2015年11月15日日曜日

説教集B2012年:2012年間第33主日(三ケ日)

第1朗読 ダニエル書 12章1~3節
第2朗読 ヘブライ人への手紙 10章11~14、18節
福音朗読 マルコによる福音書 13章24~32節


   本日の第一朗読の出典であるダニエル書の最後10章から12章までは、ユダヤ人たちをバビロン捕囚から解放したペルシア王キュロスの治世第3年、即ちBC 557年に、ダニエル預言者が受けた終りの時についての長い恐ろしい幻示を伝えています。第一朗読は、その12章の始めに語られている、神の民に慰めと希望を与えるような美しい韻文であります。「その時、大天使長ミカエルが立つ」「多くの者が地の塵の中の眠りから目覚める。ある者は永遠の生命に入り、云々」とある言葉から察しますと、これはこの世の終りの時の事を述べている啓示だと思います。マタイ、マルコ、ルカのどの福音書でも、主イエスは紀元70年に起こったエルサレムの滅亡について予告なされた時に、すぐ続けてこの世の終りについても予告しておられます。もしエルサレムの滅亡がこの世の終りを小型の規模で示しているモデルであるとするならば、現代世界はそろそろ世の終りの時を目前にしていると思われます。

   エルサレムの滅亡を数十年後にしていた主キリストの時代に、神の御摂理はエルサレムの都をソロモン時代の時のように、いや恐らくはそれ以上に経済的に豊かにし発展させました。ヘロデ大王がギリシャ人の天才的建設師ニカノールを招致して、BC20年からエルサレム神殿とソロモン回廊を、美しいギリシャ大理石をふんだんに使ってそれまでのどこの国にもない程に美しく建設させると、当時の世界各国から、中国・インドに出入りする国際商人たちもシルクロードを通ってエルサレムに来るようになり、エルサレムの町はその人たちの神殿献金や滞在費などで、一時的にはかつてない程に豊かになっていたと思われます。しかし同時に、民衆の宗教教育を担当していたファリサイ派の人たちは、貧しさ故に彼らの宗教教育に出席せず神殿礼拝にも参加できない貧者や羊飼いたちを、神から忌み嫌われている人々として社会的に退け、救いを必要としている病人・罪人を救おうとしておられた救い主をも、発展しつつあるユダヤ社会の将来に不幸を齎す人物として断罪していました。

   現代科学の発達で人類史上未だかつてなかった程の豊かさ・便利さの中で生活しながら、全てをこの世の人間中心の判断基準で実証主義的に評価し、全世界の創造主・所有主であられる神の御旨には少しも従おうとしていない現代人たちも、2千年前のファリサイ派の人々と同様の価値観で貧しさを軽視し、外的豊かさだけを追い求めて生活しているのではないでしょうか。その生活態度の陰には毎年非常に多くの罪が犯されて、無数の胎児が殺害されたり、盗みや詐欺事件が横行したりしています。察するに、家族や社会の共同体構成員が相互に助け合って生活していた、これまでの時代に比べると、比較にならない程数多くの犯罪が、世界的規模に広がっている現代の自由主義文明社会の中で犯されているのではないでしょうか。メシアを十字架刑にした後のユダヤ社会もエルサレム滅亡の少し前頃には、悪霊たちによると思われる新しい犯罪の多発に悩まされたようですが、世の終わり前の人類社会ではそれとは比較できない程多く、これまでの社会にないような犯罪が多発するのではないでしょうか。日々あの世の助けを願い求めつつ、神の僕・婢として苦難に堪えて正しく生き抜きましょう。そうすれば悪霊たちから護られ、第一朗読にあるように「大空の光のように輝き、多くの人の救いとなる」ことができます。

   本日の福音の中で主は、「いちじくの木から教えを学びなさい。云々」「あなた方は、これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と命じておられます。マタイ16章の始めには、「天からの徴を見せてもらいたい」と願ったファリサイ派とサドカイ派の人々に対して、主が「あなた方は空模様を見分けることを知っているのに、どうして時の徴を見分けることができないのか」と詰問なされた話が記されています。そしてその後で弟子たちには、「ファリサイ派やサドカイ派の人々のパン種に警戒しなさい」と命じておられます。これらのことも一緒に心に銘記して、今の時の徴を正しく見分けるように心がけましょう。これは、主のご命令です。ファリサイ派やサドカイ派の人々は、旧約聖書あるいはモーセ五書の教えは細かい所までよく知っていました。しかし、人間の言葉で書かれているその教えや掟だけに心を向けて生活し、それらを書かせた神を遠い昔にお働き下さった存在、今は遠く離れた天上からこの世を見下ろし、主の掟を忠実に守る人には恵みを、守らない人には罰をお与えになる全知全能の存在と考えていたようです。その神から派遣された神の子メシアが、父なる神と共にすぐ目の前におられるのに、神のこの現存は少しも感知していませんでした。私たちにとって一番大切な信仰の能力は、眠らせたままにしていたのでした。これが、彼らに道を誤らせてメシアを十字架刑に処し、エルサレム滅亡という恐ろしい不幸に陥れたのだと思います。


   今の私たちは、神の身近な現存に対する能力を日々磨いているでしょうか。主は、終末現象が多発し始めている現代社会に生きる私たちには特別に、「これらの事が起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。私たちが毎日目撃している自然界や隣人の内に、特に日々何らかの形で見聞きする貧しい人、助けを必要としている人の内に、主キリストの現存を信仰をもって感知し、祈りや態度でその主に奉仕する実践に努めましょう。日ごろこのような信仰実践に心がけていますと、次第に今の時を正しく見分ける魂の能力も、聖霊の働きによって磨かれて来ます。私は個人的に、悪霊の接近や働きに対する魂の予感能力も鋭くなって、神の助けを祈り求めることにより受ける災いを回避したり、削減したりすることができるのではないか、と信じています。いずれにしろ、これからの時代には小さな信仰実践を数多く繰り返すことによって、あの世の神との魂の絆を太くし強めることが、何よりも大切だと思います。