2010年10月30日土曜日

説教集C年: 2007年11月4日 (日)、2007年間第31主日(三ケ日)

朗読聖書: Ⅰ. 智恵 11: 22 ~ 12: 2. Ⅱ. テサロニケ後 1: 11 ~ 2:   2 Ⅲ. ルカ福音書 19: 1~10.

① 本日の第二朗読は、テサロニケ教会への第二の書簡からの引用ですが、この書簡が果たして使徒パウロが書いたものであるかどうかは、不明のようです。テサロニケ教会への第一の書簡は確かに聖パウロのものですが、そこではキリストが再臨する終末が突然襲来するように語られているのに、第二の書簡ではその終末はまだ来ていないとして冷静さと忍耐とが説かれており、まず神に逆らう滅びの子が現れ出て、自分を神のように拝ませようとサタンの力であらゆる不思議なことをなし、この世に勢力を拡張した後に初めて主キリストが再臨し、その勢力の支配を裁き、崩壊させるとされています。表現の仕方にも、使徒パウロの他の書簡と多少違っている点が見受けられるので、パウロの名で誰か別の人が書いた書簡ではないのか、という聖書学者の意見もあります。しかし、使徒パウロが、テサロニケ教会で第一の書簡が少し誤解され、世の終わりが近いと騒ぎ立て、多くの信徒たちの心を不安にしたり、同調しない人々に圧力をかけたりする人々がいることを知って、第二の書簡を認めた可能性も否定できません。

② 第二朗読の始めにある「いつもあなた方のために祈っています」という言葉は、テサロニケの信徒団が浮き足立っている心のそのような動揺や内部対立などを、神に対する全面的信頼と、どんな苦しみの最中にあっても忍耐して待つ心とによって乗り越え、主の突然の再臨の日まで落ち着いて豊かに信仰と愛の実を結ぶよう、祈っていますという意味なのではないでしょうか。察するに、現代に生きる私たちのためにも、神をはじめあの世の人々は皆、同様に希望し呼びかけているのではないでしょうか。過去の時代とは比較にならない程文明の機器が大きく発達し、それに適応しようと際限なく改造を重ねている家庭や地域社会などの伝統的組織の中にも、また極度の多様化と特殊化の巨大な流れの中で、統制力を失いつつある現代の国家にも、自分の人生の意義を見出せずに悩み苦しむ人が、増加の一途を辿っているようですから。

③ 十年ほど前からでしょうか、わが国では中高年の人たちの間で自殺者が激増していますが、その理由の一つは、今の世に生き甲斐が感じられないことにあると思われます。自殺した人たちの多くは、子供の時から競争また競争の忙(せわ)しない能力主義教育を受けて来た人たちで、長じても実社会での就職難や実績競争に苦しみ、鍛えられて来た人たちでした。しかし、歳が進んで自分よりも若い意欲溢れる人たちや新しい技術や能力を身につけた若者たちが増え、自分の力ではもう対抗できないのを痛感するようになると、自分の存在意義がどこにあるのかと悩むようになります。人々が家のため、社会のため、国のためと思って働いていた昔の落ち着いていた時代には、その家・社会・国家がいつまでもしっかりと自立していて、所属するメンバーを末長く大切にしていましたから、年老いて働けなくなっても安心しておれましたが、海流のように巨大なグローバル化の流れに家も社会も国家も呑み込まれ、流されつつある現代世界にあっては、生活が驚く程便利で豊かになりつつある反面、各人の過去の働きは次々と忘却の淵に捨てられてほとんど誰からも感謝されず、皆はただ新しい流れに乗り遅れまいと、続々登場する新しい流れを利用しようとのみ努めているように見えます。これが、多くの現代人に生き甲斐を見出せなくしているのだと思います。

④ ではその人たちが、このようなグロバーリズムの時代にも生き甲斐を見出して日々喜んで生きるには、どうしたら良いでしょう。私は、この全宇宙をお創りになった神の働きに心の眼を向け、自分の力よりも、その神の力に生かされて生きようと心がけるなら道は開けて来ると、自分の数多くの体験から確信しています。目に見えない創造神の存在と働きに身を委ね、キリストを通して啓示された神の御旨に素直に聞き従おうとすることは、自分の好みや傾向などを常に相対化しながら、ある意味では自分に死に、自分を神の御旨に絶えず関連させて変えて行こう、高めて行こうとすることであり、パスカルの言葉を引用するなら一種の冒険的な「賭け」であります。しかし、自分中心に考え勝ちであったこれまでのエゴから抜け出て、神の導きに聞き従い、神の働きに身を委ねる生き方に漕ぎ出すと、やがて自分が、今まで知らなかった全く新しい希望と喜びと確信に満ちて生き始めるのを体験するようになります。それは、神がご自身を信じる人にお与えになる、神の命・神の働きへの参与だと思います。

⑤ 「神を信じる」と聞くと、教会という組織の枠に入れられて、様々の堅苦しい教えや規則に縛られながら生きる生活を連想する人がいます。しかし、組織や教義や規則は、様々な誤りの危険から私たちを守って、神の祝福を全人類の上に呼び下したアブラハム的信仰に生きさせるためのもの、いわばガードレールや道しるべのようなであって、アブラハム自身は後の世に広まったそのような理知的組織も教義も規則も知らずに、ひたすら実生活の中でその時その時に示される神の導き・働きに従って生きていたと思います。理知的な頭の知識は現代の私たちよりも遥かに少ししか知らず、自然界や人間社会をごく単純素朴に眺めて暮らしていたことでしょう。しかし、神からの呼びかけ・働きかけに対する心のセンスは、神への愛と信頼によって鋭敏に磨かれていたと思われます。そして神への愛と従順に生きようとする心の意志も、日々ますます強靭なものに成長していたとのではないでしょうか。2千年前の主キリストも聖母マリアも、同様の生き方をしておられたと思います。心が目前の規則や困難・貧窮などに囚われ過ぎず、それらを越えてますます高く神への愛に成長しようと努める所に、キリスト教信仰の特徴があります。

⑥ 全ての伝統がますます多様化され相対化されつつある現代世界に生きる私たちも、何よりもこのアブラハム的・新約時代的な、主体的で自由な信仰生活に心がけるべきだと思います。これまでの伝統にある難しい教理や小難しい規則などは知らなくても、子供のように単純で素直な心で神の働きを歓迎し、それに従おうと努めるなら、神がそういう私たちの心を受け入れ、私たちのために働いて下さる不思議を、幾度も体験するようになります。これが、極度に不安で複雑になりつつある現代世界の中で、神の働きに根ざし自由で主体的な、新しい生き甲斐を見出す道ではないでしょうか。聖書によると、神との関わりは神よりの言葉としるしをそのまま素直に受け入れるよって始まるようです。神から啓示された言葉は勝手に取捨選択せずに、全部そのまま素直に受け入れ、神が与えて下さる洗礼や祝福などのしるしも、幼子のように素直に身につけて頂きましょう。こうして神の子、神の所有物となる人の心に、神が救いの働きをして下さるのです。

⑦ 本日の福音に登場する徴税人ザアカイは、その仕事で金持ちになってはいましたが、異教徒の国ローマの支配のために働く、ユダヤ社会の敵と思われて、ユダヤ人たちの間では肩身の狭い思いをしており、ユダヤ教の教えや律法のことも詳しくは知らずにいたと思われます。彼がいたエリコの町に救い主と噂されている主がやって来られたというので、背丈の低い自分もひと目その方を見てみたいと思い、先回りして大きな無花果桑の木に登り、よく茂ったたくさんの葉の陰からそっと主を垣間見ていたようです。しかし、主はその木の下をお通りになる時、上を見上げて「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」とおっしゃいました。誰もが羨む程の光栄が、彼に提供されたのです。衆目を浴びたザアカイは急いで降りて来て、喜んで主を家に迎え入れました。そしてその喜びのうちに、今日からは貧しい人たちのために生きようという、自分の新しい決心を主に表明しました。すると主は、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。云々」とおっしゃいました。律法のことはよく知らなくても、自分中心の古いエゴから抜け出て、神の愛に生きようとする人は皆、アブラハムに約束された祝福に参与する者、神の子らとして神から愛され護られ導かれて、神の永遠の幸福・仕合せへと高められて行くのです。このことは、現代の私たちにとっても同じだと思います。ザアカイのように、「今日」、すなわち神が特別に私たちの近くにお出で下さるこの日に、神からの祝福を喜んで自分の心の中に迎え入れるよう心がけましょう。