2014年1月26日日曜日

説教集A2011年:2011年間第3主日(三ケ日で)



第1朗読 イザヤ書 8章23b~9章3節
第2朗読 コリントの信徒への手紙1 1章10~13、17節
福音朗読 マタイによる福音書 4章12~23節

   本日の第一朗読は、紀元前8世紀に第一イザヤが告げた預言ですが、そこに「ゼブルンの地、ナフタリの地は辱めを受けたが」とある言葉は、ガリラヤ湖の北西地方に住んでいた二つのイスラエル部族が、ちょうどこの第一イザヤの時代にアッシリア軍に侵略され、ガリラヤ地方、サマリア地方に住んでいたイスラエルの他の諸部族と共に、アッシリア帝国の支配下に入れられたことを指していると思います。ゼブルンもナフタリも、太祖ヤコブの血を受けて生まれた子供の名前で、その子孫はそれぞれその名を部族名として呼ばれていました。ヤコブには四人の妻がいましたが、妻リアの血を受けたユダ族はイスラエルの一番南の地方、今のエルサレム近辺に定住しました。しかし、同じ妻リアの血を受けて最後に生まれたゼブルンの子孫と、妻バラの血を受けて最後に生まれたナフタリの子孫とは、イスラエルの一番北の地方に定住した部族となりました。

   なお、妻リアの血を受けてユダよりも一つ先に生れた長男レビの子孫は、そのレビ族に所属するモーセの規定によって、土地の分配を受けずに宗教行事を担当し、他の諸部族からの神への献げ物によって生計を立てていました。ユダ族出身のダビデ王がエルサレムを攻略して神の民の都とし、そこに契約の櫃を迎えて彼らの宗教的中心にすると、レビ族もユダ族と深く結ばれて生活するようになりましたが、ソロモン王の時代に実に豊かになったユダの地は、北方のガリラヤやサマリアの地に住んでいた他の諸部族と違って、残酷なアッシリアの侵略を免れることができました。イザヤ預言者はその時点で、ユダの地とは比較にならない程悲惨な状態に落されたゼブルンの地とナフタリの地、異邦人の土地と化したガリラヤを慰めるかのように、それらの土地がいつか将来に、「栄光を受ける」日が来ることを預言したのだと思います。預言者はこの時、数百年後にメシアがまずこれらの土地の人たちを病気などから奇跡的に癒し、これらの土地の人たちに神の国の教えを説く輝かしいお姿を予見したのだと思います。神は、信仰生活におけるこの世の人間的価値観を根本的に変革させるため、約束なされたその御子救い主を、社会的に軽蔑されていた貧しい無学な人たちの所に派遣し、神による救いの光がそこから大きく輝いて、多くの人の心を目覚めさせ、深い喜びと数々の内的恵みの内に、神中心に生きるように導こう、とお望みになったのだと思います。

   本日の福音の中で、マタイはイザヤ書にあるこの預言のことを思い出しています。主イエスは、洗礼者ヨハネが捕らえられたと聞くとガリラヤに退かれましたが、ご自分の故郷ナザレではなく、「ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに」お住みになったからです。そしてその時から主は、洗礼者ヨハネの後を受けて、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と人々に力強く呼びかけ、神の国の宣教をお始めになりました。主がなされた数々の奇跡の話は、ガリラヤとユダの諸地方だけではなく、遠く離れたシリアの諸地方にまでも語り伝えられ、ユダヤ人も異邦人も、数えきれない程多くの人が神よりの人・主イエスを一目見よう、そして自分たちの病人も癒してもらおうと、その御許にやって来ました。「闇の中を歩む民は大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。云々」というイザヤの預言は、その喜びの情景を描いています。そして主が宣言なされた「悔い改めよ。天の国は近づいた」というお言葉は、福音の本質を最も短く要約していると思います。人間たちが悔い改めれば、神による救いの恵みがやって来る、というのではありません。その救いの恵み、天の国は既に目の前に来ていて数々の癒しの恵みを与えている。だから、悔い改めて神中心の信仰生活へと転向せよ、という意味の宣言であると思います。

   本日の福音の後半は、主イエスがそのカファルナウムに住む若い漁夫たち4人を、ご自分の弟子としてお召しになった話ですが、彼らがすぐに、網も舟も父親も残して主のお招きに従って行ったことは、注目に値します。聖書の教えているキリスト教信仰の特徴は、神よりの招きに従って行動することにある、と申してもよいのではないでしょうか。まず「聖書を読め、聖書を読め」と言って伝道する人たちもいますが、しかし、奥底の心がまだ半分眠っていて、表面の理知的な精神だけが活発な人たちに聖書を読ませても、疑問に思うことが次々と生じて来て、神信仰へと踏み切れなくするのではないでしょうか。それではいけません。聖書が教えているのは、人間理性による自主的な真理探究の宗教ではなく、何よりも神よりの啓示や招きを素直に受け止め、それに従って行動する従順の信仰であり、その実践の積み重ねを介して神の啓示や真理に対する奥底の心のセンスや眼が次第に目覚め、磨かれて来る生き方であります。

   主に召された無学なガリラヤの漁夫たちは、よく分からながらも主のお言葉にひたすら従順に従い続けることにより日々多くの体験を積み重ね、ついには社会のどんな知識人たちにも負けずに主について証言し、宣教する偉大な使徒たちになったのではないでしょうか。主から修道生活へと召された私たちの歩む道も、同様だと思います。修道家族という共同体を造って生活するのですから、そこに様々の危険や対立を回避するための規則があるのは当然ですが、それはいわばガードレールのような手段で、それらの規則に背かないようにしているだけでは、主が私たち各人から期待しておられる香り高い修道的愛の実を結ぶことはできません。平凡な日常茶飯事の中での、主の声なき声に対する心の感覚を磨くことに努めましょう。そして主の招きに対する従順と神の愛の実践に心がけましょう。これが、私たちの信仰生活、修道生活にとって一番大切なことだと思います。私たちの心の仕合わせと喜びも、信仰の確証も、そこから生まれ育って来ます。本日のミサ聖祭の中で、そのための照らしと導きの恵みも主に願い求めましょう。

   先週火曜日の18日から今週の25日まではキリスト教一致祈祷週間で、私たちは毎日全てのキリスト者の一致のために神に特別の祈りを捧げていますが、これは米国聖公会からカトリックに転向したワトソン神父が1908年に始めた運動が、全教会に受け入れられて続いている祈祷週間です。同じころ、数多くの宗派に分かれてしまったプロテスタント諸派でも、相互によく話し合って組織や教えをできるだけ統合し、もっと相互に協力して福音宣教の実績を上げようとするエキュメニズムの動きが始まり、第一次世界大戦後には国際的に盛んになりましたが、当時のローマ教皇たちは、教皇庁の許可なしにカトリック者がその運動に参加しないよう、厳しく禁じていました。それは、大きな善意からではあっても、人間が主導権を取っていくら相互に話しあってみても、そこからはキリスト教諸派の一致は期待できず、主キリストの恵みを受けて改心した使徒パウロのように、あるいは本日の福音に登場している使徒たちのように、自分の考えも望みも無にして主の御意志一つに徹底的に従おうとしてこそ、人の力を遥かに超える神の恵みにより主キリストの権威とお定めの下でのキリスト教諸派の一致が実現するのではないでしょうか。聖母と使徒たちの取次を願い求めつつ、教会一致のための私たちの祈りを神におささげ致しましょう。