2008年1月6日日曜日

説教集A年: 2005年1月2日主の公現(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. イザヤ 60: 1~6. Ⅱ. エフェソ 3: 2, 3b, 5~6. Ⅲ. マタイ福音 2: 1~12.

① 本日の福音に登場する星がどのような星であるかについて、私は1970年1月以来各地でなした講演や説教の中で、ウィーン天文学研究所長ドキエッポ教授の綿密な研究に基づいて説明しており、それは31年前に発行した拙著『一杯の水』の208頁から216頁の中でも「博士たちの星」と題して詳述して置きましたので、皆様も既に読んでおられると存じますが、わが国ではまだドキエッポ教授の新しい天文学的研究のことを知らずにいる人が多いようですので、久しぶりに本日の説教の中で、その主要点について簡単に紹介してみましょう。

② マタイ福音書第2章に述べられている「その星」が、彗星でも、老化した星の原子爆発によって一時的に明るく輝いて見える新星でもなく、木星と土星とが重なって大きく見える相合現象であろうということは、既にかなり以前の頃から有識者たちの間で言われていました。彗星は、キリスト時代の観測記録から拾うと、紀元前44年3月のユリウス・カエサル暗殺の日と、紀元前17年、ハーレー彗星が見えた紀元前12年と、紀元後66年のネロ皇帝によるキリスト者迫害の直前頃に見られただけで、一般に不吉な徴と考えられており、これを見て東方の博士たちが拝みに来たとは思われません。次にNovaといわれる新星(星の原子爆発)は、紀元前134年と紀元後173年に現れていますが、キリスト時代には観測されていません。それで、第三の木星と土星の相合現象がキリスト時代に観測されていたかの問題について、考察してみましょう。

③ この現象が805年毎に地球から観測されることを最初に突き止めたのは、ガリレオと同時代の天文学者ケプラーでした。彼はユダヤ教に、「木星と土星とが魚座の中で相会する時、メシアが現れるであろう」という、ラビ・アバルバネルの予言が言い伝えられていることを聞いて、木星と土星の軌道・周期を精密に計算し、彼が32歳の時、1603年12月18日の朝早くにプラハで、魚座を背景とするその相合現象を実際に観測し、時間を書き入れた観測記録を絵にして残しています。そして前人未到の天文学的計算をなした後、紀元前7年にも同様の現象が観測された筈だと書いています。

④ ドキエッポ教授によると、現存する四つのバビロニアの暦はいずれも断片的ですが、古代の占星術の概要を伝えており、それによると木星は最高神の星とされており、土星は幸福の王の星で、同時にパレスチナ人やイスラエル人の守護神とされているそうです。また各星座は、それぞれ地上の特定国のシンボルとされ、魚座はパレスチナまたはユダヤのシンボルと考えられていたそうです。邦訳のマタイ福音書に「博士たち」と訳されているマゴイは、太古は一部族の呼称でしたが、後にはバビロニアで星の観測などに従事している貴族的知識人たちの呼称となり、彼らは既に前9世紀頃から星の観測をしていたようです。前8世紀の中頃に活躍したアモス預言者は、バビロニア占星術の思想にかぶれて、土星を自分たちの神として拝むイスラエル人を、アモス書5:26の中で批判していますが、当時のマゴイは、今度木星と土星とが重なって昇る時、その背景となる星座の示している国に、偉大な王、世界の救い主が生まれると信じていたそうです。前述のラビ・アバルバネルの予言は、この思想に基づくものだと思われます。

⑤ 二つの星が紀元前7年のいつ重なって昇ったかについては、既に天文学者リープハルトが、それがこの年に3回あったことをその月日と共に1954年の神学雑誌に発表していますが、ドキエッポ教授の新たな一層緻密な研究はその研究を少し訂正して、前7年の3月15日、4月4日、9月15日の3回としており、いずれも早朝で魚座を背景にして昇っています。なお教授は、マタイのギリシャ語原文にen te anatole と単数で書いてあるのは「昇る時に」と訳すべき天文学上の専門用語で、en tais anatolais と複数で書いてある時の「東方で」というのとは、少し意味が違うと指摘しています。

⑥ 前7年に魚座を背景にして木星と土星とが重なって昇るのを観測したマゴイは、祖先代々の古い伝えに基づいて世界の救い主がユダヤに生まれたと考えたと思います。しかし、春に見られた二回の現象は二つの星の重なっていた時間が短くて、一緒に並んで昇ったという印象を与えたかも知れませんが、三回目の9月15日の早朝には、二つがしっかりと重なり、一つの大きな星のようになって見えた筈だとドキエッポ教授は考えています。としますと、博士たちは9月15日の観測後に救い主の誕生を確信し、旅支度を整えて拝みに来たのだと思われます。その六ヶ月前の3月15日には、洗礼者ヨハネが生まれたのかも知れません。博士たちのいたシッパルからエルサレムまでは、ゆっくりと旅して一ヶ月程の道程ですが、旅支度に手間取り、エルサレムに着いたのは11月上旬頃になったかも知れません。星が先立って道案内をし、博士たちはその後をつけて来たのだ、などという御伽噺的想像はしないで下さい。彼らは、ユダヤに行って星にメシア誕生の徴が現れたことを知らせるなら、同じく救い主の到来を待ちわびているユダヤ人たちに喜ばれるであろうし、また数多くの預言者を輩出させたことで有名なユダヤでは、彼らの齎す知らせの合鍵となる預言もあって、人類の救い主を見出すことができるであろうなどと希望しながら、やって来たのだと思われます。

⑦ ヘロデ王の宮殿で、預言によるとメシアがベトレヘムに生まれることになっているという返事を得た彼らは、エルサレムの南9キロ程のベトレヘムに向けて旅を続けましたが、それは午後になってからのことだったようです。ベトレヘムに近づくと、東方で見た星が今度は南の方に見え、幼子のいる家の上に止まったように書かれています。ドキエッポ教授の研究によると、前7年には一回だけ11月12日の夜に、木星と土星が一つに重なって南方に止まって見える、非常に珍しい現象が発生しています。止まって見えるというのは、コペルニクスによって明らかに説明された現象で、太陽から地球よりも遠い軌道をめぐっている火星・木星・土星は、観測者がいる地球の軌道がUターンすると、暫くの間地球からは逆行しているように見えますが、その逆行現象のちょうど変わり目の時に一時的に生ずる現象です。察するに、星の観測の専門家であった博士たちは11月12日の夜にベトレヘムを間近にした地点で、木星と土星が一つに重なってある家の上で止まって見えるという、神の特別の配慮によって生じたこの真に珍しい現象に遭遇し、大きな喜びに溢れたのだと思います。生まれて一ヶ月余の幼児を見出すのも、難しくなかったと思われます。

⑧ なお、メシアの誕生が、ローマの不敗太陽神の祝日に合わせて12月25日に祝われるようになったのは4世紀からで、12月にはベトレヘムの羊飼いたちも野宿していませんから、メシアが9月頃に生まれた考えるのは聖書の記事にも適合しています。また博士たちは、ルネサンス時代の絵に描かれているような家畜置き場でメシアを礼拝したのではなく、ヨゼフたちは遅くとも住民登録が終わるとすぐ、ヨゼフの本家の大きな家に住んでいたでしょうから、博士たちもそこでメシアを礼拝し、その家に一泊させていただいたのだと思います。本日の福音にも、「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」とあるのですから。異邦人のためにも、このようにしてメシアに会う機会を提供して下さった神の至れり尽くせりの不思議な御摂理に感嘆し感謝すると共に、神は現代の私たちのためにも、また無数の異教徒たちのためにも、同じ愛の御摂理で配慮して下さっていることを堅く信じ、感謝し、何よりも神のお導きに従うように努めましょう。神の愛の摂理は、素直に信じて従う人々の中で働いて下さるのですから。アーメン。