2015年1月25日日曜日

説教集B2012年:2012年間第3主日(三ケ日)

第1朗読 ヨナ記 3章1~5、10節
第2朗読 コリントの信徒への手紙一 7章29~31節
福音朗読 マルコによる福音書 1章14~20節

   本日の第一朗読はヨナ書からの引用ですが、ヨナ書は他の預言書とは異なり、内容は預言ではなく預言者ヨナの物語であります。私がローマに留学していた第二ヴァチカン公会議の頃、ヨナ書の物語は史実ではなく、バビロン捕囚後の最初の律法学者と言われるエズラと支配者ネヘミヤ時代の排他主義的選民思想に反発する抵抗文学の一つで、紀元前4世紀頃に創作されたのであろうと考えるプロテスタント聖書学者の見解が、カトリック教会でも受け入れられ広まりました。その聖書学者によると、アッシリアの首都ニネベの人々が預言者の言葉を聞いて悔い改めた史実は全くなく、アッシリアの王がヨナ書にあるように「ニネベの王」と言われたことはないこと、また「ニネベは非常に大きな町で一回りするのに三日かかった」とあるが、当時のニネベの城壁の周囲は8マイル(13キロ)しかなく、それ程大きくないその町を回るのに三日かかったというのは大げさであること、更にニネベの王が「人も家畜も、牛・羊に至るまで何一つ口にしてはならない。食べることも水を飲むことも禁ずる。云々」の禁令を出したことなども、真に信じがたい話だというのです。おそらく、その通りだと思います。私たちの目前にあるこの猪鼻湖を一周しますと11キロですから、ニネベの町は、それに三ケ日町の中心部を合わせた位の広さに展開していた都市であったと思います。

   しかし、マタイ12章やルカ11章を読みますと、主は「よこしまで神に背いた時代の人たちは徴を求めるが、預言者ヨナの徴の他には徴は与えられない」「ヨナが三日三晩大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩大地の中にいることになる。ニネベの人たちは裁きの時、今の時代の人たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人たちはヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナに勝る者がある」などと、ヨナが実際に大きな魚の腹に三日間呑み込まれていたことや、ニネベの人々が、身分の高い者も低い者も神を信じて、人も獣も厳しい断食をなし、彼らが歩んでいたそれまでの道から離れて神による天罰を免れたことが、史実であったかのようにお話しになっています。聖書学者たちの研究と主の話とのこの違いは、どう考えたらよいのでしょう。学者たちはそれについて黙していますので、私の勝手な解釈ですが、察するにキリスト時代のユダヤ人たちは、ヨナ預言者についての話を史実であると思っていたのだと思います。父なる神の御摂理が、メシアの死と復活などを予告するために、ユダヤ人の間にそのような作り話を産み出して広めたのだと思われます。神の御子メシアはそれが史実でないことを熟知しつつも、当時のユダヤで史実と信じられているその作り話を利用して、ご自身がこれから当時のユダヤ人たちに証ししようとしている神よりの徴について、お話しのなったのではないでしょうか。

   本日の第二朗読に読まれる「定められた時」は、世の終りのキリスト再臨の時を指しています。預言者的な予見の能力にも恵まれていた使徒パウロは、ここではキリスト再臨が間近に迫っている時の状況を予見しつつ、これらの言葉をコリントの信徒団に認めたのではないでしょうか。今私たちの生きているこの2012年は、昨年にも増して経済の深刻化、世界の政治的・社会的動乱、そして地球温暖化に伴う水不足や自然災害の頻発などに悩まされる年になるかも知れません。あまりにも便利に、また豊かになった現代技術文明の中で生まれ育った現代の若者たちは、必要な知識や情報をネットで簡単に入手できるようになっているため、もう昔の人たちのように先人たちの研究業績や著作を数多く収集して細かく吟味したり、まだ解決されずに残されている問題や研究されずにいる分野を見出して、手堅く根気強く研究しようとする人たちが、昔に比べると非常に少なくなって来ているように思われます。発展目覚ましかった人類の文明文化は、そろそろ飽和状態に達しているのではないかという印象を受けます。

   1980年頃から指摘されて来た「活字離れ」の現象は、今では若者たちの間で一般的になり、大学生や大学卒の知識人たちでも、漫画や軽く読める週刊誌や雑誌以外には本に興味を示さず、新聞を読まない人たちも増えています。必要な情報や知識は、ネットやテレビや安価な電子書籍で簡単に入手できるからだと思います。それで名古屋辺りでは既に閉店した本屋や、規模を大きく縮小する書店が少なくありません。執筆することで生活している作家や学者たちも、何をどのように書いたら本が売れるのかと、深刻に悩んでいるのではないでしょうか。こういう状態は、文明文化の発展が若さを失って飽和状態に来ている徴ではないかと思います。極度の豊かさ・便利さの中でこの世の社会にこのような精神的停滞ムードが広まって来たら、私たちは本日の第二朗読に述べられているように、この世のことで泣かない人、喜ばない人、持たない人、関わりのない人のようになって生活し、ひたすらあの世の神に心を向け、神と共に生きるよう心がけましょう。私たちの心は、「この世の有様が」どのような形で変形し過ぎ去って行こうとも、この新しい視点から新たな喜びと希望と意欲を見出すに至ると思います。


   本日の福音は、「ヨハネが捕えられた後」という言葉で始まっています。メシアより半年早く生れた洗礼者ヨハネは、おそらくヨルダン川で主に洗礼を授ける半年程前に30歳になって民衆に悔い改めの説教をなし、洗礼を授け始めたのではないでしょうか。主はそのヨハネから洗礼を受けた後、まず40日間は荒れ野に退いて断食生活を営み、その後ヨハネがいた近くをお通りになると、「見よ、神の小羊を」というヨハネの言葉を聞いて、主の後をつけて来た洗礼者ヨハネの二人の弟子アンデレ及びヨハネと知りあいました。しかし、洗礼者ヨハネはその少し後頃に、ガリラヤと洗礼者ヨハネが活躍していたヨルダン川周辺のペレア地方とを領有していたヘロデ・アンティパス王に捕えられたと思われます。としますと、洗礼者ヨハネのヨルダン川地方での活躍は8ヶ月間ほどだったのではないでしょうか。でもヘロデ王は、獄中の洗礼者ヨハネをその弟子たちが訪れるのを許していましたので、洗礼者ヨハネの宣教活動は、その殉教の日までまだ暫くは続きます。しかし、ご自身の先駆者ヨハネが捕縛されると、主はやがて同様の運命が御自身の上にもふりかかることを覚悟なされてガリラヤに行き、神の国宣教と弟子たちを集め養成する活動とをお始めになったのではないでしょうか。「時は満ち」というお言葉にある「時」という言葉は、チャンスの時という意味です。終末期を迎えている私たちにとっても、今は神へと目覚めるチャンスなのではないでしょうか。