2010年9月26日日曜日

説教集C年: 2007年9月30日 (日)、2007年間第26主日(三ケ日)

朗読聖書 Ⅰ. アモス 6: 1a, 4~7. Ⅱ. テモテ前 6: 11~16.
     Ⅲ. ルカ福音書 16: 19~31.


① 本日の第一朗読は、紀元前8世紀の中頃に多くの貧民を犠牲にして獲得した富で、贅沢三昧に生活していた神の民、北イスラエル王国の支配者たちに対する、アモス預言者を介して語られた神の警告であります。はじめに「災いだ。シオンに安住し、サマリアの山で安逸をむさぼる者たちは」とありますから、神はシオン、すなわちエルサレムにいるユダヤの支配者たちにも、サマリアにいる北王国の支配者たちと同様に厳しい警告の言葉を発せられたのだと思います。これらの警告の20数年後の頃でしょうか、残忍さで著名なアッシリアの襲来で、サマリアの支配者たちは徹底的に滅ぼされ、この時は難を逃れたエルサレムの支配者たちも、その後に興隆したバビロニアの襲来で亡国の憂き目を見るに到りました。過度の豊かさ・便利さ・快楽などは、人間本来の健全な心の感覚を麻痺させ眠らせて、神の指導や警告などを無視させ、怠惰な人間にしてしまう危険があります。人類が未だ嘗て経験したことがない程の大きな豊かさと便利さの中で生活している現代の私たちも、健全な心のセンスを眠らせ麻痺させないよう気をつけましょう。

② 本日の第二朗読は、「神の人よ、あなたは正義、信心、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい」という言葉で始まっていますが、このすぐ前の箇所には、宗教を利得の道と考える者たちに対する厳しい非難の言葉が続いていますから、この第二朗読も、金銭欲に負けないために心がけるべきこととして読むこともできます。例えば本日の朗読箇所のすぐ前の9節と10節には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭欲は、全ての悪の根です。云々」とあります。富と豊かさの礼賛は、心の中に悪霊を招き入れる一種の危険な偶像礼拝だと思います。豊かさの中に生活している私たちも、このことを心に銘記し警戒していましょう。

③ 本日の福音は、先週の日曜日の福音である不正な管理人の譬え話に続いて、主がファリサイ派の人々に語った譬え話ですが、当時のファリサイ派の間では次のような民話が流布していました。ほぼ同じ頃に死んだ貧しい律法学者と金持ちの取税人についての話です。貧しい律法学者は会葬者もなく寂しく葬られたが、金持ちの取税人の葬式は、町全体が仕事を休んで参列するほど盛大であった。しかし、学者の同僚が死後の二人について見た夢によると、学者は泉の水が流れる楽園にいるのに、取税人は川岸に立ちながらも、その水を飲めずに苦しんでいたという話です。察するに、主はよく知られていたこの民話を念頭に置き、そこに新しい意味を付加し、それを新しい形に展開させながら、本日の譬え話を語られたのだと思います。主は以前に、ルカ福音書6章にあるように、「貧しい人々は幸いである。神の国はあなた方のものである」、「富んでいるあなた方は不幸である。あなた方はもう慰めを受けている」と話されたことがありますが、この逆転の思想が本日の譬え話の中でも強調されています。

④ しかし、この世で貧しかった者はあの世で豊かになり、この世で豊かに楽しく生活していた者はあの世で貧困で苦しむようになるなどと、あまりにも短絡的にその逆転の思想を受け止めないよう気をつけましょう。この世で貧しく生活していても、その貧しさ故に金銭に対する執着が強くなり、恨み・妬み・万引き・盗み・浪費などでいつも心がいっぱいになっている人や、貧しい人々に対する温かい心に欠けている人もいます。他方、この世の富に豊かであっても、事細かに省エネに心がけ、無駄遣いや過度の贅沢を懸命に避けながら、努めて清貧に生活している人、生活に困っている人たちに対する応分の援助支援に惜しみなく心がけている人もいます。これらのことを総合的に考え合わせますと、本日の譬え話の主眼は、自分の楽しみ、名誉、幸せなどを最高目標にして、そのためにはこの世の物的富ばかりでなく、親も隣人も社会も神も、全てを自分中心に利用しようとする精神で生きているのか、それとも神の愛に生かされて生きること、その御旨に従うことを最高目標にして、そのためには自分の能力も持ち物も全てを惜しみなく提供しようとする精神で生きているのか、と考えさせ反省させる点にあるのではないでしょうか。

⑤ 譬え話に登場している金持ちは、門前の乞食ラザロを見ても自分にとって利用価値のない人間と見下し、時には邪魔者扱いにしていたかも知れません。それが、死んであの世に移り、そのラザロがアブラハムの側にいるのを見ると、自分の苦しみを少しでも和らげるために、また自分の兄弟たちのために、そのラザロを使者として利用しようとしました。死んでもこのような利己主義、あるいは集団的利己主義の精神に執着している限りは、神の国の喜び・仕合せに入れてもらうことはできません。自分中心の精神に死んで、ひたすら他者のために生きようとする神の奉仕的愛の精神に生かされている者だけが入れてもらえる所だからです。察するに乞食のラザロは、死を待つ以外自分では何一つできない絶望的状態に置かれていても、この世の人々の利己的精神の醜さを嫌という程見せ付けられ体験しているだけに、そういう利己主義に対する嫌悪と反発から、ひたすら神の憐れみを祈り求めつつ、自分の苦悩を世の人々のために献げていたのではないでしょうか。苦しむ以外何一つできない状態にあっても、神と人に心を開いているこの精神で日々を過ごしている人には、やがて神の憐れみによって救われ、あの世の永遠に続く仕合わせに入れてもらえるという大きな明るい希望があります。福者マザー・テレサは、そういうラザロのような人たちに神の愛を伝えようと、励んでおられたのだと思います。

⑥ 一番大切なことは、この世の人生行路を歩んでいる間に、自分の魂にまだ残っている利己的精神に打ち勝って、あの世の神の博愛精神を実践的に体得することだと思います。戦後の能力主義一辺倒の教育を受けて、心の教育や宗教教育を受ける機会に恵まれなかった現代日本人の中には、歳が進むにつれて、この世の幸せ中心の従来の能力主義的「追いつけ、追い越せ」教育に疑問を抱き、もっと大らかな心の余裕をもって、相異なる多くの人と共に開いた心で助け合って生きる、新しい道を模索している人たちも少なくないようです。二、三日前のある新聞によると、名古屋市の職員の中で「心の病」を理由にして長期間休養する例が、最近非常に多くなっているそうです。仕事をするための情報技術の能力は優れていても、その地盤をなす心がその根を大きく広げて、必要な力を供給してくれないと、現代の効率主義社会の中では心にストレスが蓄積して、耐えられなくなる人が多くなるのではないでしょうか。私たちの周辺にもいるそういう人たちのため、本当に幸せに生きるための照らしと導きを神に願い求めつつ、本日のミサ聖祭を献げましょう。