2007年12月23日日曜日

説教集A年: 2004年12月19日待降節第4主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 7: 10~14. Ⅱ. ローマ 1: 1~7.Ⅱ. マタイ福音 1: 18~24.

① 本日の第一朗読に読まれる謎めいた言葉を理解するには、その前後の文脈を調べる必要があります。アッシリアが強大になって南下し始めた時、シリア国王はイスラエル国王と同盟して抵抗しようとし、その勢力を拡大するため、南のユダ王国にも加盟を呼びかけたのですが、ユダのアハズ王はその招きを断り、同盟に加わりませんでした。するとシリアとイスラエルの連合軍が、まず豊かなユダ王国を征服してしまおうと、突然攻め上って来たのです。アハズ王の心も民衆の心も、恐れで大きく動揺しました。その時神が預言者イザヤを介してアハズ王に、「落ち着いて静かにしていなさい。恐れることはない。云々」と話され、彼らがやって来ても、ユダ王国を征服するには至らないことを告げ、最後に「信じなければ、あなた方はしっかりと立つことができない」と言われたのです。神のこの最後のお言葉から察すると、人間的には全く絶望的状況に陥っている弱小国ユダを舞台にして、神が何か全く新しいことを演じてみせようとしておられるように見えます。しかし、そのためには、その神に対するユダ王国側からの信仰も求められています。

② 差し迫った恐れに心が動転していたのか、アハズ王は神に対する信仰、すなわち信頼を積極的に表明しようとはしなかったようです。そこで神が更にアハズ王に、(神の言葉を信じるために徴を必要としているなら、どんなものでも良いから) その徴を求めなさいと言われたのが、本日の第一朗読の始めであります。しかしアハズ王は、神に徴を求めるなどという大それたことをしたら、後が怖いとでも思ったのか、「主を試すようなことはしない」といって、ここでもマイナス思考の方に傾いてしまいました。そこでイザヤ預言者が、神が折角大きな愛をもって呼びかけ、神の恵みによって末永く存続する国にしてあげようとしておられるのに、ダビデ王家の人々がマイナス思考にだけ傾き、人々にもどかしい思いをさせるばかりでなく、神に対しても同様にもどかしい思いをさせることを詰問した上で、神御自らダビデ家の人々にお与えになる、前代未聞の大きな奇跡的徴について予告します。それは、乙女が身ごもって男の子を産むという徴で、神はその子の名を「インマヌエル」とお呼びになるという預言です。ここに言われている「乙女」という訳語は、日本語では「結婚前の若い女性」というだけの意味ですが、聖書の原語では男と身体関係のない処女という意味で、年齢には関係ありません。神の力によってそういう処女から生まれる男の子を、神がインマヌエル(「神我らと共に」)と呼ぶというのですから、その処女が、神から直接に種を受けて神の子を産むことが、まだ甚だ漠然とではありますが、ここで予告されているのではないでしょうか。

③ イザヤ預言者が最初にアハズ王に告げた通り、シリアとイスラエルとの連合軍はユダ王国にまでは来ませんでした。シリアに対するアッシリアの侵攻が早かったからです。アッシリアは続いてイスラエル王国をも滅ぼしましたが、その前にアッシリアの神の祭壇を設けたユダ王国は、すぐには征服しませんでした。しかし、この世の人間の力関係や富にだけ目を向けていて、神信仰には生きていなかったユダ王国は、やがてバビロニアによって徹底的に滅ぼされ、生き残りのユダヤ人数万人はバビロンに連行されました。もしもアハズ王があの時すぐに神の呼びかけに従って、神信仰に生き始めていたなら、バビロニアの侵略も回避できたかも知れませんが、旧約の神の民は、バビロン捕囚の苦しみを体験した後に漸く神信仰に立ち返り、長い回り道をしてからではありますが、再びエルサレム神殿を建設して宗教的伝統を続けることができたのでした。

④ 17世紀の有名な科学者パスカルは、「信仰は一種の賭けだ」と書いていますが、あの世の神の存在も、今私たちの生きているこの人生の本質や意味も、忽ち過ぎ行くこの世のことしか知らない私たち人間の理性にとっては、理解し難い大きな神秘なのです。しかし、アブラハムのように、その神からの呼びかけに大胆に自分の人生を賭け、いわば神に下駄を預けて神のお言葉に従い、黙々と信仰に生きてみると、不思議に私たちの心が内面からゆっくりと変化し始め、やがて数多くの新しい体験にも裏づけを得て、神は確かに存在し、私たちを愛し、助け、導いて下さっている、と確信するようになります。神の霊が心の中に働いて私たちの知性を照らし、意志を導き強めて下さるからでしょうが、これは決して私一人の体験ではなく、信仰に生きた多くの聖人・賢者・先輩たちも同様に述懐しています。神信仰に自分の人生を賭けて生きようと立ち上がる最初の瞬間には、初めて水の中に飛び込む時のような勇気が必要です。しかし、神は全ての人に、母の胎内で泳いでいた胎児の時から、水に泳ぐ能力も与えておられるのです。生後長く使っていないと、その能力が眠っているかも知れませんが、水に入ってみれば目覚めて来て、自分にもこんなに素晴らしい能力が与えられていたのだと、神に感謝し喜ぶようになります。主は一度「翻って幼子のようにならなければ、誰も神の国に入ることはできない」とおっしゃいましたが、どうせ死んでしまうこの世の儚い命なのですから、その過ぎ行く自分を中心にして生きることは捨てて幼子のように大きな神の懐に抱かれ、神の愛の海に泳ぐ生き方に転向してみましょう。新たな自由の喜びと希望が、心の奥底から湧き上がって来るのを覚えることでしょう。

⑤ 本日の第二朗読の始めには、ユダヤ教の律法中心の自力的生き方から、神の愛の導き中心の福音的生き方に転向した使徒パウロが、自分を「キリスト・イエスの僕」と呼んでいますが、この「僕」や、聖母マリアが口になさった「婢」という言葉は、当時は主人の所有物とされ、主人の言葉に絶対的に従っていた奴隷のことを指していました。しかしパウロも聖母も、このような言葉を使いながら卑屈になっているのではなく、むしろ神の僕・婢であることに、大きな誇りと喜びと、この世の一切の物事からの自由とを覚えていたと思われます。それは、その言葉に続く「神の福音のために選び出され、云々」、「その御名を広めて全ての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。云々」などという言葉の言外にもにじみ出ています。間もなく盛大に記念されるメシア誕生の本当の喜びを深く味わうのも、パウロや聖母のように、神の僕・婢として生きようとしている霊魂たちなのではないでしょうか。

⑥ 本日の福音に登場するマリアの婚約者ヨゼフは、その愛するマリアが、恐らくヨゼフの承諾なしに三ヶ月余りナザレを留守にし、ユダヤの親戚の家に滞在した後に、戻って来て暫くしたら、懐妊していることが明らかになると、深刻に悩んだと思います。マリアの心の清さは疑うことができない。律法を中心に据えて、愛するマリアを訴え出ることも自分にはできない。散々悩んだ挙句に、マリアの名誉を傷つけないため、密かに離縁しようと決心したら、天使が夢に現れて、マリアが神の霊によって懐妊したのであること、マリアから生まれる男の子に「イエス」(ギリシャ語でイェホシュア、ヘブライ語で「神が救い」の意味)と名づけるようにという命令、またこの子が民を罪から救うことなどを告げました。眠っていた時に与えられた夢のお告げですから、マリアに与えられたお告げの時とは違って、すぐにヨゼフの承諾を求められることはありませんでしたが、目覚めてからヨゼフは、神が人間となって民を救う新しい時代が自分のすぐ身近で始まっており、自分がその協力者に選ばれていることを悟り、心からそのお告げに承諾し、天使の命じた通りにマリアを迎え入れ、一緒に神の子イエスを育てることにしました。人間メシアはそれによって、ダビデの子孫ヨゼフの系図に組み入れられ、数百年前から預言されていた通り、ダビデの子孫となったのです。

⑦ ヨゼフはこの後も、いつも夢で知らせを受けて黙々と行動するだけだったようで、聖書には一言もヨゼフの話した言葉が伝えられていませんが、マリアと一緒になった時から、ヨゼフも完全に「神の僕」となり、大きな誇りと喜びの内に神の導き中心に生活し始めたのではないでしょうか。クリスマスの内的恵みと喜びを最初に一番豊かに受けたのは、日々神の僕・婢として生活していたヨゼフとマリアであったと思います。私たちもその模範に倣って、それぞれ神の僕・婢として生きる決心を新たにしながら、今年のクリスマスを迎えましょう。アーメン。