2014年9月21日日曜日

説教集A2011年:第25主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願454 叙唱578~>
 第1朗読  イザヤ書 55章6節~9節
 答唱詩編  18(1, 4, 8)(詩編 145・1+3, 8+9, 17+18)
 第2朗読  フィリピの信徒への手紙 1章20節c~24節,27節a
 アレルヤ唱 270(25A)(使徒言行録16・14b参照)
 福音朗読  マタイによる福音書 20章1節~16節

   本日の第一朗読には、「私の道はあなたたちの道と異なる」「私の思いはあなたたちの思いを高く越えている」「天が地を高く越えているように」という神の御言葉が読まれます。私たち人間は、罪に穢れ煩雑に乱れているこの世の人間社会での体験を基準にして、自分の人生や社会などを考えますが、それは全宇宙を創造し、大きな愛をもって統括しておられる神のお考えとは、雲泥の差があると思われます。それで信仰生活・精神生活においては、人間たちがその日常体験に基づいて理知的思考で作りあげた「常識」や「社会的通念」という尺度にも気をつけましょう。私たちが自分の人生の中心・導き手として崇めている神のお考えは、しばしばこの世の人間たちの考えとは大きく異なっているからです。

   私がローマに留学していた1960年、すなわち第二バチカン公会議の直前頃に、ローマのグレゴリアナ大学布教学部の某教授はその講義の中で、現代の私たちは「諸宗教」という言葉を頻繁に耳にするようになったが、神のお考えでは「宗教」は一つしかなく、自分もその立場で考えているというような話をしていました。全ての宗教は神の御前で皆一つの宗教であり、いずれ皆そうなるよう神から求められているのだ、と考えるこのような思想は、ローマでは第二ヴァチカン公会議を介して次第に広まり、公会議の終り頃には、公会議でも活躍したドイツ人神学者カール・ラーナーが、家庭や社会のため真面目な奉仕的精神で生きている異教徒や未信仰者たちを、「無名のキリスト者」として考える新説を唱道しました。

   主キリストはヨハネ福音書の10章に善い羊飼いの譬え話を語られた時に、「私には、まだこの囲いに入っていない羊たちがいる。私はそれらも導かなければならない。彼らも私の声を聞き分ける。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなる」と話されましたが、現代文明の発達で人類が一つ家族のように成りつつある今日のグローバル時代は、善い羊飼いの声を聞き分ける無数の人たちが、国籍や文化や宗派の違いを超えて、主キリストの下に一つの群れとなる時なのではないでしょうか。マタイ23:8~10によりますと、主は弟子たちに向かって、あなた方の師はただ一人、メシアだけで、あなた方は皆兄弟である。父と呼ばれたり師と呼ばれたりしてはならない、とお話しになり、ヨハネ福音書に読まれる最後の晩餐直前の洗足の時にも、「主であり師である私があなた達の足を洗ったのだから、あなた達も互いに足を洗わなければならない」とお命じになりましたが、カトリック教会の司教も司祭も主のこのお言葉通りに、下から全ての兄弟や人類に奉仕するようになる時代が、神の新しい働きによって到来するのではないでしょうか。神の霊に導かれていた公会議はそのことを感知していたのか、教皇の権限を強化せずに、むしろ信徒使徒職活動とその強化発展を高く評価し推進していました。主であり師である善い羊飼いが、2千年という長い歴史を生きのびてこの世の人間的社会的しがらみに纏われているカトリック教会という宗教組織を介してよりも、むしろ直接に救いを求める無数の羊たちに個別に呼びかけ、その御声に聴き従う者たちを救いに導かれる終末の時代が近いからなのではないでしょうか。私は、公会議の動向をそのように受け止めていました。

   2千年前のユダヤ教のサドカイ派やファリサイ派が、ユダヤ教会の伝統的組織や価値観にこだわって、神から派遣されたメシアの全く新しい働きや呼びかけを退けたような、人間中心の生き方にならないよう気を付けましょう。今あるカトリック教会の伝統的組織や価値観も、主キリストは全く新しい、もっと来世的全人類的なものに発展させようとしておられるかも知れないのです。主はペトロの岩の上に建てた教会に陰府の国が勝つことがないと宣言なさいましたが、その「キリストの教会」を、後年ローマで人間的社会組織や価値観の内に大きく発展した現存のカトリック教会の形態と同じもので、この形態は世の終りまで続くなどと考えないよう気を付けましょう。今ある形のカトリック教会が崩れても、主キリストの教会もミサ聖祭も存続し続けると信じます。マスコミによって広められているこの世的価値観や思想よりも、各人の心の中に働く主の御声に聴き従って、神中心に生きようとする人の数が、これからは益々増えるのではないでしょうか。日本で1958年に生まれ今では国際的に広まりつつある、キリストの原始福音に従おうとしている幕屋運動の信仰者たちの、月刊誌『生命の光』所収の体験談を読んでいますと、主の聖霊がカトリック教会外のその人たちの間で活発に働き、多くの人に奇跡的癒しや救いの恵みを体験させて下さっているように思われます。

   預言者エレミヤ時代のユダヤ人祭司や知識人たちは、ダビデ王に与えられた神の言葉や申命記などに基づき、エルサレムの神殿は永遠で敵に占領されることはないと信じていたので、その神殿が北から来るバビロニアの大軍によって廃虚とされることを預言したエレミヤを迫害しました。神はその時のように、今の形のカトリック教会をも崩壊させて、新しい形のものへと発展させようとなさるかも知れません。人間が造り上げた古い固定化した観念ではなく、神からの新しい導きに希望をもって従うよう心がけましょう。これからの終末時代は、各人が復活の主キリストの新しい呼びかけに聴き従うべき大きな過渡期であると思います。

   先週の火曜日に新しい野田首相が、原発問題については科学者を交えた新しい検討組織を発足させると表明したのを聞いて、まだ不安は残るものの希望をもって祈っています。私は福島の原発事故は津波による天災だけではなく、人災でもあったと考えています。わが国の地震史についてはかなり詳しい研究がなされており、私も以前そのような著書を買って読んだことがありますが、東京電力会社が福島県に原発を造った時は、過去百年前頃までに発生した地震や津波を想定して、それに耐え得るように原発を建設したのだそうです。それで福島原発事故の発生が想定外の自然災害によると説明された時、海外からは遠い過去の災害を想定しなかったからではないか、という批判が寄せられたそうですが、それは全くその通りであると思います。オランダはその原発を建設する前に、過去1800年にまで遡って建設地の地盤や自然災害などを調査したそうですが、東電ではそこまで遡った慎重な調査と災害対策はしていなかったようです。平安前期の西暦896年の貞観(じょうがん)三陸地震にまで遡って研究し、高さ15mの津波にも耐え得るような基盤造りをしていたら事故は起こらなかったでしょうが、東電では経費削減を優先して、そのような大規模工事を怠っていたようです。

   友人の手島佑郎氏から貰って読んだ『福島第一原発事故、衝撃の事実』と題するこの本によりますと、IAEA(国際原子力機構)の原発重大事故管理ガイドでは、重大事故が発生した時には緊急時ディレクター、すなわちその発電所の所長か現場にいる技術専門者に大きな権限が付与されることになっているそうですが、国会が定めた日本の法律では、原発で事故が発生した時には(原発に対して素人である)内閣総理大臣が事故対策本部長になっているのだそうで、現場の専門家が電源が失われたのですぐにベント(すなわち原子炉の温度を下げるための排気)や海水の注入などを願っても、それがよく理解されずに拒否され、すぐに実施していれば事故は避け得たかと思われるのに、翌日すなわち12日の午後250分頃になってから漸く許可が下り、それが東電から通報されたのは、318分頃になってからだそうですから、遅れ遅れのこのような対応のために、336分に1号機建屋は水素爆発を起こしてしまいました。その後も全ては後手後手になって、原発事故は大きくなってしましたが、政府も東電のトップも、国際原子力機構の重大事故管理ガイドのことは念頭に置いておらず、無視していたようです。この本の著者は最後に、原発は火のようなもので、火は人間の生活に非常に有益ですが、払うべき注意を怠ると真に危険で多くの人を死に追いやる危険なものにもなり兼ねないと述べています。この警告は、注目に値します。火事は恐ろしいから、火は一切使わないようにしようと主張して、人間の生活を極度に貧しい不便なものにするよりも、火の正しい扱い方についてしっかりと学び、それを厳しく遵守しながら生活を豊かにするのが、神の御望みに適う生き方であると思います。


   原発を一切廃棄させようとする署名運動が広まっていることは心得ていますが、神は、従来よりも遥かに大きな電源を必要としている現代世界のために原発の発明とその必要性とを認め、それを支えておられるのではないでしょうか。原発は大量の二酸化炭素を放出する従来の火力発電よりも遥かに効率がよく、昔とは比較できない程大きな電力を消費している現代文明の世界には、不可欠の電源であると思います。もちろん巨大な電源である原発は、火の使用よりも遥かに危険で、入念な注意力と技術とを必要としていますが、現代の人類は既にその技術を身につけて来ていると思います。風や太陽光線を利用する発電は一番クリーンですが、原発程の電源を得るためには物凄く広い土地と施設が必要ですし、それはごく少数の国でしか望めないと思われます。石炭も石油も遠からず枯渇する資源であることを考え、経済発展の目覚ましい中国もインドも、莫大な電源の必要性を痛感して、原発を数多く建設し始めると思われます。わが国の指導層も種々の懸念や怖れを克服して、賢明な選択に導かれるよう神の助けを願い求めましょう。