2016年3月13日日曜日

説教集C2013年:2013四旬節第5主日(三ケ日)



第1朗読 イザヤ書 43章16~21節
第2朗読 フィリピの信徒への手紙三 5章8~14節
福音朗読 ヨハネによる福音書 8章1~11節

    本日の第一朗読の中に読まれる、「見よ、私は新しいことを行う」「私はこの民を私のために造った。彼らは、私の栄誉を語らねばならない」という言葉は、大切だと思います。太祖アブラハムの時以来、神の声に従って歩むよう召された神の民は、その歴史的歩みや体験を通して、他の諸国民に神による力強い救いの業を示すと共に、神に感謝と讃美を献げつつ、諸国民をも真の神信仰と神による祝福へと、招き入れる道を準備する使命を、神から与えられていたのではないでしょうか。神は、ご自身の救いの業を証しするために造られたそのイスラエルの民の中で新しい救いの御業を為そうとしておられるのです。ですから今は、遠い「昔のことを思いめぐらさず」に、これから訪れる出来事や目前の現実の中に神の愛の働きを識別して、それを語り伝えるようにと、預言者イザヤを介してお勧めになったのだと思います。その同じ神は現代に生きる私たち神の子らにも、同様に呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちも、ただ現代の文明世界に自分を適合させ、その流れのままに生活するのではなく、小さいながらも神の僕・神の婢として、自分の置かれている現実の中で積極的に神の招きの御声を聞き分けつつ、神の愛を世に証しするよう神から召されているのではないでしょうか。神は私たちをも使って、今の世の人々のため何か新しい救いの業を為そうとしておられると思います。
    戦後の自由主義・民主主義教育の中で育った人たちが社会の大半を占めているわが国では、いつも人間中心・自分中心に考えて生活している人が多いと思いますが、神が聖書を介して繰り返し強く求めておられる、弱い者・貧しい者に対する思いやりや奉仕の実践を軽視し、旧約の預言者時代のユダヤ社会のように神からの怒りを蓄積する生き方を続けている人も少なくないのではないでしょうか。しかし、阪神大震災や東日本大震災に心が目覚めて、被災者への奉仕に積極的に活躍している人たちが多く輩出したこと、そしてその人たちが一般社会から高く評価されていることを考慮しますと、私たちの日本社会はまだまだ神から注目され、期待されていると思います。人々の心に働いているこの清い隣人愛の精神を大切にし、それがもっと広く社会全体に広まるよう、神の導きと恵みを祈り求めましょう。15年前に三ケ日のこの修道院が横浜の浜尾司教によって献堂された時、来賓として出席していた三ケ日町長が、式後にこの聖堂でなした祝賀挨拶の中で、「三ケ日町の住民たちのためにも、この美しい聖堂でお祈り下さい」とお願いになりました。私たちはその依頼に基づいて、始めは三ケ日町の住民のため、その2, 3年後からは浜松から豊橋に至るこの地元住民全体のために、毎年三カ月に一度ミサを捧げて神の憐れみと恵みを祈っています。本日のこのミサはその意向で捧げていますが、こうして十数年間も地元民のために祈っていますと、時々慈しみ深い神は小さな私たちのグループのこの祈りを特別にお喜びになり、その願いを聞き届けて下さるように思われてなりません。と申しますのは、この十数年間わが国の北でも南でも地震が頻発していますが、浜名湖周辺のこの地方では不思議なほど地震を体験していないからです。私はこれを神の特別な愛の徴と受け止めて、感謝しています。これからも特に小さな事柄を心を込めて立派に為し、神にお捧げ致しましょう。私の個人的体験を振り返りますと、神は人目につかない小さな事柄に特別に御眼を注いでおられ、そこを心を込めてよく為す人には、特別に報いて下さるように思いますので。
    本日の第二朗読では、使徒パウロが「私はキリストの故に全てを失いましたが、それらを塵あくたと見做しています」と語っていますが、この言葉も大切だと思います。有名なラビ・ガマリエルの恐らく最も優秀で熱心な弟子であったと思われる彼は、主キリストの使徒に転向したためにユダヤ教の指導層から敵視され、ユダヤ人・ファリサイ派律法学者としてのその誇りの全てを失い、一部の過激なユダヤ人たちから命をつけ狙われる人生を営んでいました。しかし、彼はそのこの世的失敗と損失の全てを、主キリストと一致して多くの人の救いのために神に献げ、喜んでその不安と苦しみに耐えていたと思います。本日の朗読個所で「私は、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかってその死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とも述べています。私たちもその模範に倣い、日々自分の受ける損失・生活の煩わしさ・病苦・誤解等々を、主キリストがこの世でお受けになった数々の苦難に合わせて、一人でも多くの人の救いのため喜んで耐え忍び、神にお献げするよう心掛けましょう。
    本日の福音に登場する律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通で捕えられた女を自分たちで裁こうとせずに、主の御前に連れて来て「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」と尋ねたのは、福音にもあるように、主を試して訴える口実を得るためであったと思います。以前にも話したかと思いますが、ローマ皇帝アウグストゥスが紀元14年に死ぬと、次の皇帝ティベリウスは極度に大きく多様化している皇帝政治に嫌気がさし、親衛隊長セヤーヌスに政治を委ねて、自分は10年余りナポリ郊外の静かな美しいカプリ島に引っ込み、悠々自適の生活を営んでいました。皇帝アウグストゥスの政策で当時のローマ帝国は平和と豊かさを満喫していましたので、それでも別に問題は生じませんでしたが、ただこのセヤーヌスはローマ人と価値観の全く違うユダヤ人が大嫌いで、紀元6年からユダヤを統治しているそれまでの総督の寛容な施政方針を改めさせ、紀元15年にValerius Gratusを、10年後の26年からはPontius Piratusをユダヤ総督に任命し、ユダヤ社会もユダヤ人もローマの考えに徹底的に従わせるため、わざと厳しい命令を発してユダヤ人の権限を大きく縮小させました。それで紀元5年から大祭司であったハンナスは、15年にその終身職から追放され、その五人の息子が次々と大祭司になりましたが、彼らも次々と追放され、遂に18年にハンナスの娘婿カイヤファスが大祭司に選ばれると、セヤーヌスが漸く何とか我慢してくれました。しかし、当時のユダヤ教では大祭司は終身職とされていましたから、表ではカイヤファスが、裏ではアンナスが大祭司という、大祭司が二人もいる異常事態になり、その間はローマ総督の裁判によるのでなければ、ユダヤ人の裁判で人を死刑にすることは禁止されていました。
    この状態は紀元30年以降にセヤーヌスが失脚し、ティベリウス皇帝が再びローマに戻るまで続きました。それで主キリストを死刑にするためにも、ユダヤ人たちは総督ピラトゥスに訴えなければならなかったのでした。しかし、主が30年の春に受難死を遂げ、ティベリウス皇帝がローマに戻ると、この状態は間もなく解消され、総督ピラトゥスはガリラヤのヘロデ王やユダヤ教の支配層とも仲良くするようになり、聖ステファノの殉教の時には、ユダヤ人の最高法院が死刑を宣告して処刑させることが出来ました。本日の福音にある事件は、セヤーヌスがまだ政治を担当していた時でしたので、ユダヤ人はいくらモーセの律法だからと言っても姦通の女を石殺しにすると、ローマの規定に反した罪で総督に訴えられることになります。しかし、姦通の女を勝手に赦すなら、モーセの掟を破る者としてユダヤ人の最高法院に訴える口実を与え兼ねません。律法学者たちはこういう両天秤にかけて、主を訴える口実を得ようとしたのだと思います。主は彼らのその企みを、黙々と指で地面に字を書き時間を稼ぐことによって、巧みに回避なさいました。彼らがしっこく問い続けると、「あなた達の中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい」と答え、また身をかがめて字を書き続けられました。これはモーセの律法に反していません。その内に訴えようとしていた人たちは、一人また一人と皆立ち去ってしまいました。最後に主は、「私もあなたを罪に定めない」と言って、女を帰しました。こうして主を訴える口実を得ようとしていた人たちの試みは、完全に失敗してしまいました。私たちも神と人への愛と忍耐をもって、時間をかけ賢明に対処するなら、悪の勢力からのどんな誘いにも打ち勝つことができると信じます。将来起こり得る事態に備えて、主のこのような模範も心に銘記して置きましょう。