2014年9月7日日曜日

説教集A2011年:第23主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願450 叙唱578~>
 第1朗読  エゼキエル書 33章7節~9節
 答唱詩編  35(1, 3, 4)(詩編 95・1+2, 5+6, 7+8)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 13章8節~10節
 アレルヤ唱 270(23A)(二コリント5・19)
 福音朗読  マタイによる福音書 18章15節~20節

   本日の第一朗読は、バビロン捕囚時代に、その捕囚地で預言者エゼキエルに与えられた神の言葉ですが、それによりますと、預言者は神から与えられた警告の言葉を、そのまま相手に伝えるだけであってはならないようです。例えば「悪人よ、お前は必ず死なねばならない」という神よりの警告を相手に伝えるだけではなく、預言者自身もその人に警告し、その人が悪の道から離れるように説得しないなら、神からその責任を問われることになる、というのです。自分一人だけで神の掟を忠実に守り、神に喜ばれる人間になろうとしてはならないという、こういう神のお言葉を読みますと、私は神学生時代にドイツ人宣教師から「必ず少なくとも一人か二人に自分の受けた信仰の恵みを伝え、手をつないで天国に行こうとしなければ、天国の門前でその怠りを咎められるでしょう」と言われたことを、懐かしく思い出します。

   20年ほど前に京都の知恩院で研修を受けた時、浄土宗でも教祖法然の教えに従って「お手つぎ運動」というのがあることを知りましたが、私たち人間が互いに助け合い補い合って愛の共同体を造ること、そして共同体となって生活し、神のおられる天国へと進んで来ること、それが神が創造の初めから望んでおられる、この世の人間の理想的生き方であると思います。聖書によりますと、人間は「我らにかたどり、我らに似せて創ろう」と仰せになった三位一体の共同体的愛の神に特別に似せて創られた存在であり、神のように共同体的愛の内に他者と共に生きることが、全ての人間が神から受けている使命だと思います。現代の社会には個人主義が盛んですが、自分一人で救われようとする考えを放棄して、一人でも多くの人と、特に今苦しんでいる人たちと内的に手をつなぐ連帯精神を大切にし、そういう隣人たちのために日々自分の祈りや苦しみ、あるいは小さな不便や節約などを喜んで献げつつ生活するよう心がけましょう。すると不思議に神の導きや助けを体験し、実感するようになります。神は人目に隠れたそのような小さな実践や祈りに、特別の関心をお持ちのようです。

   本日の第二朗読も、この立場で理解しましょう。使徒パウロの考えでは、神から与えられた律法や掟は全て、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。ここで言われている「隣人」は、現実にはいろいろと数多くの罪科や欠点を抱えていて、自分とは考えも好みも大きく異なる、真に付き合い難い人間であるかも知れません。しかし、そういう隣人の中にこそ神が隠れて現存し、そっと私たちに御眼を向けておられるのです。その人の行いや言葉を自分の好みや理知的考えで批判したり退けたりする前に、まず神が私から求めておられると思われる自己放棄や苦しみを喜んでお献げ致しましょう。それからその隣人が神信仰に成長して仕合わせになるために必要と思われることを、進んで提供することに努めましょう。それが、神の求めておられる「隣人を自分のように愛する」ことだと思います。

   本日の福音の前半には、こういう兄弟愛の生き方に背く罪の中に留まり、自分中心に生きようとしている信者に対する対処の仕方を教えた主のお言葉だと思います。2千年前のキリスト時代と同様に、いやそれ以上の大きな過渡期である現代には個人主義が盛んで、信仰の恵みに浴しても自分中心に生き続けている人は少なくないと思われます。人間の心の弱さから教会や修道院の共同体内部になで浸透して来るそういう現実に対しては、主のお言葉に従って、何よりも祈りと愛の内に適切に対処するよう心がけましょう。本日の福音の後半に読まれる、「二人または三人が私の名によって集まる所には、私もその中にいる」という主のお言葉は、私たちの心に大きな慰めを与えます。復活なされた主イエスは、その復活の日の午後エマオへ行く弟子たちに出現なされた時と同様に、今も世の終りまでその復活体でこの世でも生きておられ、目には見えない私たちの集まりの中に現存しておられるのです。この事を堅く信じましょう。するとその信仰のある所に、不思議に主が働いて下さいます。私たちが少人数で捧げるこのミサ聖祭の中でも、主は実際に現存しておられます。そして主は今も、私たちが「心を一つにして求めるなら、私の天の父はそれを叶えて下さる」と確約しておられるのではないでしょうか。本日の福音に読まれるこのお言葉に信頼しつつ、私たちの願いを捧げましょう。


   第二ヴァチカン公会議後に刷新された典礼では、全ての日曜日は主の復活を記念し崇め尊ぶ日とされています。それは、2千年前の出来事を単に記念するという意味ではないと思います。もはや死ぬことのないあの世の命に復活なされ、度々弟子たちに出現なされた主イエスは、今もその同じ復活体で生きておられ、目には見えないながらも世の終りまでこの世の私たちに伴い、神出鬼没に私たちの間に現存しておられるのです。主は受難死によってこの世の人の目には見えなくなりましたが、しかし復活なされたあの世の命によって、神のように時間・空間の束縛を超えてどこにでも遍在する存在となり、私たちと共におられることを堅く信じましょう。私たちも、世の終りに復活した後には皆そのような神によく似た存在に成り、永遠に神と共に感謝と愛の内に生きるようになるのですから。それが、創世記に「我らにかたどり、我らに似せて創ろう」とある、神の意図しておられた本来の人間像であると思います。神のその大きな愛に感謝しながら、本日の感謝の祭儀を捧げましょう。