2015年12月27日日曜日

説教集C2013年:2012聖家族の祝日(三ケ日)

第1朗読 サムエル記上 1章20~22、24~28節
第2朗読 ヨハネの手紙一 3章1~2、21~24節
福音朗読 ルカによる福音書 2章41~52節

    本日の福音には、過越祭の巡礼団に参加して両親と共に聖都エルサレムに滞在した、12歳の少年イエスの言葉が読まれます。福音書にはそれ以前のイエスの言葉が全く載っていませんから、この言葉が私たちに残された主イエスの最初の言葉になります。過越祭の祭りが終わって、ヨゼフとマリアは、ナザレからの巡礼団の男組と女組とに分かれてエリコ辺りにまで行ってから、一緒に野宿しようとしましたら、巡礼団の中に少年イエスがいないことに初めて気づきました。それまでは毎年、まだ小さな子供であったイエスは、母マリアと一緒に女組に属して巡礼していたと思います。それが当時の男の子の慣例でしたから。しかし、男の子は12歳頃から男組に移行する慣例になっていましたから、ちょうどその境目の時でしたので、マリアはイエスがヨゼフと共にいると考え、ヨゼフはまだマリアと共にいると考えて、帰路最初の一日分の道のりを巡礼団と共に歩いたのだと思います。
    ところが巡礼団の中にはいなかったので、野宿の後二人は巡礼団から分かれて、心配しながらエルサレムに戻り、夕刻になっても知人の家々を訪ね歩いて、少年イエスを捜しまわったのだと思います。そして三日目の朝に漸く神殿の境内にいるイエスを見つけ、母が「なぜ (無断で) こんなことをしたのですか。ご覧なさい。お父さんも私も、心配して捜していたんです」と、詰問したのだと思われます。それに対する少年イエスのお答えは、日本語の邦訳では、「どうして私を捜したのですか。私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」となっていますが、これは聖書の原文とは違っています。主はそのように話されたのではなく、もっと神秘的な言い方をしたのです。ギリシャ語の原文を直訳しますと、「なぜ私を捜されたのですか。自分の父のにいる筈だ、ということを知らなかったのですか」となります。「自分の父のにいる」では読者に解り難いという理由で、欧米の近代語でも、それに倣う日本語でも「自分の父の家にいる」と言葉を補って翻訳したのだと思われますが、それでは主イエスの真意が歪められたことになり、逆に「なぜ父の家に?」という疑問も生じて来ます。殊に本日ここで読まれた日本語訳のように、「私が自分の父の家にいるのは当たり前だということを」などと訳しますと、母のマリアもそのまま黙って引っ込みはしなかったと思われます。そんな事は「当たり前」ではないのですから。
    実際にはしかし、主イエスは12歳ながらよく考えた神秘的表現で、「自分の父のにいる」とお答えになったのだと思います。事によると、主はその時父母に大変なご心配をかけたことで、目に涙を浮かべておられたかも知れません。それで両親は、イエスの言葉の意味が分からないながらそのままに受け止めて、その言葉について尋ねることはしなかったのだと思われます。イエスはすぐ両親と一緒にナザレに帰り、それまで通り両親に仕えながら生活なされたようですが、聖母マリアは自分の産んだイエスが天の神を「自分の父」と初めて表現したことから、この時からイエスに対する態度を幾分変更し、これらのことを全て心に納め、改めて考え合わせるようになったのではないでしょうか。
    3年前にもここでお話した私の推察ですが、12歳になった少年イエスは、この巡礼の時にエルサレム神殿で生まれて初めて神からの呼びかけの声を聞き、神を「自分の父」と表現し始めたのではないでしょうか。そしてその父なる神の声に従って神殿に留まり続け、巡礼団と一緒に行動しなかったのだと思います。その行為が両親に大きな心配と迷惑をかけることは、後でお気づきになったと思います。しかし、人間社会の論理や通念で両親に迷惑をかけたことを謝ろうとはしませんでした。天の父なる神の御旨に従うことは、この世の人間社会の道徳や論理よりも大切な絶対の倫理で、神は時として敬虔な信仰者たちからも、多くの人の救いのためにこのような苦しみや犠牲をお求めになることを示すために、あのような解り難い神秘的返事をなさったのだと思います。私たちもこの世の社会的通念だけで善悪を判断したり行動したりしないよう気をつけましょう。天の父なる神は時々私たちの平凡な日常生活にも介入し、この世の人たちの誤解を招き兼ねない言行をさせて、思わぬ苦しみや犠牲を捧げることをお求めになります。神からのそのような突然のお求めにも適切に対応できるよう、何事にも神の御旨を第一に尋ね求める信仰と愛に生き抜く恵みを願い求めつつ、本日のミサ聖祭をお献げ致しましょう。

    幾度も繰り返し話していますが、私たちの住んでいる今の世界は、次第に終末的様相を濃くしています。創世記1章の28節には、人祖をご自身に似せて創造なされた神は、彼らを祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物を全て支配せよ」と言われましたが、現代では人類が70億人を超えて全世界に広まり、水や食物やその他の資源やエネルギーにも不足し始めています。創世記に読まれる神のお言葉は、そのまま実現していると考えてよいのではないでしょうか。私たちの人間の生活を極度に便利にし豊かにして来た現代文明の進歩も、飽和状態に近付いていると考えてよいと思います。ヨハネの第一書簡には、「終りの時」に反キリスト、即ち悪霊たちが多く現れて活動するかのように記されていますが、これからの時代にはこれまでになかったような新しい形の犯罪や災害が多くなるかも知れません。日々祈りによって神と聖母マリアにしっかりと繋がれていましょう。聖母が、悪霊のわなから私たちを護り導いて下さると信じます。ルカ福音21章に主は、キリスト再臨の徴として「民は民に、国は国に逆らって立ちあがり、また大地震があり、方々に疫病や飢饉が発生するであろう」「日と月と星にしるしが現れ、地上では海が逆巻き荒れ狂うので」「人々はこの世界に何が起こるのかと怯え、恐ろしさと不安のあまり気を失うであろう。云々」「これらの事が起こり始めたら、恐れずに頭を上げなさい。あなた達の贖いの時が近づいているからである」と話しておられます。主のこのお言葉を忘れずに、身近に何かの災害や危険が発生したような時には、恐れずにすぐ神に心を向けて祈る習慣を今から身につけていましょう。主の予言なされた出来事は既に世界の各地に起こり始めている、と考えてよいかも知れません。悪のいや増すところには、神からの恵みもいや増すと思います。恐れずに神との心の繋がり、羊飼いの声に聴き従う生き方を、日々の生活の中に根付かせるよう、実践的に努めていましょう。主または聖母は、そのように生きる信仰の人を必ず護り導いて下さいます。聖家族を記念し崇める本日のミサ聖祭の中で、現代に生きる多くの家族のために、その御保護を願い求めましょう