2007年12月2日日曜日

説教集A年: 2004年11月28日待降節第1主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 2: 1~5. Ⅱ. ローマ 13: 11~14a. Ⅲ. マタイ福音 24: 37~44.

① 近年悲惨な事件や災害が次々とあまりにも多く発生しており、今年も、何も悪い事をしていないのに、テロ組織に命を奪われた人々や通り魔的犯罪の犠牲にされた人々、台風や地震などの自然災害によって命を奪われた人々、あるいは命は取り留めても貴重な生活手段を失って今だに深刻に苦しんでいる人たちが少なくありませんが、こういう不幸が多発すると、よく「神はなぜこのようなことを許すのか。神は何をしているのか」「神はなぜこんなに不公平で不幸な世界を創ったのか」などと言う人がいます。私はこういう言葉を聞きますと、コリント前書15章に書かれている、次の言葉を思い出します。「あなたの蒔くものは、死ななければ命あるものとなりません。あなたが蒔くのは後で成熟する体ではなく、麦であれ、他の何物であれ、ただの種粒を蒔くのです。すると神がお望みのままに体を与えて下さり、一つ一つの種にそれぞれの体をお与えになるのです」という言葉です。すなわち、私たちの今生きている世は仮の世であり、土の中のようなこの暗い苦しみの世での私たちの命は、言わば種や卵や蛹のような状態にあるのです。しかし、殻に閉ざされたこの状態がいつまでも続くのではなく、遅かれ早かれ死んで殻が破れると、私たちは日ごろ次の世のために心を準備し来た度合いに応じて、それぞれ自分の種に孕まれている命を伸ばし始めるのです。

② 蛹の時のあまりにも視野の狭い苦しい体験から神に理屈をこねてみても、相手にされません。それは黙々と耐え忍び、その忍耐によって次の世に芽を出す、本当の命を目覚めさせ強く育てるために必要な産みの苦しみであり、怠惰を戒める警告なのですから。死後に復活してから、もっと遥かに大きく遥かに自由な霊と真理の世界で永遠に続く本当の人生について、私たちはまだほとんど何も体験していません。それなのに、この小さな暗い仮の世の体験から、理知的人間理性が考え出した勝手な理屈を絶対視して、私たちの存在と命の大恩師であられる愛の神を非難したり、視野の狭い原理主義者たちのように、自分と違う考えや信仰に従っている人たちを迫害したりするのは、以ての外だと思います。もっと心を大きく広げ、神の愛の霊に生かされ導かれる大らかな人間になるよう心がけましょう。そのための道は、理知的論理を組み立て厳守しようとすることではなく、何よりも神から与えられる全てを感謝の心で受け入れ、神の御旨に従って生きよう実践しようとする素直な愛の感性、愛のセンスを磨くことだと思います。

③ ところで、全ての種や卵や蛹が皆次の段階での幸せな命へと移行できる訳ではないように、私たち人間も過ぎ行くこの暗い仮の世で、それぞれ自分なりに次の世のための霊的命を大切に心に宿し準備しているなら、その準備の度合いに応じて、死んで復活した後に仕合せになれますが、もしその準備期に次の世のための貴重な命を歪めたり殺したりしてしまったら、次の世では仕合せになれないことも起こり得ます。神から日々戴いている恵みは全て自分の勝手にできる所有物と思って感謝しようとせず、神からの呼びかけにも冷たく無関心であり続けるなら、あの世で永遠に生きる人間本来の美しい愛の命を著しく阻害し、あの世での自分の仕合せを自分で大きく損なってしまうのではないでしょうか。気をつけましょう。私たちの日々呼吸している空気も、私たちの飲んでいる水も、私たちの食べている食物も、いや「美しい水の惑星」と言われるこの地球も、宇宙全体も、元を正せば全て神の所有物であり、神の大きな愛により私たちに無償に委ねられている預かり物であります。この世でそれらを感謝のうちに利用しつつ、永遠の命に生まれ出るに相応しい心を育て、準備するための手段なのです。私たちは、神からの全ての恵みを日々感謝の心で受け止め、大切にしているでしょうか。

④ 本日の第二朗読の始めには「あなた方は今がどんな時であるかを知っています。あなた方が眠りから覚めるべき時が既に来ています」とありますが、ここに「時」と邦訳されているギリシャ語のカイロスという原語は、11月28日の午前9時というような科学的時間を意味するクロノスという言葉とは違って、特定の大事な時、待ち望んでいるチャンスなどを指しています。従って使徒パウロのこの言葉は、あなた方が眠りから覚めるべきチャンスが今既に来ています、という意味になると思います。私が中学時代に教わった漢文の先生は、素早く通り過ぎることの多いチャンスは、前頭には長い髪が垂れていて、その到来を待ち構えている人はそれを捕まえて新しい幸せな人生へと踏み出すことができるが、その時を逸すると、後ろ頭は禿げて毛がないためにもう捕まえることが難しい、と説明していましたが、私のこれまでの体験を振り返ると、全くその通りだと思います。教会は新しい典礼一年の始めである待降節第一の日曜日に、この言葉を朗読させて私たちの心の目覚めを促しているのですから、私たちもこのチャンスを大切にし、自分の人生目的を確認したり、自分の不足面や怠っていた側面などを反省したりして、あの世の永遠の人生のために、改めて心を整え、決心を新たに致しましょう。

⑤ 本日の福音は、主キリストが世の終わりについて語られた話の一部ですが、私たちが今生きているこの命も、この世の世界も決して永遠に続くものではない過渡的なものであることと、ちょうど卵の殻が破れた後に初めて、その生物本来の生命活動が始まるように、私たちの本当の人生、私たちが今見ているこの宇宙万物の本当の輝かしい幸せな状態も、終末の大災害と神の子キリストの栄光の来臨の後に始まることとが、ここでも暗示されています。私は聖書の告げているこういう予言を読む度毎に、使徒パウロがローマ書8章に書いている次の言葉を思い出します。「現在の苦しみは、私たちに現されるはずの来るべき栄光に比べると取るに足りないと、私は思います。被造物は神の子らの現われを、切なる思いで待ち焦がれているのです。被造物は虚無へと服従させられていますが、それは自分が望んだからではなく、そうさせた方の御旨によるのであり、同時に希望も与えられています。すなわち被造物もやがて腐敗への隷属状態から解放されて、神の子らの栄光の自由に参与するのです。全ての被造物が、今もなお共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。云々」という言葉です。ここで「全ての被造物」とあるのは、この宇宙万物を指しており、「神の子ら」とあるのは、神の子キリストの命に参与して、栄光の輝きの内に復活する人々を指しています。

⑥ 本日の福音の始めの方の、37節と39節には、ギリシャ語原文では、「人の子の来臨(パルウシア)」という言葉が二度も登場していますが、ローマ皇帝の栄光に輝く行幸などを指す時に使われる、この来臨という言葉は、ここでは神の子キリストの栄光に満ちた来臨を意味しており、日本語の「人の子が来る」という邦訳では、甚だもの足りなく感じられます。ところで、ノアの大洪水の時のように、食べたり飲んだり娶ったり嫁いだりして楽しんでいる最中、全く突然に襲来する終末の大災害に、日ごろ神の子の命に結ばれ生かされている人々は、残されて神の子キリストの栄光に参与できますが、日ごろ神からの呼びかけを無視して、やがて滅びるこの世の生活、この世の力だけにより頼んでいた人々は駆逐され、滅びへと堕ちてしまうのです。主が私たちの心の目覚めのために語られたこれらのお言葉をしっかりと心に銘記し、その時のために心を備えていましょう。