2007年12月16日日曜日

説教集A年: 2004年12月12日待降節第3主日(三ケ日)

朗読聖書:  Ⅰ. イザヤ 35: 1~6a, 10. Ⅱ. ヤコブ 5: 7~10.Ⅲ. マタイ福音 11: 2~11.

① 待降節第3の日曜日は、悔い改めて主の来臨のために心を準備する待降節の期間が既に半分以上過ぎ、降誕祭を大きな喜びの内に迎える日が近いので、教会典礼の上では「喜びの主日」とされています。昔日本でもラテン語で歌われていた入祭唱は、”Gaudete in Domino semper” (主にあって喜べ)という言葉で始まっていますし、第一朗読には、間もなくバビロンの捕囚から解放されて故国に戻り、繁栄を回復する時が近いことを告げたイザヤ預言者の、「喜ぶ」という動詞を多用している、明るい希望と喜びに溢れた予言が読まれます。また集会祈願にも同様に「喜び」という名詞が2回も登場しています。

② 本日の福音には、洗礼者ヨハネが、投獄されても尚自分を慕って監獄にやって来る弟子たちを主キリストの許へ派遣して、質問させる話が語られています。20世紀にプロテスタント聖書学者たちが、獄中で弟子たちからイエスのなさっていることを聞いたヨハネは、そのイエスが果たしてメシアなのかと、疑念を抱くに到ったのではないかという見解を広めたら、カトリック者の中にもその解釈に同調する人たちが現れましたが、その人たちは、マタイ3章に収録されている洗礼者ヨハネがファリサイ派とサドカイ派の人々に語った話の中では、「斧は既に木の根元に置かれている」などと、来るべき神の怒りが強調されており、聖霊と火によって洗礼をお授けになるメシアは麦は倉に納めるが、籾殻は消えることのない火で焼き尽くす恐るべき裁き主であると説かれているが、これが神から啓示された洗礼者ヨハネのメシア像なのに、弟子たちから聞くナザレのイエスは、そんな恐るべき裁き主としては活動していないので、「来るべき方はあなたでしょうか。それとも他の人を待たなければなりませんか」と弟子たちに尋ねさせたのだ、と説明しています。

③ 私が神学生であった時にドイツ人司祭から聞いた話ですが、この新しい見解を聞いたカトリックの聖書学者たちは、すぐに次のように反論しました。マタイ3章にあるヨハネの説教は、東方の博士たちが星に徴が現れたからといってメシアを拝みに来た時にも、ベトレヘムにメシアを生まれるという預言のあることは知りながら、調べてみよう、拝みに行こうなどとせずに、いつまでも無関心を装ってこれまで通りの生活を続け、心を改めようとしていないユダヤ社会の指導層に宛てて、異常な程強く悔い改めの必要性を説いた説教であって、それが洗礼者ヨハネのメシア像の全てではない。その証拠に、同じマタイ3章の後半に、ヨハネはイエスに「私こそあなたから洗礼を受けるべきなのに、云々」と話して、イエスが誰であるかをはっきりと知っているし、ヨハネ1章では、「見よ、神の小羊を」と言って弟子二人を主の御後に従わせている。同時にこの「神の小羊」という表現で、イエスが単に恐るべき審判者だけではなく、世の罪を取り除くために殺される運命にあることも知っていたと思われる。更にヨハネ3章では、ヨハネは投獄される前に既に弟子たちから、イエスが多くの人に洗礼を授けており、「誰も彼もその人の方に行く」ことを聞いて大いに喜んでおり、「花嫁をもらうのは花婿である。花婿の友はそばに立ち、耳を傾け、云々。あの方は栄え、私は衰えなければならない」などと話している。これらのことを皆総合して考えると、当時荒れ野で育児も担当していたエッセネ派の所で成長し、旧約の預言書にも精通していたと思われる洗礼者ヨハネは、イエスの活動がメシアについての預言通りであるのを喜び満足していたと思われる。それで、弟子たちをそのメシアの方へ行かせようとしたが、ある弟子たちはなかなか行こうとしないので、弟子たちの持ち出す疑念を自分からの質問として主の所に持って行かせ、主と直接に面談させて、その質問に対する主のお返事を自分に報告させたのだと思われる。主のお返事をその弟子たちが正しく理解していないようであるなら、自分がそれを補い解説できるように、というような反論でした。

④ 主の方でも、ヨハネのこの意図は察知しておられたようで、その弟子たちが主の御許で現実に見聞きした活動が、イザヤ預言者がメシアについて預言した通りのものであることを、獄中のヨハネに報告するよう答えておられます。そして「私について躓かない人は幸いである」と一言付言しておられます。その弟子たちのその後については何も述べられていませんが、遅くとも洗礼者ヨハネの殉教後には、主がメシアであることを認めるに到ったのではないでしょうか。彼らが御許から去った後、主は洗礼者ヨハネについて群衆に話しておられます。それによると洗礼者ヨハネは、神の言葉を民に伝える単なる預言者以上の特別な預言者なのです。主はそれについて旧約のマラキ3章始めに読まれる預言の言葉と、出エジプト記23章の預言の言葉とを合せて引用しながら話されたようですが、既にキリスト以前のユダヤ教のラビたちも、この二つの預言を合せて引用し、メシア出現に先立って神から特別な使者が派遣されて来ると説いています。主はその特別の使者が洗礼者ヨハネその人であることを、ここで言明なされたのだと思います。

⑤ しかし、主が最後に話された「天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」という謎めいたお言葉は、どういう意味でしょうか。私は勝手ながら、主がここで話しておられる「天の国で最も小さな者」とは、死後永遠に続く神の愛に完全に浄化され、光栄に輝いている天国の住人だけでなく、神の子キリストが制定なさった洗礼を受けて、既にこの世で「神の子」としての新しい命に参与している私たちをも指していると思います。使徒パウロは受洗して主キリストの命に内的に参与している信徒を、ガラテア書6章やエフェソ書2章で神によって創られた「新しい被造物」「新しい人間」と呼んでおり、コリント前書3章やコリント後書6章などでは「生ける神の神殿」と呼んでいます。旧約時代最後の預言者ヨハネは、神の啓示に基づいてご自身が予告した「聖霊と火による洗礼」を、この世ではまだ受けなかったようですから、その限りでは三位一体の名において受洗し、神の子キリストの命に内的に参与している私たちは、この世で生活していた時の洗礼者ヨハネよりも、神の御目に偉大な存在とされているのではないでしょうか。人間として偉大なのではありません。神の御目に貴重な器・道具と思われ、特別に愛されているという意味で偉大なのではないでしょうか。ここに、私たちキリスト者の本当の尊厳があると思います。

⑥ しかし、使徒パウロがローマ書7章と8章やその他の所で書いているように、受洗した人たちもこの世に生きている限りは、自分の内にまだ「肉」の原理、「肉」の思いを抱えており、それらと新しく神から与えられた「霊」の原理、「霊」の思いとの対立抗争に苦しまなければなりません。それは絶えず自分の心の中に繰り返される葛藤で、私たちは洗礼の秘跡の恵みによって日々その「肉」の原理に死に、神の霊に内面から生かされるように努めなければなりません。ですから使徒ヤコブも本日の第二朗読の中で、「主が来られる時まで忍耐しなさい。農夫が、秋雨や春雨の降るのを忍耐しながら待つように」などと勧めています。神の偉大な恵みの種は、洗礼によって既に私たちの心の土壌に蒔かれており、私たちの魂は神の神殿となっているのです。その種がどのように大きく成長し、どれ程豊かな実を結ぶかはまだ現れていませんが、心を堅く保って忠実に生き、忍耐の内に待ち続けましょう。待降節は、その決意を実践的に新たに固める時でもあります。明るい希望と忍耐の恵みを祈り求めつつ、本日のごミサを捧げましょう。