2009年4月11日土曜日

説教集B年: 2006年4月15日、聖土曜日(三ケ日)

朗読聖書: 第二部の「ことばの典礼」では旧約聖書から七つの朗読があるが、その記述は省き、「感謝の典礼」の朗読だけにする。
Ⅰ. ローマ 6: 3~11.   Ⅱ. マルコ福音 16: 1~8.


① 今宵の復活徹夜祭の典礼では、光と水が大きな意味を持っており、第一部の「光の祭儀」では、火の祝別・蝋燭の祝別に続いて、罪と死の闇を打ち払う復活したキリストの新しい命の光を象徴する、新しい大きな祝別された蝋燭の火を掲げ、「キリストの光」「神に感謝」と交互に三度歌いながら入堂し、その復活蝋燭から各人の持つ小さな蝋燭に次々と点された光が、聖堂内を次第に明るく照らして行きました。そして、キリストの復活により、罪と死の闇に打ち勝つ新しい命の光が全人類に与えられたことに感謝しつつ、大きな明るい希望の内に、神に向かって荘厳に「復活讃歌」を歌いました。
② 続く第二部の「ことばの典礼」では、最初の創世記からの朗読を別にしますと水が主題となっていて、旧約聖書の中から水によって救われ助けられた出来事や、水によって恵みを受けることなどが幾つも朗読され、その度ごとに神を讃え神に感謝する典礼聖歌が歌われたり、神に祈願文を捧げたりしました。この第二部に登場する水は、いずれも罪と死の汚れや苦しみから救い出す、洗礼の水の象徴だと思います。続いて朗読されたローマ書6章の中で、使徒パウロは「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかる者となりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです。云々」と、洗礼の秘跡の意味について教えています。復活徹夜祭の第三部は「洗礼と堅信」の儀式で、多くの教会では今宵も洗礼と堅信の秘跡を受ける人が少なくありません。この聖堂でも、今年は伊澤嘉朗さんが洗礼と堅信の秘跡を受け、すでに受洗している私たちも、皆で洗礼の約束を更新する儀式を致します。そこで、洗礼の秘跡について、また水という洗礼のシンボルについて、少しだけ考えてみましょう。
③ 洗礼はただ今も申しましたように、キリストと共に死に、キリストと共に新しい命に生きる秘跡ですが、いったい何に死んで何に生きるのでしょうか。ローマ書6章によると、私たちの古い自分の命に死んで、キリストの新しい命、もはや死ぬことのないあの世の神の命に復活するのです。と申しましても、それは霊魂の奥底で進行する生命現象で、命そのものは目に見えませんから外的には何も分かりません。譬えてみれば、鶏の卵は受精していてもいなくても、外的には少しも違いません。しかし、受精卵は内に孕んでいる新しい命がだんだん成長して来ると、卵の外殻は同じであっても、何かが少し違って来るようで、それを識別する専門家には受精しているか否かが分かるそうです。同じように、キリストの新しい命を霊魂の奥に戴いて信仰に生きている人も、その命がゆっくりと成長して来ると、その内的現実の変化が外にもそれとなく現れるようになり、本人も次第に目に見えない自分の心の内的成長を自覚するようになるのではないでしょうか。
④ もちろん、洗礼は受けても、この世の古い命の外殻が残っている間は、まだ自己中心の古いアダムの命も残っていますから、「第二のアダム」キリストの新しい命 (神の命) は、その古い命と戦いながら成長しなければなりません。ですから、私たち既に受洗しているキリスト者たちも、毎年聖土曜日のミサ中に洗礼の約束を更新したりして、洗礼を受けた時の初心を新たにし、日常生活においても神の御前に信仰と愛のうちに生きるよう心がけていますが、こうして神から戴いたキリストの命を保持し続けていますと、やがてこの世の古い命の外殻が死によって壊れても、それによって解放された新しい永遠の命 (キリストの復活の命) に生き始めることができます。死は、この世の命に生きる者にとっては苦しみに満ちた終末ですが、霊魂がキリストの復活の命に生きている限りでは、神から約束された地への過越しであり、喜びの新世界への門出であります。今宵、神が世の初めから美しく整えて私たちを待っておられるその理想郷への憧れを新たにしながら、皆で洗礼の約束を力強く更新しましょう。「復活」という言葉はギリシャ語で「アナスタジア」と言いますが、それは勢いよく、力強く「立ち上がる」という意味合いの言葉です。今宵、私たちも主キリストと共に、古いアダムの命の中から勢いよく立ち上がって、神の命に生きる決意を新たに神にお献げしましょう。
⑤ 神の子主イエスは、罪と死の闇が支配するこの世の奴隷状態から人類を救い出すために、受難死によってご自身の外殻を破り、いわば水のような存在になられた、と申してもよいと存じます。天から降った水は、砂漠のように乾燥した荒れ野で苦しんでいる諸々の生き物を潤し、彼らに生きる力と喜びを与えながら、下へ下へと降りて万物の汚れを洗い流し、時には自分を真っ黒に汚して地に埋もれて行きます。主イエスも同様に、私たちの全ての罪を霊的に背負い、真っ黒な水のようになって土の中深くに、いやペトロ前書3: 19や「使徒信条」によれば、「陰府」の国にまで降って行かれたのではないでしょうか。「我に従え」という主のお言葉から察しますと、洗礼によって主と内的に一致し神の子として戴いた私たちも、自分に死んで水のような存在になり、水のように自由で無我な心になって全ての人を愛することを、主は望んでおられるのではないでしょうか。秀吉の軍師となって活躍した黒田孝高(よしたか) は、高山右近の感化を受けて大坂で受洗した4年後の1589年に剃髪して「如水」と号し、最後までキリスト教信仰に忠実に生き抜いたキリシタンですが、「如水」と号したのは、老子の教えの影響を受けたのかも知れません。老子は理想的人間像を、この世の人々と交わって濁る水のように生きる人物の中に見ていて、その濁りは静かにじーっと待っていると自然に澄んでゆく、などと書いています。天から一般庶民の世界に降り立ち、低きにいて良く遜り、多くの谷川の水を集めて大河になり、更に大海のように生きるのが、老子の憧れた理想的人間像だったのかも知れません。神の子キリストは、その人間像を見事に生きて見せました。私たちも、主の恵みに生かされながらそのような人間になるよう心がけましょう。