱い人・貧しい人を公平に弁護して、神による救いが成就することを予言しているのです。しかし、6節以下の後半部分に「狼が小羊と共に宿り、云々」とある予言は、罪に穢れたこの世で実現することではなく、世の終わりにこの世がいったん徹底的に崩壊して罪に死に、罪の穢れと闇から完全に脱却して、霊化された姿に蘇った後で実現する、平和と喜びについて語っているのだと思われます。神は私たちの将来に永遠の平和と幸福の世界を用意して、私たちがこの苦しみの世で心を磨いた後、そこにまで昇って来るのを待っておられるのだと思います。神の深い愛に感謝しましょう。

② 続く第二朗読は、使徒パウロがローマ書15章の始めに書いた「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」という言葉を敷衍した教訓ですが、その後半に述べられている「神の栄光のためにキリストがあなた方を受け入れて下さったように、あなた方も互いに相手を受け入れなさい」「異邦人が神をその憐れみの故に讃えるようになるためです」などの言葉を読むと、単に自分たちが受け継いだ伝統と社会秩序を誠実に守って、法にも論理にも背かないように生活しているだけでは足りないように思われます。皆さん、この21世紀になって西欧の人々の間に話題となっている「第四世界」という言葉をご存知でしょうか。第四世界というのは、従来「第一世界」と呼ばれてきた先進国内に居住しながら、富裕な社会からは社会秩序を守ろうとしない人々、あるいは守れない人々として除け者にされ、相応しい就職口から排除されて貧困や差別扱いに追い込まれたり、危険な無法者集団の一味と見做されたりしている人々を指しています。具体的には、近年わが国にも激増して来ている野宿者・不法滞在者、あるいはまともに働こうとせずに、詐欺や盗みなどの犯罪やテロ活動などに専念している人たちをも指しているようです。

③ 第一世界のようになろうと努力している後進諸国の第二世界、あるいはその努力が思うようにできない程、貧困その他の問題を多く抱えているアフリカ諸国の第三世界は、先進国からは遠く離れているので、国際的に国外支援を続けるだけでも良かったでしょうが、先進諸国の底辺部に急速に増大しつつあるこの第四世界に対しては、どのように対応したら良いのでしょうか。理知的にだけ物事を処理し勝ちであった先進国の伝統的社会組織が、心の教育の失敗などで内面から急速に瓦解し始めると、この問題は次第に国家も有効に対応できない程に深刻になり、ちょうど最近のイラク社会やイスラエル社会のように、絶えず警戒しつつ外出するような事態になるかも知れません。心にさまざまなしこりを抱えていると思われる第四世界の人々を、第一世界の理知的論理や道徳観で説得しようとしても無駄だと思います。その人たちは、私たちのとは大きく違う文化に生きているのでしょうから。

④ 私は、文化の違うその人たちに心を開かせ、全世界の全ての人々と共に平和共存するように転向させる道は、主キリストがこの世にもたらした神の奉仕的愛に生きること一つだと思います。2千年前に救い主がお生まれになったのは、当時の富裕な先進国社会の中でも最も下層の所でした。そしてその富裕な社会の人々から、既に赤子の時から命を狙われたり、冷たくあしらわれたり、悪口を言われたりしながら育ち、ファリサイ派が担当していた当時の児童教育も受けずに、ひたすらその日その日の小さな大工仕事を頭を下げてもらい歩きながら、一人前の大人に成長したのだと思います。それは、現代の第四世界の人々の育ち方に似ているのではないでしょうか。主がその短い公生活中に説いた神の愛、神の国の教えも、富や権力や法を重視していた当時の先進国文化とは質的に大きく違った文化でした。貧富の格差が拡大していた当時の社会に満足できず、救いの道を求めていた人々は主の教えに感服しましたが、しかし、主はユダヤ社会の指導者たちからは理解されず、逆に誤解を広められたりしていました。主は単にその社会の中で死んだのではなく、社会から命を付け狙われて殺されたのです。現代の第四世界の人々の中にも、ナザレのイエスのように、社会から理解されずに排除され続ける人生を営んでいる人が、少なくないのではないでしょうか。救い主が身を持って生きてみせた神の憐れみと神の愛を、私たちも体得し体現しようと努めてこそ、文化や民族の違いを超えて第四世界の人々の心に近づき、神の愛の中での全人類一致の道を切り開くことができるのではないでしょうか。

⑤ 本日の福音は、主の公生活に先立って、当時のユダヤ社会に心の改心を力説した洗礼者ヨハネの話ですが、彼は旧約聖書に詳述されていて誰もが聞き知っているエリヤ預言者のように、らくだの毛衣を身にまとい腰に皮の帯を締めていたので、その珍しい姿から、見る人は皆エリヤのような預言者が登場したのだと思ったことでしょう。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という彼の力強い呼びかけに、多くの人が続々と彼の許に来て、これまでの自分中心・人間中心の考え方を改め、神の霊の導き、神の霊の支配に従おうとする心を新たにして、ヨルダン川で水の洗礼を受けました。

⑥ それで、当時のユダヤ社会の指導層の人々も、その様子を見て使者たちを派遣し、洗礼者を視察させたようです。それを見た洗礼者ヨハネは、「蝮の子らよ」と厳しい言葉で彼らに呼びかけ、「斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木は皆、切り倒されて火に投げ込まれる」と、ユダヤ社会に天罰の時が迫って来ていることを告げ、「悔い改めに相応しい実を」結ぶよう説いています。ここで「悔い改め」とあるのは、ユダヤ社会に定着している従来の人間的価値観から脱皮して、神の霊の導きに従おうとする新しい生き方を身につけることを意味していると思います。彼らは自分たちを「アブラハムの子孫」として自負していましたが、それは人間的歴史的には間違っていないとしても、内的にアブラハムの信仰心に生きていない者はアブラハムの子孫として認めない神が、神に従わない集団的エゴイズムに汚染されているユダヤ社会を滅ぼしてしまおうと、歴史に介入なさる時が迫っていたのです。アブラハムの子孫でない異邦人であっても、内的にアブラハムの信仰心に生きようとして悔い改めの洗礼を受けるならば、神が新しい神の民として受け入れ保護し導いて下さる時代、これまでの民族・文化・各種伝統の相違を越えて、全人類が神の下に一つになって生きる新しい時代が、始まろうとしていたのです。

⑦ この新しい時代の到来を力強く唱道した洗礼者ヨハネの言葉は、大小さまざまの河川のような諸民族・諸文化の流れが、皆一つの海流のようになりつつある、現代のグローバル時代に生きる私たちにとっても大切だと思います。私たちも悔い改めて、何よりも神の霊の導き、神の霊の働き中心に生きようと決心を新たにし、そのために必要な恵みを祈り求めましょう。