2014年9月14日日曜日

説教集A2011年:第24主日(三ケ日)

栄光の賛歌 信仰宣言<祈願452 叙唱578~>
 第1朗読  シラ書 27章30節~28章7節
 答唱詩編  93(1, 3, 4)(詩編 103・3+4, 8+13, 11+12)
 第2朗読  ローマの信徒への手紙 14章7節~9節
 アレルヤ唱 273(24A)(ヨハネ13・34)
 福音朗読  マタイによる福音書 18章21節~35節

   本日の第一朗読は、紀元前2世紀にシラの子イエスによって書かれた律法の解説書、「シラ書」あるいは「集会書」と呼ばれている聖書からの引用であります。レビ記19章には、「復讐してはならない」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である」という言葉が読まれますが、第一朗読はレビ記のこの言葉を、具体的に例をあげて解説していると思います。ここではその中に読まれる「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、願い求める時お前の罪は赦される」という言葉に焦点を合わせて、ご一緒に考えてみたいと思います。

   紀元前2世紀頃のエジプトやユダヤなどのオリエント諸国では、自由主義・能力主義的なギリシャ・ローマ文化が社会の各層に広まり、それまでの民族主義的伝統を弱体化させつつあった時でしたから、シラ書の著者はユダヤ人の将来に多少の危機感を抱き、伝統的律法の精神をしっかりと解説し、若者たちの信仰精神を神の教えによって真っ直ぐなものに鍛え上げようとしたのかも知れません。その時代に比べると、個人主義・自由主義が普及して各種の共同体精神が育ちにくく、内面から崩れつつある現代のグローバル社会には、各人の価値観も善悪判断の視点も極度に多様化しつつありますから、もう危機感どころか絶望感さえ痛感している人たちが少なくないかも知れません。毎年自死する人の数は、わが国では3万人を超え続けており、全世界でも数十万人、いや百万人近い数になっているようです。それは毎年の交通事故死や、局部的戦争や災害による死者の数よりも遥かに多い数値であります。しかし、社会の中にはこの内的に崩壊しつつある現代社会の危機に目覚め、それを根底から精神的に建て直そうとしている人たちも増えつつあるようですから、私たちもその人たちに希望をつなぎつつ、聖書から新たに学ぶよう心がけましょう。

   第一朗読には「自分と同じ人間に憐れみをかけずして、どうして自分の罪の赦しを(神に)願い得ようか」という言葉がありますが、同じ時代に書かれた知恵の書12:22にも同様の言葉があり、他人を裁く時には自分たちが受けて来た神の憐れみを模範とするよう教えています。本日の福音に読まれる主イエスのお言葉は、旧約聖書に読まれるこれらの教えを一層はっきりと明示し、完成するものだと思います。自分に罪悪を為した兄弟・同胞を赦すようにと命じている律法の掟にだけ注目したペトロは主に、「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」という現実的具体的質問をしました。主はそれに対して「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」とお答えになりましたが、その時にはシラ書や知恵の書に読まれるような、遠い祖先の時以来人間の罪を幾度も赦し続けておられる、神の憐れみを模範にするようにという教えを思い浮かべておられたと思われます。それですぐに、1万タラントンの借金をしている家来を赦す王の譬え話をなさったのだと思います。1タラントンはおよそ6千デナリで、普通の労働者が16年半働き続けて受け取る賃金ですから、その一万倍もの莫大な借金を一人の家来が為すという話も、主君がそれを帳消しにしたという話も、この世の現実社会ではあり得ない話で、主はここで明らかに神の測り知れない憐れみを念頭に置いて、この譬え話をお話しになったと思います。神が憐れみによって幾度も私たちに赦して下さったように、私たちも神のその憐れみに感謝しながら、その寛大さに見習って兄弟姉妹を赦すように、というのが主のお考えなのではないでしょうか。

   マタイ福音書に読まれる山上の説教には、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる「天の父が完全であられるように、あなた方も完全な者になりなさい」という主のお言葉がありますし、ルカ福音に読まれる、主が教えて下さったままと言われている「主の祈り」では、神を「父よ」呼んで祈る人は、「私たちの罪を赦して下さい」という祈りのすぐ後に、「私たちも負い目のある人を全て赦しますから」と唱えるようになっています。もし人を赦さないなら、神はあなた方をもお赦しにならないという主のお言葉は、どの福音書にも読まれます。そして神が赦して下さったように、あなた方も赦し合いなさいという言葉は、使徒たちの書簡の中でも度々登場しています。2千年前のオリエント社会においてと同様に、いや恐らくはそれ以上に、複雑多様化している現代社会では、人と人との間に小さな誤解や思い違い、見解の違いや意見の対立が起こり易くなっていると思われます。神よりの聖書の言葉をしっかりと心に銘記しながら、神のように憐れみ深い人間、主キリストのように人の罪科を黙々と背負って、自分で償おうとする神の子になるよう努めましょう。神はそのような信仰と愛の人に注目し、どこまでも憐れみ深く恵み深い父であられると信じます。


   本日の第二朗読には、「生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」「生きるにしても死ぬにしても、私たちは主のものです」という言葉が読まれます。現代流行の個人主義や物質主義の立場で自分というものを理解していますと、これらの言葉は謎に包まれていて、幾度読み返しても理解できません。私たちの心の奥底に留まり続けている泉のような洗礼の秘跡の恵みによって、そういうこの世的自分というもの、「古いアダムの命」に死んでしまいましょう。そして「新しいアダム」キリストのあの世的命に生かされ、キリストの体の細胞の一つになって生きるように実践的に心掛けましょう。するとこの実践の積み重ねにより、これらの言葉は次第に心で解るようになります。それは頭で理解するこの世的な言葉ではなく、奥底の心が目覚めて実践的に悟るべきあの世的な言葉であると思います。その悟りの恵みも願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。