2010年10月10日日曜日

説教集C年: 2007年10月14日 (日)、2007年間第28主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. 列王記 5: 14~17. Ⅱ. テモテ後 2: 8~13.
     Ⅲ. ルカ福音書 17: 11~19.

① 本日の第一朗読である列王記によりますと、シリア王の将軍ナアマンがハンセン病にかかって苦しむようになったら、イスラエルから戦争捕虜として連れて来られ、ナアマンの家に下女として働いている女が、サマリアにいる預言者エリシャの話をして、その預言者に病を癒してもらうよう勧めました。それで将軍ナアマンは、イスラエル国王に宛てたシリア王の書簡をもらい、銀10タラント、金6千シケル、晴れ着の服10着など、預言者に差し上げる高額の贈り物を携え、数頭の馬や多くの随員を連れ、戦車に乗って神の人エリシャの所へやって来ました。ところが、預言者は入口に立つ彼を出迎えようとはせず、取り次いだ下男を介して「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば体は元に戻り、清くなります」と言わせました。世間一般の儀礼を無視したこのぶっきらぼうの言葉に驚き気を悪くしたナアマンは、「彼自ら出て来て私の前に立ち、神の御名を呼んで私の患部に触れて、癒してくれると思っていたのに」と言い、更に「イスラエルのどの川の水よりも、ダマスコの川の水の方がきれいだ」などと言って、預言者の元から立ち去りました。

② しかし、その時家来の者たちが近づいて、「あの預言者がもっと大変なことを命じたとしても、あなたはその通りなしたでしょうに。ヨルダン川で洗えば清くなると命じただけなのですから」と言って、その言葉を信じてその通りなすよう勧めました。それでナアマンは思い直し、ヨルダン川の水に七度身を浸して洗ったら、病は癒され小さな子供の体のように清くなりました。それでナアマンが随員全員と共に神の人の所に引き返し、真の神を信奉するようになったというのが、本日の第一朗読の話です。キリスト教の神は私たちから、修験道の行者たちがなしているような難行苦行や、数十日も続ける断食などを求めておられるのではありません。謙虚に従おうとする心さえあれば、誰にでもできるような簡単な実践を求めておられるだけなのです。ただしかし、罪に穢れている俗世間の価値観やこの世の幸せ第一の精神を脱ぎ捨て、何よりもあの世の神のお言葉に徹底的に従って生きようとする、神中心の価値観と博愛の実践意志とを切に求めておられます。その心のある所に神の救う力が働き、悩み苦しむ私たちを癒し、守り、導いて、周辺の人々や社会にも救いの恵みを豊かに与えて下さるのです。

③ 本日の第二朗読は、使徒パウロが愛弟子のテモテ司教に宛てた書簡からの引用ですが、「この福音のために私は苦しみを受け、遂に犯罪人のように鎖に繋がれています」とある言葉から察しますと、他の囚人たち数名と共にローマに連行されたパウロが、紀元61, 2年頃にローマで番兵一人をつけられ、自費で借りた家に丸二年間住むことを許されていた頃の書簡ではなく、ネロ皇帝によるキリスト者迫害により、67年頃に投獄されて、殉教を目前にしていた頃に書かれた書簡であると思います。従って、この書簡は使徒パウロの遺言のような性格のものだと思います。「神の言葉は繋がれていません。だから、私は選ばれた人々のために、あらゆることを耐え忍んでいます。彼らも、キリスト・イエスによる救いを永遠の栄光と共に得るためです」という言葉から察しますと、パウロは一緒に投獄されている人たちばかりでなく、獄吏や牢獄を訪れる人たちにも、最後までキリストによる救いと永遠の栄光を受ける希望とを説いていたのではないでしょうか。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。耐え忍ぶなら、キリストと共に支配するようになる。云々」の言葉は、殉教を目前にして、その牢獄で説いた福音の要約であると思われます。

④ 本日の福音は、主キリストによるハンセン病者たちの癒しについての話ですが、ナアマンを癒したエリシャと同様、主はここでも遠くから命令を与えただけで、病者の体に触れて癒されたのではありません。社会から公然と追放され、人里離れた所で死を迎えるようにされていた当時のハンセン病者たちは、その病気を社会の人に移さないため、人に近づいたり話しかけたりすることも禁じられていました。その極度の寂しさ故に、病者たちはよく群れをなし、互いに助け合って生活していたのかも知れません。夜にはそっと人里に近づいて、村人たちがキリストによる奇跡的治癒について話し合っているのを、密かに聞いていたことも考えられます。それでその主キリストがある村に近づかれると、10人のハンセン病者たちが遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて「イエス様、先生、私たちを憐れんで下さい」と願いました。主はそれを見て、一言「祭司たちの所へ行って、体を見せなさい」とだけおっしゃいました。万一ハンセン病が治った時には、祭司たちがそのことを確認し宣言すれば、社会復帰ができるからです。主は彼らの体に触れて癒されたのではありません。しかし、彼らはそのお言葉を聞いて、すぐにそれに従い、それぞれ自分たちの祭司の所へ出かけました。彼らの体は、この従順と実践行為の過程で癒され清くなりました。ゲーテは「奇跡は信仰の子である」と書いているそうですが、この信仰は、単に頭で全くそうだと考え信じているだけの言わば「頭の信仰」ではなく、神の言葉に従って実際に行動する意志的な「心の信仰」であり、心にその実践的信仰が働く時に、神の力が発動し奇跡的癒しが起こるのです。

⑤ 癒された人の一人は、自分の体が癒されているのを見て、大声で神を賛美しながら主の所に戻って来て、主の足元にひれ伏し感謝しました。その人はユダヤ人ではなく、サマリア人でした。それで主は、「清くされたのは十人ではなかったか。他の九人はどこにいるのか。この外国人の他に、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」とおっしゃいました。他の九人は、ユダヤ人だったのでしょうか。としますと、ファリサイ派が活躍していた当時のユダヤ社会では、この世で不幸を避け幸せになるためにも律法の厳守が異常なほど強調されており、ユダヤ人は皆子供の時から頭にそのことを叩き込まれていましたから、癒されたユダヤ人たちは、社会復帰が認められたら、今後は律法を守って幸せに暮らそうなどという、自分個人の嬉しい社会復帰と生活のことで頭がいっぱいで、恩人のイエスや神に感謝することなどは二の次とされ、心に思い浮かばなかったのかも知れません。ファリサイ派の宗教教育では、神は無限に清い存在で、罪に穢れているこの世からは遥かに遠く離れておられる方であるかのように教えられていたでしょうから。しかし、これは人間が勝手に作り上げて広めたこの世中心の思想で、神は、特に主キリストの来臨によって、私たちの想像を絶するほど私たちの身近に隠れて現存し、苦しんでいる人たちを救おう、助け導こうとしておられるのです。何よりもその神の愛と働きに心の眼を向け、感謝の心で生活するよう心がけましょう。

⑥ 主は大声で神を賛美しながら感謝するために戻って来たサマリア人に、「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」とおっしゃいましたが、このサマリア人は律法のことは知らないので、ただ現実生活の中での神の働きや導きに心の眼を向けていたのではないでしょうか。本日の日本語福音には「その中の一人は、自分が癒されたのを知って」と翻訳されていますが、ギリシャ語原文では「癒されたのを見て」となっており、この「見て」という動詞には、単に体の目で見るブレポーという言葉ではなく、心の眼で洞察するという意味合いのエイドンという言葉が使われています。目に見えない神の臨在や導きなどを心で鋭敏に感知したり洞察したりする時に、聖書で用いられることの多いこのエイドンという動詞を忘れずに、私たちも心の眼や心のセンスを磨くよう心がけましょう。私たちが日々無意識のうちにそれとなく体験している、隠れている神の働きやお助けなどは、自分の都合や計画、あるいはこの世の規則や慣習などにばかり囚われていては、いつまでも観ることができません。平凡に見える日々の体験の中にあって、何よりも自分に対する神の愛の保護や助け・導きなどに信仰と感謝の眼を向けるよう心がけましょう。それが、神が全ての人から切に求めておられる信仰なのではないでしょうか。「あなたの信仰があなたを救ったのです」という主のお言葉から、これらのことをしっかりと学び日々実践しつつ、神の望んでおられる新約時代の信仰の生き方を体得し実践するよう努めましょう。